わいの平成詩史 閑話休題

時々ネットは量子力学、と思うことがある。
量子力学のことはほとんど知らないけど、シュレディンガーの猫とかいってみたくなる。

リンクしたことで参照先がブチギレて消す可能性を考慮して、何も書かないようにしたりするとき、わたしはとても量子力学なことしてるなあと思う。

詩はとくになんかそういう雰囲気がすごいする、気がするから、ネット上の賞に応募したやつとか、更新止まってるやつとか、Web Archiveのやつとか、暫定的にでも、あるていど固定されたかのように見えるものをできるだけ参照したいと思ってしまう。

その意味ではcaseさん(香瀬さん? 時々鈴木志郎康の家庭的アイウエオの読解みたいなやつが検索にでてくる人で、ネットの詩のことをまとめてくれてる気がする感じのする人。なんかブログで緑の鳥紳士(鳥人?)みたいなアイコンの人。)のやつとかはすごくうまくアンソロジーになってて、自分もかなりうなづけるラインナップです。これです。

もしなんかネット詩のアンソロジーが編まれるとしたら、「いるかのすいとう」と「君に宛てて」あたりはあるといいなと思ってて、ちゃんとあるから、いいと思う。
なんとなく雰囲気的にはネット詩の賞とか文学極道の優良とか未詳?とか現代詩フォーラムの年間トップ的なやつに独自のアルゴリズム(感性)で選出されたやつなのではないかと推測する。

今本棚を思い出してみてみたら「それとはなしに」という小さな本の奥付に「かせ」と書いてあり、この人とcaseさんという人は同じなのかもしれない。サークル名的に「エクセレント此岸」と書かれていて、たぶん一昨年ぐらいに東京の文学フリマにphaさんを見ようと思って行って他にも詩歌系のブースものぞいて何冊か買ったのだった。ほかには、平成勤労婦人詩集などを買ったりした。
「エクセレント此岸」という名前をみて、嘘喰いに当時ハマってたわたしはなんかたぶん「夜行さん」をイメージして買ったのだった。その夜行さんとエクセレント此岸とはなんの関係もない。わたしの脳内でのことです。

話がそれた。

腹を括ってるっぽいやつか、くくるくくらぬに関わらず操作できないところへと流れついてしまったものを拾い集めるかのどちらかになりがち。そして公開の許諾も得ようとは思わないので個人のHDD(エッチデーデー)に保管されがち。問題。
問題でもないのかもしれない。

浜辺で漂着した流木とか、砂浜に半分埋もれて黒く濡れて突き出している流木の突端に引っかかってるレジ袋やクラゲの死骸とか、外国製の柔軟剤か洗剤かわからへんけどピンクのめっちゃでっかい取っ手付きの容器とか、スズキの腐乱死体であるとか、藻屑みたいなやつとか。
小さい頃はこういうの(藻屑)を海で拾い上げて母に掲げて見せていた記憶がある。っていうか、そういう写真があった記憶がある。

浜辺をゾウリであるくと毎回かかとの砂が跳ね上がり、足の裏に入ってきて嫌だった。
わたしの歩き方が悪いのか、ならない人もいるのか、あるいはみんな「浜辺をゾウリで歩くとはそういうことだ」と平気な顔をしてたのか。聞かなかったからそりゃわからない。



テレパシーの家に育ったという気はする。察する家というか。

そのぶん自由でもあった気はするけど、物音とかに被害妄想っぽくなりやすい性質になってしまった気もする。
でもそのぶん王っぽくもある。ぶ? ぶをわきまえない?
身をわきまえない? ある種の「わきまえなさ」によって掻き分けられてきた人生の局面もあるにはあった。

それは時々わたしを助けた。公的な場面やフォーマルな場面で、そのような性質によって、わたしの弱さにくっついてくるわるい人間を洗い落としてきた。わたしの弱さにたかるわるい人間は、公的な場面にはあまりついてこれない弱さがあった。

だからわたしの家は、わたしが苦しむ理由もくれた気がするし、それを洗い流すすべもくれた気がする。
でも結局最終的に何をくれたかといえば、からっぽをくれた気がする。
全家族の顔も声も思い出も覚えてない。連絡もないので生きてるか死んでるかもよくわからない。しようという気もない。家は急に更地になっていた。その(売った)金をちょっと分けて欲しいなあとおもったけど、ないならないで構わない。

昔からそういう性格だったかな、とは思う。10代前半ぐらいまではまだ家は機能してたように思う。ただわたしは初期からガタガタしてた気がする。ガタガタいうタイプではなかったけど、ガタガタはしてた。
その「ガタガタ」が、ネットではいくらか軽減されるとはいえ、結局気後れして表立ってなにかを語るようなことはあんまりしてこなかった。
今はその反動かもしれない。ずっとその反動かもしれない。

ネットはわたしに親和性のあるメディアだけど、わたしを抜けさせてくれないメディアでもある。アクティブに見えないときもわたしは結構ネットを見てる。昔ほどじゃないけど、やはり漫然とネットを見てしまう。
わたしは自分のネットと生活のバランスについて、人に迷惑かける感じではないけれども、社会福祉的にどうにかならんかな〜みたいなことにはなってるように思う。
孤独孤立少子化相みたいのが、なんか最近できてる気がするけど、あれの案件の人に該当する気もする。けど市民しんぶん区民しんぶん府民しんぶんとか見ても現役世代向けのことはあまり書かれてない。
自分であがけ、という感じ。
わたしもこのままいくと死ぬ気がするけど、何をどうしたらいいのかいまいちわからない。働いてお給金もらって人に迷惑をかけずに生きているというか、お金ばっかり払って情緒的繋がりがまったくないというか。

欧米では、イギリスだったか、定年退職した老人男性たちが材木を置いたところに集まってみんなで日曜大工的なことをする場所があるという。

男性の孤独解消に効果が高いと注目を浴びたのは、「メンズ・シェッド(mens’ shed)」です。これは、「男たちの小屋」とでもいうのでしょうか。ひとことで言うと、定年退職した男性の居場所作りですね。定年後の男性はとかく孤独に陥りがち。そうした方々が定期的に集まって、大工仕事を一緒に行う。

「イギリス 孤独 定年 木」で検索したら出てきた。

なんかストレートにそういう所にいってしまいそう。もうちょっと、自律的に舵を切って、もがけないものかなと思う。
もがくというのはつまりプライドをなくして勇気をもってなんかだれかに話しかけるみたいなことである。

中年男性の孤独、中年危機、チャンスはピンチ(タラレバ娘by東村アキコ)。

「まあどうしたもんかな」と、悠長な言い方をすぐしてしまうダメな男。

男たちというほど男でもない。男の末席にいたので、男たちの世界から離れよう離れようとしてきたはずなのに、昔のサラリーマンの定年の仕方と同じような孤独のところに行きそうで結局は幼き頃の経験や、生まれ持った素質や気質なのかとも思う。

(わたしにはいつも)インターネットの詩に拘うときの根っこに、なんかこういう気分が絡んでる気がして、素直に寄り付けない。
だから、そういうのがあんま関係なかった時期のことばかり、しかも気後れして、見るばかりだった頃の記憶をずっと書いてる。
うまく海に戻れなかった藻屑みたいなもの。

情報の海に溺れそうになったらとりあえず浜辺に上がるのがよいでしょう。でも、浜辺に上がった人がもし、私が適応できなかった海は虚妄であると吹聴するなら、その人は残念ながら、進化に取り残された悲しい嘘つきです。真実の在りかは、そう簡単に示せるものではないし、そもそもあるかどうかさえ人により考えが違います。
まあ、少し器用に海を泳げたくらいで海の全てを語る憎むべき嘘つきは私も大嫌いです。
2015/08/16 19:27追記---
付け加えるなら浜辺に上がる人を侮辱する人も大嫌いです。

鵜飼さんという人が、いつかの現代詩フォーラムのコメントに寄せてた言葉だけど、これを肝に銘じつつすこし踏みにじるというか、そういう書き方をしている。
ちょっとなにかに抵触する(引っかかる)ことを予感しながら、おおかたほっとかれるであろうと予測して書いている。
ここでいう「情報」と「浜辺」というのを、インターネットと生活というふうに置き換えてもいいのかもしれない。
その意味でいくと、わたしは浜辺に取り残されたのではなく、うまく浜辺に上がれなかったもの、というふうになる。
そして、わたしは海(インターネットの詩のこととか)のすべてをできるだけ語らないし、そんなんできるわけがないのは承知しているつもりだけど、時々、しょっちゅう、したり顔で語ってしまってるふうに書いていることもある気がする。
反論があるとしたら、嘘をついているつもりはないし、嫌いになられるのは嫌だなあ、というぐらいである。そして、浜辺に上がる人(情報の海から離れる人)を侮辱する人に、少しはなりたいときもある日もあるさ、とも思う。人間どうやったってそんなに毅然とはしていない。
今ではそこまで情報と浜辺の距離をそこまで感じないから、ある種のプラットフォームから降りる、解約するといったイメージ、見る風景を変える、意識的に寸断するということだ。
だから、「浜辺に上がる人」とは、生活環境を変える決意をした人間であり、かれらをなじるな、ということでもあるし、情報の海のことを安易に語るなという戒めでもある。
それはわかる。

ここと、中年の孤独が絡んでくる。中年というのは何かとどうでもよくなってくるというか、いじけてくる時期である。丘をのぼったらだいたいみえてきて、ああ、こういう感じか…みたいな感じである。
まあ色々悶着や執着はあるだろうけれども、それでも間に合う間に合わない&そんなの関係ねえなどのルーレットがたくさん回転しだして、イタイと思われたり、好きなことをやり始めたり、何かと慌ただしい時期である。
その一環として、海のことを安易に語ってみたりもするのだと思う。
ただ、浜辺に上がる人のことをとやかく言うことはないだろう。
心の中で思うだけにとどめている。
それはなんか、伴侶を得るかどうかによって、簡単に男性的な機能や社会的な役割のほうに寝返ってしまったかのように映るけれども(わたしが情報の海から上がる理由をそれしか思いつかないことも、相当に男性性を内面化してしまってる証左なのかもしれないが、しゃあないやん…ほっといてんか)、かといって、そういうことを何もしてこなかったのだから、家族というものが誰もいない環境にこうやって自らを移動させてきたのもわたしなのだから、それもそれでしゃあないやん、というやつである。

ボーイズオンザランの10巻の表紙みたいなのがわたしにとっての「浜辺に上がった人」のイメージ(ど偏見)であるが、かといって、わたしが矜持をもって海にいるわけでもないということである。このへんは非自発的なんとかにも繋がってくるかもしれない。

結局インターネットは「期間内に仲間を見つける」みたいなことに使えばよかったな、と思う。まあそれを直でやってるのがマッチングアプリだが、もう少しぼやけた形でも、同じ位相、クラスタの人と、尊重し合いながら、いや、アイアムアヒーローの1巻的な関係でもいいけど、なんか関係があったほうがよかったのかもしれない。
とは、時々思う。
と書いたけど、別に思ってないな。。

申し訳ない。思ってない。

かといって、これでいいのか。これでいいとも思ってない。そこそこいいとは思ってる。ひきこもってる時よりは、60歳まで一気に記憶をとばしたいと願ってたころよりは能動的に生きてる気がする。でもそうじゃなくっても一向に構わなかった気もするし、そういう生き方をしてる人がいたからといって否定する気は起きない。しんどかったらかわいそうだけど、しんどいけどもうきちゃったっていうんならそれはそれでしゃあないと思う。
あかん、とは思わない。
その意味で、浜辺と海のことをあんまり差別しようとは思わない。
わたしはひとりで苦しんでる人がいる海のことは批判しようと思わないけれども、仲間を見つけて海のことが軽んじられたりするんじゃないかという変に無駄な警戒をしているひとというか、すごく過大に価値を置いている人みたいになってるかもしれない。

そうじゃなくありたいと思っても、なんかそうなってしまう。
それが仲間がいないからなのか、そうじゃないのか。
仲間が奪ってくる時間を自分ひとりなら全部有効に使えるのか。
たぶん無理で、何か、こう、時々、休みの日の夕方、日帰り温泉の駐車場で車のキーをぴっぴ、とやって、先を駆けている子供とか歩いてる嫁の背中を見ながらビニール袋とか手提げを両手に持って「ああ、なんか、いるなあ」「ああ、なんかいる」「よかったなあ」みたいなよくわからない安心感というか幸福みたいなものを、あじわわないといけないのではないか?みたいなことである。

そういう力というか自信というか、わたしにはそういうのは無理だと思った。途中で疲れて絶対怒鳴るか鬱になって消えるかして迷惑かけて離婚するか、疲れて子供を無視して子供が変になったり、DINKSでも嫁に疲れて途中でうとうとしてブチギレられて逆ギレして離婚するか、なんか未必の故意的なことをしでかしてしまいそうだし、自分はとにかく無理! なんである。

わたしはとにかく自分優先なので、眠気とかも眠くても人を優先するとかはないのである。そういうモードは搭載されておりません。
時々高速で深夜になっても絶対眠くならない人、ねっむ!とか言いながらキリッとしてるのがインストールされてる人とかがいるが、あれは一体なんの差なのだろうと思う。
ああいうのがなんか、自信とか基本的信頼感とか呼ばれるやつなのではないか?と思ってしまう。
わたしは何人乗ってようがモードは切り替わらず、眠くなったらちゃんとうとうとする人間である。
義務感とか責任感でシャキッとしないタイプの人間であるし、覚醒もしないので、海になじみやすく、浜辺を敵視しがち。
海にはなんか本音が多い気がするし、浜辺に行くひとをみると稲中の前野のようなものが勃発してしまうことを抑えれない。
一時期パチンコにもハマってたが、あれも海である。
牙狼と海である。
昨今のパチンコ台というのはARMSのアザゼルのように人とコミュニケーションを図ろうとぐんぐん迫り出しているのでバラエティコーナーとかを見るとほんとすごいことになってることがある気がする。

パチンコとパソコン。どちらも盤面に入力することによって結果が出力される装置である。制限されたコミュニケーションの中でこそ安心できる人間というものがいる。そういう人間が一歩踏み出したとき、「ケッ」と思う人間がいる。ファイト一発で絶対手を放すタイプの人間がいる。ギリギリまで粘ったのに、周りから「わざと放した」と言われ続ける人間がいる。
わたしは「わざと放した」と言われ続ける派に所属していた人間なので、人間が嫌いなので、面従腹背で甘い汁だけを吸いたいし、なんかあったら善良なふりをして福利厚生だけはばっちり受けたりして社会には何も返さないようにしたいけど税は取られてるから勝手にさせてもらってる。
とはいえ、あと数年、長くても十数年で自分は会社から追い出される方向にいくだろう。世の中的にそんな気がする。
それまでにどこか、なにかに先鞭をつけておかないとつぶしが効かないなと思ってる。
それなのに、なぜかネットの詩のことをずっと書いてる。
もう何回も書いてるようなことをまた書いてる。
壊れラジオ状態である。

雨が降ってきた。
山も色づいてきてる。
まあ不幸ではない。すべては「先のことを考えると」みたいな話である。

これは鈴木志郎康さんが「日没の印象」で使ってる曲らしい。

今日も結構夜になってしまった。ここ数日書き継いできて、またよくわからない文章になってしまった。
最後に書いておきたいことだけ書いて終わりにしようと思う。

そもそも詩を読んだり書いたりすることは非常にAI的な行為である
統計的な平均人として立ち上がる誰かを待つ行為でありながら
自らを癒したり貶めたり傷つけたり
そういうのとはまったく別という人もいるから
まあなんでもいい
推敲やそぎ落としはイメージを立ち上がり易くするため
間口を広げるため
例を端的に析出することで、できるだけ多くのものをとらまえる網のように抽象的表現や代名詞、属性を指定したり、あるいは手放したりする

スリルドライブの目的は大破ではなく走破であるが、醍醐味は大破であって走破ではない

谷川俊太郎はスリルドライブを走破するほうの人である
詩は別に大破してもいい
走破した詩は…
だから欠落感なんだよ、とは思う。

詩を読んだり書いたりしているときのわたしたちは
当事者性がちょっとだけ担保されたAIのようなものになってる気がする

距離感で作家性と当事者性を行きつ戻りつしながら
そのときどきの「欲しさ」に拠る
欲しさは居場所に拠る
居る場所によって、ちょうどの欲しさを満たす位置、クラスタを目指す。

うまくいけばうまくいくほど
だからこそ
「人間じゃないな」と思ってしまうときがあるような気がする
でも、だからこそ、先人が言い当てるそれ、先取りされたかのようなそれに
再現性が伝染する

チューニングされ、漂白されたそれ

雀の罠みたいに
ざるを…棒で…米で…待つ、開かれるまで待つ

わたしたちは当事者性を装った作家性と作家性を装った作家性を互いに慰め合うために批評し合う。そのときのわたしたちはウェットで、バウンドしない球をどうやって弾ませるか、その手口や書き口ばかりがうまくなっていく。紙幅を費やすことばかり長けてく。実直なふりだけが長けてく。そうやって捌き切ったあとに残る荒漠な場所に行きたくないなと思う。でも会いたいときもあったりするから持続しなければならない。覚悟に答える人数が少なすぎるのかもしれないし、忙しすぎるのかもしれない。
えらい人が少なすぎるのかもしれないし、暇な人が多すぎるのか少なすぎるのか、それもよくわからない。
でも誰かが言及しないとなかなか出てることにも気づけないぐらい出てる。悲しい。こともない。なんなんでしょうねとも思うし昔っからこうやったんちゃう?とも思う。

いいところを探すのはわたしの仕事だが、いいところが見つかるのが詩なのか、わたしの仕事なのかわからなくなる。読み切るまえに、なんとなく押したほうが早い。
歳月、ポータル、SNS。ぐるぐると同じようなことをなぞる。いまだに4月にはいっせいにいろいろ起こるようになってるから、それの知恵とかがまた浮き上がり(バズり)、毎年毎年ブックマークしたりいいねしたりしてずっとぐるぐるしてる。
一個でいいとは思わないけど、時代とともにずり下がっていくものにピッケル刺すのは諦めてるの同意な気もする。
できれば一意を携えたい。短い小気味フレーズで、かつ構文やミームではないもの。それが詩のような気がする。
生きるために使えるフレーズ。知恵じゃない。
すこし自分のなかで生きるためのテンポやリズムを一時的に供するフレーズ、そしてそのときの記憶を少し引きずりだしもするフレーズ。

(つづく)

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