日記メモ
まあ、最初の方しか読めてないのだが…
これらの文章の「日記」を「詩」に置き換え、媒体にインターネットを想定した場合にも、ほぼ通用するのではないかと思って引用した。
ぼんやりとだが、日記やインターネット上の詩、 人生雑誌や個人誌やZINE、同人誌といったものの繋がりや境界というか、個人が表現する、あるいは個人が表現するともなく行っている表現ともいえないようなもののなかにあるもの、その始原、つまり自分自身の来歴をもう少し総体的に位置付けて、あるいは意味づけてみたいという欲。
そこにあかるみとかくらがりがあり、なんだかんだ言って出版、発行を目的とするものはあかるみを目的としている。それは自分を壊さない。うすくらがりのようなもの。あかるみに晒されると壊れてしまうもののために、名前を差し出す。
日記の反復性、co-jin
フォルム、型としての日記、訓練やモノに近い日記、内面へと離陸しない代わり、行為そのものの反復することへの重要性は本人に残る?
名前と日記が紐付けされる空間で書かれる日記、あるいは名前と日記の内容が紐づいても構わない日記。SNSと日記の違い。
私は「インターネットには人前で言えることしか書いてはいけない」という言葉があまり好きではない。そんなこと誰が決めたの?と思ってしまう。ただし、自分の身と内容の緊張関係が名前だけで担保されている状況がいいことだとも思わない。できれば最終的にはすべて繋げてしまいたい(砂場のトンネルを開通させるように)という欲。それが定年後になるか、社会生活からの離脱・破綻によってなのか。
アウトロー、アウトサイダー、あるいはアート、アカデミックなところに行かなきゃなかなか名前と内容を結びつけることが叶わない。
鈴木志郎康さんは、書くということは基本的に社会とバトることだと書いてたような気がする。『極私的現代詩入門』を読んでると、なんか働きながら書くことについての理路を、辿るように読むことができる。
「バトる」をまろやかに言えば「折り合い」というやつで、働きながら書く場合はやっぱり時間と空間の確保が重要ですし(とはいえ現代ではスマホに書けるし、同期させれるし、昔よりはすごい楽になったと思うのだけど、逆にそのせいで、とっ散らかるかもしれない)、ある程度はひとりで棚卸しする時間が要る。
時間と空間を何に振り向けるか。自分自身の行為、外界の出来事、内面の吐露の記録と編集にそれらを費やすということ。
書くことの管理を個人が行い、取捨選択や公開あるいは抹消の選別を行っているが、炎上あるいは出版した場合、個人と発言が紐づけられ抹消できなくなる。
ポンペイ展。抜けたあとのグッズ売り場。炭化したパンのもふもふしたグッズ。しりあがり寿やポムポムプリンとのコラボ。ポンペイの人からしたら「なんなん?」っていうか、まったく想定してなかった展開だろう。
なぜポムポムプリンとかいうのとコラボさせられてるのか。
モザイク画。賃貸物件の広告。
私の日記はのこらないだろうなぁと思う。でも書くのはやめないんだよなぁ。
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