わいの平成詩史(だだ書き) 5
インターネットの話ばかりしているが、ひきこもりのときはほとんどインターネットばかりしていた。
インターネットに接続したのが1999年。そこから専門学校、ひきこもりとつづく2004年あたりまで、わたしはインターネットばかりしていた。
焦燥にも駆られていた。
このまま家から出られなかったらどうなるのか。
記憶が飛んで60歳ぐらいになってたらいいな。
そういう感じのことはよく考えていた気がする(余談だが、2019年のM-1グランプリ アナザーストーリーで、M-1当日、山内がタクシーに乗り込んで窓の上の取っ手を握りながら「記憶が飛んで優勝してる場面に飛んでたらいい(大意)」みたいなことを言っていて、なんか懐かしく感じた)。
*
そんななか、詩のサイトにアクセスし始めた。ぽえ会(日本WEB詩人会)に2001年9月に入会して、2002年の4月にネット詩爆撃プロジェクト(以下プロジェクト)で、他にも同じようなサイト(つまり投稿サイト)があることを知ったのだと思う。
それ以前にも芸術系サーチエンジンやその他のウェブリングによって、なんとなくその存在には気づいていたのだと思うが、はっきり意識したのがその時だったのだと思う。
ぽえ会のルールでは、先に投稿された詩にコメントをしてからじゃないと詩を投稿してはいけなかった。
しかし、プロジェクトは一方的かつ機械的に、現代詩人の作品を投稿するという企画だったため、ぽえ会では炎上して(この頃は炎上という言葉はなかったけど、今思えば"爆撃"に対しては適切な比喩かもしれない。)、物議を醸した。
特にぽえ会では自治を大事にしていたので、なんか急に平和な村に本当に爆撃機が飛んできて勝手に畑に爆弾を落としていったような感じだった。
落とされた爆弾(詩)は野村喜和夫さんの第九章告別を特に記憶している。落とされた作品名を記憶しているのはこのひとつだけだが、どの詩人の詩が投稿されたかは、こちらを見るとわかる。
(当時のネット詩爆撃プロジェクトのサイト)
*
確か、これに関しては4月に「ネット詩爆撃プロジェクトから20年が経つ」みたいな記事を書いた記憶があるので、そこと被る気がするので、そちらを読んでほしい。
*
で、当時の「爆撃された側」の感情としては、非常に義憤に駆られた。平和なぽえ会になんてことしてくれたんだ、しかもルールも読まないでなにが現代詩人だ、しらんがな! という気持ちだったと思う。とにかく煮えくりかえっていて、野村喜和夫さんのサイトで本人の写真を見て、こいつかー!みたいになっていた記憶がある(サイトに風に吹かれながら目を少し細めてる写真があった)。
それで抗議文と抗議イラストをしたためて、投稿しようとしたけど、ギリギリのところで踏ん張ってお蔵入りさせた。今思えばそれでよかった気がする。いや、ほんとうはやったのかもしれない。
記憶を捏造していて、ギリギリやらなかったことにしているのかも…。わからない。
さっき野村喜和夫さんのサイトまで見にいったと書いたわけだが、結局爆撃プロジェクトの主旨に沿うように、わたしはぽえ会の外があることを知り、その周辺を見にいくようになった。
この頃は、まだ「偵察」だった。爆撃した国に偵察をするためにこっそりとぽえ会を抜け出しては、他の投稿サイトの外観とか雰囲気、いわゆる現代詩人と呼ばれてる人たちのサイトの外観や雰囲気をのぞきに行くようになった。
そうやって少し「村」にいる時間が減った。とはいっても、インターネットは実際に居るわけではないから、誰にも気づかれるわけでもない。
自分の中の「ぽえ会に所属しているー」という帰属感や、周りがなんかわちゃわちゃしている感覚を実感することで、場所の感覚がもたらされているようなところがある。実際は非同期的な置き手紙の連続であるのだが、それこそ、田中修子さんが書いていたように、学校で、誰がどの時間にここで食べているとか、そういう習慣のようなものがうっすらとわかってくる。そのようにして、帰属の感覚と場所の感覚が根付いてくるのだと思う。
とはいえ、わたしは先生としか喋れないみたいなところがある子だったから、つまり、みんなと仲良くできるわけはなかったから、むしろ純粋に帰属の感覚のみでその場所に居ることのほうが多かった。
後年、合評会に参加することになって、駅の近くの居酒屋さんの座敷でも、酔っ払って寝転んで目を閉じて周りの声や喧騒だけを聞いているときが心地よかった。あれも、帰属の感覚に近かったように思う。
なんかずっと帰属って書いてるけど、もしかしたら、所属と書いたほうがよかったかもしれない。
ただし、これはややもすると典型的なサリーマン根性みたく、「俺は○○商事の◯◯だぞ!」的な、退職した途端後ろ盾を失ってクライシスに陥る人になっちゃいそうな雰囲気もある。
(わたしは、最初はそうじゃなかったけど、むしろ真逆のところから始まったはずだけど、結果的にはその道を辿りそうな気配はある、なんとかして横道に逸れたい…!)
実際そうで、わたしは結局人に流れつかず、いまだに所属の跡を辿ってこうやって何度も記憶を辿り直すことばかり繰り返している。
ちゃんと生活に戻り切ることができなかった。
おそらくインターネット上で、詩を続ける人の中で、生活に戻れない人というのが一定の割合でいて、そういう人ほど、ずっと同じようなことをずっと言ってるような気がする。これはわたしも含めて。ちゃんと寂しいと言って人と向き合えばちゃんと帰れるかもしれないのに、なぜかどうしてもそれができない人。それはそれで「人ってこういうものだよ、人は寂しくなるし人を求めるし、なんといっても人はひとりでは生きていけない」みたいな、お仕着せのようで、まるまる拒否してしまうのだけれども、その中のどれかはときどき合っていることもある、気もする。
けれども、結構はぐれてしまったし、当時の人とも会うことはなかった。
オフ会に誘われたこともあったけど、ひきこもりの私には厳しかった。
「痩せたらいこう、対人恐怖症が治ったら、ひきこもりがなおったら…」「今は無理」という感じで断ってしまった。
話がちょっとそれた気がする。もどそう。どこに?
偵察の話である。
わたしはネット詩爆撃プロジェクトの企画サイトから他の投稿詩サイトや詩人のサイトを見にいくようになった。片野さんの現代詩フォーラムは、この企画サイトと同じドメインで、ちょうど一年後に始まるわけだが、この頃にはまだなかった。
何があって何がなかったか。
当時はまだ「はてなダイアリー」は始まっておらず(当時はたぶん、アンテナが始まるぐらいの頃だった)、ネット上の詩のサイトでよく使われている日記サービスは、エンピツが多かったような気がする。単に、わたしがエンピツで書かれた日記を好んで読んだ、ということかもしれないが。
偵察するうちに、わたしは人の日記を読むようになっていた。投稿掲示板も見るには見るけれども、気になったら投稿者のサイトに行って、その日記を読むのが最も人となりを知れるし、更新頻度的にもコンスタントに景色の変わるところだったから、自然と、そうなっていったのだと思う。
*
これとはまったく別路線で、専門学校のイメージフォーラムのフライヤー的なもので鈴木志郎康さんを知って、家で文学全集にその名を見つけるという流れもある。こちらはリアル路線で、偶然性のある路線である。ただし、こちらも鈴木志郎康さんは1996年に自身のウェブサイトを作成しており、インターネットでもわたしは鈴木志郎康さんを発見することになる。
一昨日、写真アプリを見返しながら、なにか当時の資料がないかなーと思って見ていたら、イメージフォーラム2001のパンフレットをスキャンしたものが残っていた。
これには自分が一番びっくりした。
あのとき、自分は見ただけで、家に持ってかえった記憶はまったくなかった。
*
わたしの詩(正確にいえば詩を書く人とその作品)に関心をもつ原点のひとつがこれである。
ここで「極私的にEBIZUKA」鈴木志郎康という文字に無性に惹かれなければ、わたしは全然別の人生を送ってた
いや? そんなに変わらないのかもしれない…?
案外変わらないかもしれないな。外見的には変わらないのかも。
基本的に、詩に触れている自分というのを誰かに見せることがなかったから。ほとんどこのことはこっそりと、プライベートに、勝手に私淑しながらやってきたから。
だから、もし仮に、今ここに、鈴木志郎康を知らない自分と巻かなかったジュンを置いたとしたら
ぱっと見はまったく同じなのかもしれない。
*
こうやって書いていくと、インターネットというものや鈴木志郎康さんは、わたしの学校というリアルな環境からつながっていて、インターネットに接続してからのぽえ会→爆撃→ネット詩という流れは、それとは別に生まれたわけだが、どちらもきっかけは偶然によって支えられている。
ぽえ会にはメールを送らなければ会員にならなかったし、当時のわたしがなぜ ぽえ会を選んでメールしたのかも意味がわからない。謎である。
そして、わたしがイメージフォーラムフェスティバルのパンフレットを見なければ、見ても、鈴木志郎康「極私的にEBIZUKA」に惹かれなければ、何も起こらなかった。
(いや、実質、わたしの内面以外では、何も起こってないに等しいんだけど…)
*
で、これらのルートは鈴木志郎康さんのサイトで結びつくことになる。プロジェクトの参加者のひとりである清水鱗造さんは鈴木志郎康と近かった。
「近い」と書いたけど、これはわたしの中のインターネット上の土地勘のようなものに照らし合わせて、「近い」と書いた。
鈴木志郎康さんの周りの、というよりは清水鱗造さんの周りの人が作っているインターネット上の詩の雰囲気というのは、現実で詩や出版の活動を行なっている中高年(当時)にさしかかる人たちが集っている地方、というイメージだった。
このあたりの感覚の裏写しというか、反対側から見た景色が、今号のりりじゃんの平成詩史覚書には書かれているような気がする。
つまり、同人活動や詩人たちとの出会いからインターネットへ向かう人たちから見る景色と、インターネットから入っていって、現実に活動している詩人たちが作ったウェブサイトに訪れるわたしたちから見る景色。
簡単にいえば、最初から名前を明かしていて、すでに(フィジカルな)作品があり、その作品に携わった編集者や出版社(者)なども含めた、わたしたちより長く生きている人たちのコミュニティのようなものが形成されている光景をまのあたりにして、当時は特に何も思わなかったけれども、感覚として「ああ、こういう地方もあるんだな」というのがあった(のだと思う)。
で、ここがややこしいのだが、このあと「紙媒体VSネット」みたいな話が出てきて、やはりわたしはネットのほうの肩をもつことになる(といっても現実的な影響は特にない、信仰の問題)のだが、先に書いた地方には、それが適用されないという点。この地方は、ネットに書かれたものはやっぱりダメだ、みたいなことは言わない。ネットに対する理解というか親和性が高い人たちだった(まあだからこそ自身のサイトをもってるのだろう)。
あともう一点。わたしはぽえ会という平和な村で爆撃を受けてキレて外の世界に偵察に出かけていった。だから、構造的には「俺(ぽえ会)VS「紙媒体VSネット(とか言ってる奴)」みたいになっているところがあった。
この対立構造に対する不信感が解消する出来事があったのだが、とりあえず5000字ぐらいになってきて疲れてきたので今日はいったんここまで
(つづく)
【書いているうちに使わなくなった箇所】
まあインターネットは別に物理空間ではない。
平和な村だと思ってた場所も、実際は場所のように感じるし、移動すれば、なんか自分の脳内で、この地方は…みたいなクラスタの寄り集まった感覚がついてくる
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?