0717

あさ。本当に日曜なのだろうか。体感的にはめざましテレビがありそうな感じである。エレン(仮)はなんか昨日からキレ気味である。
昨日夕方のペレット補充の際、ペレットで無になるだろう…と思った隙を突かれ、ケージの外に抜け出して壁外調査に出てしまった。ペレットを半がみでフェイントかけるという高度な技術であるが、知能をこんなふうに使わないでいただきたい。いや、ただ、ペレット食べてる最中に「いける!」と思っただけかもしれないけど。
ペレットを与えれば無になるとか思い込んではいけなかった。
まあ壁外にたまたま届いたばかりのサンコーの木の家があって、そこに入ったところを手で蓋をしてまたケージに帰らしたのだが、その前段で捕まえるときにプキー!とか言われすぎたので、たぶんそこで今までの信頼はご破算となってしまったっぽい。
ときめもでいえば爆弾である。
今朝は名前を呼んでもなんか歯をカチカチ鳴らしたりしている。
名前に反応して寄ってくるものの、お互い「なんかちがうんだよな…」って感じ。びみょうな距離感である。エレン(仮)の葛藤を感じる。
もうエレン(仮)にはわたしは後景であり、外への興味のほうがメインなのかもしれない。時々名前の名残できてはくれるものの、昔(おととい)の感じではない。さみしい…。

なんせエレン(仮)なので壁外調査したいのかもしれない。195→187。たぶんこれは砂浴びケースの蓋(10g)が入ってなかったからだろう。なので185g→187g。ペレットは9gのまま、バミューダを少なめに敷いて、上から多めにチモシーで覆う感じにしといたらどっちもバランスよく食うだろうみたいな。

昨日は陶製の容器にたまたま入ってた自分の糞を齧り出して「えっ…」と思ったら気づいて放り投げたのを見て笑ってしまった。わたしのひきつる横隔膜につられてエレン(仮)もなんか鳴いてるといった状態だった。
まあ餌食べてるときは見境なくなるのだろう。

あとは給水器の中に入ってるボール(銀玉)を一個とりのぞいた。なんかそのほうがよく飲めてる気がする。銀の筒状の飲み口の先に、ボールペンみたいに銀の球が入ってて水を抑えてるのだが、筒の中にはもう一個球が入ってて、二重に水を抑えるような構造になっててまどろっこしい、気泡がたまると銀玉が動いて水と入れ替わり先端に供給されるような構造なのだと思うが、もう先っちょの銀玉一個で十分じゃないかと思い、筒の中の球をとってしまった。それで水がダダ漏れというでもなし、エレン(仮)がずぶ濡れてるようなこともなく寧ろ飲みやすそうにしてるので、これでいいかなと。
あとビタミンと乳酸菌は浄水を入れたペットボトルで希釈(シェイク)して冷蔵庫で保管するほうが濃すぎない気がするのでそうしてる。今は500mlのクリカイに入れてるが、これは鮮度的にコンビニのちっこいペットボトルとかにして、2〜3日で使い切れるようにしたほうがわかりよいかもしれない。
あとエレン(仮)は好奇心と食欲のコントロールというか優先順位がつけれるっぽい。ただこれはわたしへの信頼度が下がって警戒心が上がったためであって、信頼があればまず食欲が優先されるのだろうな、という感じはする。

まあとはいえ、これからも一緒に暮らすわけなのでなんらかのスタイルはできてくると思うのだが。信頼がなくなるというか、なかったことになるとかいうことはないのだろうなーと思う。ただもう溶けたり堆積していくだけというか。

他者と生きる。終章の手前まで読んだ。「自分らしさ」にはそもそも他者の承認がいる(当たり前すぎることや規範に沿ったことに「自分らしさ≒あなたらしさ」の称号は付与されない)。現代の法や権利といったものは個人主義的人間観に立脚して付与されており「自分らしさ」との相性が良い。
自我やわたしの概念がない地域の、人類学のフィールドワークを参照して、関係論的人間観というものを示しながら、自分らしさのもとである「わたし」というものの実体のなさを浮き彫りにしていった、ということなのかな。最後の方は難しかったのでもうちょっと考えないといけない。

統計学的人間観は個人主義的人間観を土台としてもっているが、関係論的人間観は「人」のあいだの関係性や発現するもの、うつろいそのものに人をみる人間観であり、個人というものを規定しない。
かっちりした個人、自我、私といった概念に立脚する個人主義&統計学的人間観に対し、ふわっとしてるけど確かにある関係論的人間観。
自分らしさというものは関係性の中にしかないものだが、なぜか現代では個人主義的人間観の文脈で用いられている。
もし自分らしさというものを誰かに見るときには、そこに関係する人たち、つまり「わたしたち」があるひとに対し、規範や常識に捉われずある姿勢を貫こうとする態度に「自分らしさ」を感じるのだから、本来それは「わたしたちらしさ」というべきものなのではないか? というような話だったのだろうか。

昨日もこのちょっと手前のページを会社で読みながらおもってたのが文化依存症候群と、この人類学で見る、個人やわたしという概念のない地域によって、その地域での人の捉え方の違いで、そこに加わるショックで起こる波紋の形が変わり、そこで独特な、文化依存症候群というものが発生するのかな、みたいなことを考えていた。日本なら世間、という捉え方のなかで対人恐怖症があり、欧米なら個人、という捉え方のなかに拒食症があり。
これはすごい単純な捉え方だが、ここに小川さやかさんがなんかアメリカの荒廃したところになぜかマツタケが生えてきてヒッピーみたいな人が採って経済が回ってるみたいな話で、日本の世間のなかに個人が入ってきて日本にも拒食症が生えてくるというか、なんかそんなことを考えていた。
最近会社にいても「荘園だよな」と思うことが増えてきて、世間というものにも納得せざるを得ない部分も多く、リスキリングよりこの荘園内でつぶしのきかない属人的な関係性と表面的な成果主義の中で少しずつぐり、ぐり、と転換がにじりよってきて、自分は驟雨の向こうに別の荘園を見ることができない。いろんなところの広告にあなたの価値を測ってみませんか?みたいなのがいっぱいあるけど、自分には何もないと思ってしまうけれど、これもマツタケで、荒廃した自分の中にも実はマツタケが生えてるかもしれない。荘園の世間で暮らす個人の中にもそういうものがあるかもしれないのだが、リフレーミングしないと(他者と生きないと)その像は見えてこない。

小川さんが言ってたのはこれのことかな…。ただわたしの聞き間違いでヒッピーって書いちゃってるけど、本来はベトナム戦争で逃れてきた難民の人たちみたいです。
インフォーマルとかノンスケーラビリティ、プレカリティみたいな言葉を聞くとなんか不定形のものや暗渠のようなもの、闇というか、を感じるけど、会社にいながら、どうやってこういうことを落とし込んでいこうというのか俺(ライン工)は、という。
ペリフェラルな人たちとブルシットジョブな人たちの成り立ちの違い、それって仕事として翻訳されるときのフローの差なのか。

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