0522

零細企業に勤めるわたしは窓際の食堂で景色をみるともなく飯を食っていた。(零細企業なので?)窓の外には家並みがある。食堂で飯食ってる窓の目の高さにちょうどアンテナがある。雀がとまり、時折くちばしで脇を掘ったりしてる。

それにしても、雀、かれこれ3分ぐらいずっといる。時々こっちもオーラ(存在力によって、ズッ…とかゴゴゴゴ…などを発生させる)で威嚇したりしているのだが、動じない。
わかった。
これはもう元人間である。雀の中にアクリルをこぶしで全力で叩きながら「お"れ"だ"よ"ぉ"ぉ"」みたいな「な"ん"で"わ"か"っ"て"く"れ"ね"え"ん"だ"ぁ"ぁ"」みたいな、藤原竜也みたいな人格が、雀という桎梏のなかで必死にもがき、訴えかけているのではないだろうか【了】

最近「物化」について考えてる。物化とは胡蝶の夢のやつである。ひゃっはー(ひらひら〜)ハッ(夢か)いやいやいや、蝶が本域だったのか、俺が本域だったのか、どっかで区別はあるはずなのだが、なんかようわからん…むずい…みたいなことだったかと思う。

レーンから無限に流れてくる弁当容器の白飯のど真ん中に梅干を押し込む。時には日向くんがネルフ本部に軍艦ミサイルぶち込むときの発射ボタンの押し方で、時には逆アングルピッキングのやり方で、そのときどきの思い思いの腕のひねりで梅干を飯の上に押し込んでいく。でもこれは誰にも伝わらない。

これも「物化」なのではないだろうか。誰にも響かないだろうが、響かないだろうこそ、物化なのではないだろうか。もう自分の頭の中で、いちいち理路とか襤々褸〜とか追う必要すらない。これも物化のおかげである。

まあこうやって梅干おしててもいつかは死ぬよな、とは思う。じゃあこの時間はなんかもったいねえよな、とも考えるがかといって、じゃあこの梅干を押さずに、さっき昼見た雀みたいに、果たしてフリーでやっていけるのか。

あれはフリーの雀である。古谷実の作品で「鳥の世界は超過酷」って答える鳥に詳しいおじさんが出てくるが、たぶんそうなのだろう。

そうなのだ。雀はのんきに脇を掘って、またきょとんとして、なおもアンテナにとまってたが、あのとき、もっと遠くのほうでは、トンビがひょろろーとかいうてたのだ。
雀的には場慣れしてるので、まだいけると判断して俺が飯を食ってるのを見るともなく眺めていたのだが、雀の世界には休憩時間も食堂も雇用関係もない。

まず、電線にとまってる雀をみて「ああ、電線に雀がいるものよ。」とかおもいますね。

はい、一年後、また電線にとまってる雀をみて「ああ、相変わらず、電線に雀がいることよ。」とか、思った人ハイブー、ハイブー、ブーー ブーー

その雀はあの時の雀ではありませーん、あの時の雀は99.99999999999%もう死んでまーす

みたいなことを考えながら尚も梅干を押し込んでいる。今日は確か800のはずだったが、いっこうに終わる気配がなく、また今日も後続の機械がぶっ壊れてるらしく、社員さんが弁当を必死で番重によけている。

社員さんとはなにか。あれは定めのない雇用とちょっと多めの賞与(なかのおおえのおうじ)をもらってるだけでやたらみんなからギャーギャーいわれる、しんどい立場のひとです

現場の社員さんがいっちゃんしんどいなーとは思う。管理とか行けば800〜とかいって適当にやってればあとは俺たちがこうやって必死に800を実現するために、つまり嘘喰いのエアポーカーでいえば、わたしたちは800というハンド(役)を実現するために、こうやって必死でレーン(ラインというところもあるようだが、うちはレーン呼び)を回してる。
回して、ハンドを実現するが、実現できなくても、生産管理のおっさんは別に「死痛」を味わったりしないのである。気楽なもんである。
もし仮に俺たちが800を実現できなかった時、管理のおっさんが拷問のアウトソーシング業者がつくったアイアンメイデンの中に取り込まれ、死の痛みの徹底したデータ取りによって脳にその痛みを完全に伝えられる電極付きの装置で「殺される」としたら、おっさんはもう何としてでも800を実現するために頑張るだろうか。

なんとなく、厳しい気がする。単純に辞める気がするし、あと弁当のクオリティも下がりそうな気がする。

そういえば嘘喰いは何気にこう、ふわっとフーコーのことをヤンジャンの読者に、ほんとうにふわっと紹介してるようなところがあったのではないか。俺もフーコーなんか全然知らんが、なんか死痛には「八つ裂き」があって、最初に蜂名(御屋形様)がくらうのはそれであり、しかもそこはパノプティコンの牢屋からの衆人環視によって監視される監視塔の中二階みたいな部分で、そこはエアポーカー4回戦(天災発生)まで見えない状態だった。

じゃあ、俺と雀と社員さん、これは「物化」だろうか。

そういえば、仕事中は全然違うことを考えていたのだ。ジャングルの王者ターちゃんに出てきた「ヂェーン」や、高橋留美子作品の1頭身の老人など、あれって「物化」なんじゃないか、ということである。

一応時間経過で容姿が信じられないぐらい変わってるということにはなってるが、漫画の上ではほぼ物化みたいなものなのではないか。

ゆらゆら帝国の歌詞に「適度にフリーな奴隷が俺だよ」ってのがある。すごいいい響きだが、雀のような究極にフリーな生き方をするか、被雇用されて月々だいたいこんだけもらえるから月賦でこれを買おうとか考えるのか。

適度にフリーとはなにか。

シンパシーとテレパシーとエンパシーのあいだをひらひらと行き交うことである。そしてそれは自分で恣意的に選べないということが何より重要であり、常にシャッフルされ、煮沸され、リセットされ、かつ継起し、無作為にランダマイズされたものであること。

荒れた日の鴨川を眺める。茶色い。コンビニで売ってる1リットルのカフェオレの紙パックのやつ。ああいう水の色で、まさにどんぶらこっこなんてレベルじゃねーぞというぐらい。いや、でも、待って、どんぶらこっこかもしれない。
あちこちで川面が隆起しては割れて崩れる。崩れると水なのでまた水に戻る。まったく同じことを繰り返してるように見える。もりあがっては崩れ、またもりあがる。
吉田兼好か鴨長明かもわからない、いとこい師匠がどっちかわからないレベルでわからないから両論併記するが、かれらもそういうことを思ったのだろうと思う。同じっぽいけど、たぶん粒子単位で見ていけば絶対同じじゃないみたいなやつである。
こういうことに思考を全振りしたふりをして、今日も俺は無為に日々を過ごしている。だったら街で髪をまっ金金にしてホストになって目先のことばっかり考えてるほうがよっぽどいいと思う。ホストの世界は超過酷だろう。で、さっきの雀の話に戻る。

たぶん物化というのは、俺が社員さんになることではない。かといって、雀の中に藤原竜也が入ってるとかでもない。物化とは世界の変容でありかつメタ認知とかいう発想ではない。そのときはそういうのは忘れてるというか、忘れてるという発想すらない。もうなってる、の「もう」を切ってから、「なってる」も切ってしまうような感じではないだろうか。

ヂェーンも、一応「なった」ことになってるが、間がすっぽ抜けてるし、高橋留美子の世界の老人も、あのしぼみ方は人間の理解を超えている。人間はふつうあのしぼみ方はしない。
めぞん一刻の「ぼくと結婚すれば、これはあなたのものです」とかいって五代くんが自分の祖母を響子さんに差し出してるシーンなどを見ると、この世界にはすごい断絶があるように思う。

この断絶はギャグというか、ありえない話だったが、ありえる単位まで下げていくと、身長による断絶や分断、あるいは身長によって社会的な位相を表現するということも
そして、身長の表現はあり方、容姿は生き方の表現となり、漫画の「過去」は単純な時間的なものではなく、世界として、
うんぬん、かんぬん、俺はもうわからない。

なんとなく言いたいのは、「ヂェーン」とか、「浦飯幽助」とか、なんとなくわかってたやろ?ということである。
なんか棺の前で浦飯幽助の母がばかやろーとか言いながら泣いているわけだが「いや、浦飯幽助ですよ、なんか一回ぐらい明らかに死にそうな名前ですやん。あとそうやって名付けたのは他でもないあなたですよね」っていう話である。ヂェーンも、もう明らかにああなるのがわかっててついている名前であって、昔はジェーンだったのかといえば、昔からヂェーンだったのだから、最初っから知ってましたよね?という話になる。
じゃあ、これが奇面組式の名付けの場合、名前とキャラの関係はどうなるのか、あるいはレッドの名前はどうなるのか、そういった名前と運命との対応関係あるいは緊張関係(弛緩関係、利活用)について。

あさ。

いやーそれにしても、昨日はライブよかったな。まさかの最前列で見れてよかった。あえて言語化しない(ローカルの日記には書いた)。
今日はとりあえず風呂入ってアリナミン飲んで屁ぇこいて寝るかー

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