0815〜817メモ

別に教養や人格の陶冶を求めてインターネットをしていたわけではなかった。
「インターネットをする」とは変な言い方だけど、本当にただリンクからリンクを踏んで進み、そこを見たり読んだりするだけの時間があった。そのことをさして、インターネットをすると言ってみた。自分はネットサーフィンをしていたとは思えない。じとじとと這っていた。

そこでなぜ詩に辿り着いたのかはまったく見当がつかない。
詩なんか学校以外で読んだ記憶がまったくなかった。

一番近かったのは、音楽、特に邦楽の歌詞だったように思う。当時のわたしはCocco、Mr.Children、Charaなどが好きだった。あとは黒夢も好きだったし、V系(ビジュアル系)も好きだった。

あとは、ひきこもる直前に通っていた専門学校のパンフレットで鈴木志郎康さんの映像作品の紹介が載っていたこと、さらに祖母宅に昭和文学全集があったことも大きいのかもしれない。

ただ、ひきこもって気力が減退している現状では、わたしはインターネットで漂流するように何か読むか、パートに出かけた静かな祖母宅の昭和文学全集を繰っても、どれも長そうで、読めそうなのが随筆集とか詩歌集しかなかったことも大きかった。そして、わたしはとにかくエロい言葉が出てくる箇所を探していた。

インターネットでも昭和文学全集でも、エロと文字を探していたのだと思う。その結果鈴木志郎康さんの詩に行き当たり、そこからインターネット上の詩に入っていった、のかもしれない。

鈴木志郎康さんが作品「極私的にEBIZUKA」をイメージフォーラムフェスティバルに出品したのが2001年、おそらくパンフレットが配布されたのが2001年の春ごろからだとして、わたしは2001年の春ごろにパンフレットをみて「なんだこの人は」と思ったことになる。

このときの感覚は、「極私的」と「EBIZUKA」の組み合わせと、「鈴木志郎」に「康」がついているというところに、とにかく不気味さをおぼえた。つげ義春、とかなんかそういう系統の感じだった気がする。

それからわたしは1年半後にひきこもるはずである。

ひきこもってから、わたしは文学全集で同じ名前を見つけることになった。

おそらく、2001年には夢の島少女も再放送されていて、そのエンドロールもたまたまわたしは見かけて、そこでも鈴木志郎康さんの名前を見かけた。

そして鈴木志郎康さん(や清水哲男さん)は1996から自身のホームページをもっていた。

ただし、これと、インターネットの詩というものは直接的には(わたしの中では)つながっていない。

わたしが2001年以前からインターネットで詩を読んでいたかは定かではないし、記憶もない。当時の日記も手短で、2行〜5行程度、よほど心に残ったできごとか、自分で感情が揺さぶられたようなことしか書き残していない。

ただ、2001年の9月にわたしはインターネットの詩の投稿サイトに参加希望のメールを送っている。これが日本WEB詩人会(通称ぽえ会)である。
だから、わたしがインターネットの詩と関わり始めたのは、ここが起源だとは、いえるような気がする。

そこから、わたしは2004年の夏までひきこもり生活を送っていた。

2004年ごろからアルバイトを始め、そのまま今の職場でずっと勤めている。

おそらく2006〜2012年まではプライベートが忙しく、詩のサイトは見なかったし、2012〜2014年はパチンコに忙しく、詩のサイトは見なかった。

本格的に戻ってくる(なにが本格的なのか知らないが…)のは2015年ぐらいだが、2012年ぐらいからちょくちょくなんか書いてはいる。

2015年からは現実に詩の場と繋がり、2015年〜2017年あたりで、今まで見たくても見られなかった詩のイベントやオープンマイクの場をさらっと巡った。

2017〜2019あたりで、それらにも飽きたというか、どこにも戻れない感覚を覚える。

2020〜は体を壊しつつも結局しごとは辞めず、ただなんとなく同人に所属しつつ、インターネットの詩や自分の来歴についてまとめる作業について悶々と考える日々を続けている、仕事はなんとなく続いている、ひとりで生きている。そんな状況である。

8/17追記

だが、人生雑誌と青年団・青年学級・定時制とのあいだには、明らかな相違も見られた。それは、人生雑誌が物理的に集う場ではなかったことである。(中略)経済的な問題だけでなく、時間的・地理的な制約により、定時制に通える勤労青年は限られていた。(中略)それに対し、『葦』や『人生手帖』はあくまで雑誌メディアであったがゆえに、これらの制約を超えて人々が手にすることが可能だった。雑誌は全国各地の書店で購入するなり、定期購読をするなりして入手することができるので、地理的な制約を受けることはない。また、雑誌さえ手元にあれば、仕事の休憩時間や終業後に読むことができ、時間的な制約もさして受けることはない。

岩波新書1832 「勤労青年」の教養文化史 福間良明 p201

自分がほしかった言葉がやっとでてきた、という感じである。これをインターネットのウェブサイトや投稿サイトと置き換えるにはどうすればよいか。また、投稿雑誌との関係はどうなるか。そして1990年代後半〜2000年代初頭の経済、住環境、情報通信技術、接続環境などにスライドさせた場合、何が同じで何が違ってくるのか。
わたしたちの頃(1996〜2000年初頭に接続した人間?)には、わたしたちは何かを目的として集ったわけではなく、なんとなくの興味で入って、最終的に場所を選んだ。気軽なものだったが、選んだときに無意識のコンプレックスや、ここならものになるかもしれないし、ものにならなくてもどうでもいいようなジャンルとして(詩を)選んだような記憶もないではない。
だから、教養とか人格陶冶、真理を求めるといった崇高な目的や就職組と進学組といった鬱屈のようなものは取り払われていたように思う。
ただし、インターネットがそもそもそういったものを漂白して入るようなものだった気もする。なんとなく同じぐらいの世代の人が作っているバカバカしいコンテンツを笑うような雰囲気もあったが、彼らのバカの背景も、また逆に、彼ら(真面目なほうの彼ら)の懊悩の背景も、等しく共有することはなかった。
社会改良や生きる意味などといったようなことは話し合わず、ただその場のテーマに沿う形で、作品とかテキストとかいって投稿したり読んだりしていた。
投稿した彼らの実人生に関わることは結局ほとんどの場合なかった。

少しずつ時間が経つにつれ、匿名性が剥がれてきて実は皆それなりのエリートだったのだということがわかってくるだけだったのかもしれない。わたしたち世代はゆるやかにそれ(かつてハンドルネームだった人が実名になって社会的な受け答えをしていること?)を受け入れてる。

徒花という言い方。成るひとと成らなかったひとの差。また、うまく関わり続けている安定した人。ずっとうまくいかない人。まあ、いろんな人がいる。

作品を作っている、という裏に、人生雑誌に投稿されるような忸怩たる思いや懊悩が隠されていた(人もけっこうというかかなりいた)のではないか?それは経済的なものよりかは、むしろ社会的、心理学的なものへ移っていったのではないか。
むしろ、途中からほとんどの投稿サイトは、そのような人たちの受け入れの場に成り果てたのではないか?
ここに、定時制の意味合いの移り変わりを当て込むようなことはできるのだろうか。
いずれにしても深刻さの系統が違うような気がしていて、同軸で考えられることではないのだが、構造は似ているような気がする。

マークアップされた言葉をリンクすることで少しずつクラスタを移動していくメディア。
さらに個々にカスタムされていく(SNS)
同じものを見ている感覚の希薄化
読者ではなく、インフラ内の個々のトレンドで串刺しにしただけの共同体
中心の場として機能する動画やネタが置かれ続けるのではなく
言及者のカウントとアルゴリズムで昇降するトレンドによる脆い場
論理的なマークアップの見栄えをいじくるとか
BBSをスレッド式で見るかツリー式で見るかとかではなく
見える景色の取捨選択そのものを任せている状況
今まではあるていどまでは同じものを踏んで移動していたという感覚があったが、そのような固定化した位置がぼやけてきていて、
むしろ慣れた人にはまどろっこしくないのかもしれない
(人間の?本当の?関係?みたいになっていて)
ただ、これは泳ぎ切る、岸に着くことが前提のメディアなように
思えて、岸に着いたあとの人の使い方としては
逆に、どういうものがあるのだろう?とは思う。
そのしんどさをいつも感じる。
要は、岸に着いた自慢か、岸に着いたあとの無意味しか流すコンテンツがないメディアがSNSにみえる。
岸に着く、というのは教養をつけて追い求める、ということとは真逆の話であって、もう終わっている、もう自分は済んでいるから
なにも言ってくれるな、というメディアである。


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