わいの平成詩史16

なんか前回は、勢いで書くとあとで後悔するという話を書いた記憶がある。やっぱりネットはそれが起こりやすいメディアであるし、消すこともできるから、「書いたけど消した」という、動きそのものが見られてしまう特性がある。「書いたのに消された」もあるし、「あいかわらず書いてるっぽいけど自分の視界には入らないようにする」みたいな機能もある。
本だと読んでいってだんだんむかついてくるみたいなこともあるけどTwitterだとたかだか140文字でむかつけるので何かとスピーディで早合点できるので甚だ感情と時間のコスパがいいメディアである。
詩も短いとスピーディに感動できるのでコスパがいいし、まあしんどい時に長いやつを紐解いて読むような気持ちになれないときなど、詩は向いてる気がする。

2000年代前半をひきこもって過ごしていた私も何かとしんどかったので、ネットで詩を読んだりしてるのが性に合ってた。

いろいろ読んでいるうちに、私はもう「もう毒親なんて言わないよ絶対」の心境になった(代わりに家族含め親族とはいっさい誰とも関わらなくなったよ絶対)が、まあ当時は自分と親がなぜこうもこうなのか、なぜこうも家族のなかで自分だけが排除されまくっているのかと思っていた。
外部とつながってる回路が実質ネットしかなかった。
あとテレビはひきこもりサポートキャンペーンをしてたから、テレビとネットでなんとか外の情報を得ていた。

思い出してきたけど私の辞書には「たな」の二文字がなかった。
「へや」の二文字もなかった。
わたしには部屋がなく棚がなかった。家が狭かったのもあるが、母は寝室を弟の部屋にし、弟は自室があり、私は玄関入ってすぐの応接ともリビングともつかない場所で家族の往来の中で過ごしていた。
そんな中でノートパソコンでネットをしていたから、ひきこもりなのかと言われると、部屋がないタイプのひきこもりだった。家族の冷たい目線に晒され、夜になると、ふすまを閉められて、その隙間から光とさんま御殿で笑う母と弟の声を聞きながらネットをする ひきこもりだった。ネットをしていると、さんま御殿のワイプが開くときの音とかがして、さんまの引き笑いとか弟と母が同時に笑う声がなにかの当てつけ(わたしたち笑うツボ、一緒どぇ〜す!みたいな過剰なアピール)に聞こえてきて、やるせないものがあった。

まあわたしにも落ち度があったのかなかったのかはいまだによくわからないし、「どうしてこうなった」状態のなかで、徐々に家族内で流刑っぽくなっていき、放置されていった。

今にして思えば、家族のふつうと自分のふつうが結構ずれていて、家族のほうで引き上げるための手と、わたしの持ってる手は、認識的にも情緒的にも、うまく掴みあえなかったということなのだろうと思う。
どっちが悪いとかはなかったのだろう。
わたしの手は認識的には「ふつう」だったけど、情緒面においてすこし遅れていて、家族の手は、たぶん「ふつう」だったのだろうけれども、個別具体的に探ることに、ケースバイケースに対応することがへたくそだった。
これは家族だから、クリンチした状態だから余計にそうなりやすい側面もあったのかもしれない。

「なんか言っても話が通じないし、理解しているのかもわからない。」
「こいつはいったい何を苦しんでいるのだろうか。」
「そろそろ働くタイミングなのに何をどう考えているのだろうか。」
「よくわからない。」
「なんなんだろうこいつは。」

みたいな感じになっていって、同じ家にいるけど完全放置プレイで、しかも部屋もなければ棚もない。わたしがネットに張り付くのはそこだと自由というか、見たものも探られないし、ガワ(存在と物体)は見られても、ネットの履歴は見られないから、その中だけで生きてるような状態だった。

隣に住んでた祖母は優しかった。途中からなんか優しさが剥がれてきて幻滅もしたけど、味方は祖母であり、昭和文学全集を揃えておいてくれたのも祖母であるが、祖母と母は折り合いが悪く、それの存在を知ったのはひきこもってからだったし、読めるのもごく短いものか、詩歌集に限られた。
なんかアルマイト製みたいな長細いつづらみたいなやつにいろんな本の初版を再現した本がパラフィン紙にくるまれてるやつが入ってるのに気づいたのも結構あとで、それはほとんど読まなかった。

本はあったけど微妙にほとんど読まなかった環境だった。ネットで中途半端に知ったことや場所を、あとで埋め合わせるように読んでいったり、実際に行ってみたりするブームが2015年ごろに自分の中で起こって、自分はこのブームで一生やっていくのかなと思ったら、そのブームも2019年ぐらいには下火になり、人生って思ったより長い…と思ってたら、2022年にはもう老いを感じて、なんかもうボケ始めてなくないか? 口もくさいし外出ても変な人みたいに思われるし、もうなんかどうでもよくなりつつあるのが今である。

なんか全然違う話になってきているな。
勢いで書くとろくなことがないけど、それを後押ししてくれるメディアがネットである。まだ昔はもうちょっと書くときのハードルというか、周りの書かれているもの自体が結構力作っぽい雰囲気があったから、これは出せないこれは出せるの水位が自動で調整されてるっぽかったというか、技術的なハードルによって、幽遊白書で言えば結界がはられてて、S級妖怪とかは通り抜けられない仕様になっていた。今はもう全妖怪が抜けられる状態なので、もう自分ももう全妖怪になって踊らにゃそんそん状態で書いているというわけ。

でもそんな状態で書いていると「あれはまずいわ…」とか「恥ずかしい、死にたい」という気分になるのが常である。

まあ以前の自分との整合性というか、「キリッと飄々としたスタンスでやりたかったのに、なんかめちゃくちゃ吐露して泥臭い内情暴露みたいな話に終始していてもう消したい」みたいな、期初の目的とまったく違うところに流れ着いている気がして、もう完全にこれは倒れるでしょうみたいな、横にずれまくったジェンガみたいなものが心の中に存在するでしょう。
これ(整合性も恥も外聞もへったくれもない文章)を維持しているのは自分であり、自分の指先で簡単に「消すー」の方向にも持っていける。
自分がこんなにむず痒いのに、消さない理由もない。
いいねくれた人に申し訳ないなんて言わないよ絶対
とか言ってる場合じゃない。消してやる。
というふうになって、消す。

消すのがもったいない場合は下書きに戻すか、どっかに戻して推敲する(だが、こうして戻した文章を推敲してもう一度アップし直すことは絶対ないと思う。この場合、もう書いた文章は自分の体内に巡ってるものだと考えて、いつかもう一回巡ってきたときに書けると信じて消すほうが精神衛生にも良いと思います)。

あと、ネットの文章というのは書き捨てである。書き捨ててるんじゃない、発表しているんだという人もいるけれども、まあ状態として書き捨てである。
書き捨てられた文章はずっと世界に晒されてる。吹きっ晒しである。
昼も夜もサーバーという名の荒野に置き去りにされてる。
すきま風のようなものにぴゅーっと晒されている文章を思うと、
なんか心許無くなってくる。
誰が読むかわからないので自信がなくなってきて、すきま風も吹いてくるのでだんだん不安になってきて、「やっぱ消したほうがいいんじゃないか?」みたいな感情のほうがまさってきて「消すー」の方向へ。

個人的には消すという機能があるんであれば全然別にそれを使っていいというか、消さないほうがいい(または、「自分の家の玄関に張れることしか書いてはいけない」)とかいって、人を制限する理由がないし、そもそも制限することはできない。
当然だが、これは、そうやって釘を刺すこと自体を止めはしないし、できないということでもある。ネットの自由は基本「どうしようもない」というところがある。

肌感覚というとあれだけど、こんだけ距離があって、時間差があって、情報技術の上に乗っかってるだけの存在が、何かを強制するようなことはできないし、そんなこといちいち言わなくてもわかるだろというような雰囲気を共有していると思い込みながら、共同体として今までやってきた。
だけど、それは少しずつ変遷していって、少しずつ「今」と はぐれていって、いつかは死んでいってしまうことに気づいてから、さらに輪をかけて どうでもいい。

死ぬ間際に「ハッシュタグとかつけまくってなんかやりまくった気がしてたけど、結局あれなんやったんやろ…」みたいになりたくないなー、とかはぼんやり思う。
でもそれももうあんまり動けない人とかが最後ののぞみとしてやってるのかもしれなくて、おいそれと言えないなとは思う。
けど、もし、結構若い人がそういうのにどっぷりハマッてるとしたら、体ごと動いといたほうがいいよ…と思ってしまうのが、年上側の発想である。
あと、なんか苦手意識があってそっちに行ってるんじゃない? 大丈夫? 逃げてない? 逃げてないっていうんならそれでいいんだけど… いや、逃げるときは逃げていいんだけど、なんか逃げてない? 大丈夫?
みたいな気持ちになるときがある。
わたしは「向き合う」って言葉が嫌いだ。
視線恐怖もあるし、「自分と向き合ってない」みたいな言葉に対しては「何を言っているのか?」と毎回思う。あと、「(犯人と)同じ環境でも罪を犯さない(ちゃんと生きている)人もいる」とか言い切りで終わるタイプの話も「…で?」ってなる。
なんか一番から詩と遠い系の言葉だと思う。
何かを言った気になる言葉というのが一番やばい気がする。
自分と向き合っていないからなんなのか、ちゃんと生きている人もいるからなんなのか、結局みんなほんとのところよくわかってないし、わかる必要も別にないという話である。
とりあえずいったんしめないといけないので「。」を打ったりしてるだけで、身体を張れない場所で、ものごとをしめることはできない(おそらく「声」が、ギリギリのラインなのではないか。電話の声で、横断歩道を渡ってる途中、ずっと遠くにいる人間からいすくめられた経験がある。だから電話は嫌い。電話嫌いな人が多いというのも当たり前の話で、要は、さっき書いた「自分と向き合ってない」とか「ちゃんと生きてる人もいる」みたいなことでも、声で言われると、いすくめることができてしまう)

声で、いすくめるでもない、目的のない言葉を発せられることにあんまり慣れていないから、朗読を聞くとぞぞぞーっとしてしまうのかもしれない。

もちろんネットでも嫌なことはあるし、読んだ言葉で吐き気がすることもある。最近では、ネットでしか嫌なことはないのかもしれない。

まあ嫌の種類もたくさんある。好きなことを書けなくて嫌もあるし、嫌なことが書かれてて嫌なこともあるし、うすらいいことが書かれてて嫌なこともある。
いいこともあるけど、なんかちょっとしたことで、書きづらい。
今のちょうどいい陽ざしとか、それはお前の体の話じゃんみたいな。
「すごいいいこと」は、会った人とか、出来事が、自分にとって、予想以上に素晴らしかったときに書いてしまう。
そのまま書いてしまえばいいんだけど、自分が今書こうとしているメディアにどこまで書いていいのかわからないから、何がどこまで波及するからわからないから「すごいいいこと」までしか書けないでいる。
濁すなら書くなや、と思う。

有名な人のコンサートとかだったら書ける。不特定多数の人が有名な人を目当てに集まった場であれば、書いても特に問題はない気がする。
「ああ、それね」って思われるから、気楽な感じがする。
ネットにはいろんな感情が乱反射しまくってるし、それを内面化した自分との微調整が必要なので、堂々巡りしがち。
プライベート、遠くなったプライベート、まだ近いプライベート。
プライベートにも距離がある。
干からびたプライベートを順番に書いていくと、まだしけってることに気づく。

できれば全部書けるように生きときたかったかな、とは思う。こんな孤独になるもんだったら。

できもしない逆算をして、癌になったら全部書く(公開する)かな、とか思ってるのは結構不毛。

何で持ちこたえたり、何で押し留めているのだろうと考えると、それはやっぱり「まだ何かあるかもしれない」という希望と、そのための足がかりである信頼関係を壊したくないから、何もかも書くという選択肢が取れないでいるのだ。
だからこそ、最初の門をくぐるとき、何もかも書きながら信頼関係を築く門(それはそれで身がもたなかっただろうけど)をくぐっといたほうがよかったのかもなーってことは時々思う。

ネットを見ながら、身は張れないな、と思いながら、身を張ることを夢見ながら過ごしてた頃の話。今の年ごろが、ちょうどネット上で投稿サイトとかを作ってた人の年ごろなのかもしれない。わたしは作らないけど。

今回はなんか全然違う話をした気がするけど、次回は勅撰みたいな話をするのだと思う。

(つづく)


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