わいの平成詩史17

前回の最後のほうで「勅撰」と書いた気がする。
勅撰の意味は知らないけど、偉い人が選ぶ的なニュアンス。

世の中に残ってるものはたいてい偉い人が選んでることが多く、ネットは個人が勅撰できるメディアであるみたいなことを、昔ネットで読んで、いまだに時々読み返す。

>ぶちまけることが、ありていになるんだってことの同意じゃない。偉大である事は選べるし、形式たるもその通りだと思うよ。桂冠詩人を見上げるような事じゃなくて、君が勅撰であって、君自身が語る番なんだから。勅が枠を作るんであって、それは役人に理解できるしろもんじゃないってことを、君の詩のラストの数行が語るよ。

これは、当時わたしがこっそり読んでいた「おぼこ板」という名のBBSにあった文章だ。

たぶん2001年とか? 岡さんという人物が書いてた文章。

これを読むと、なんか毎回ぼんやり励まされる。

「おぼこ板」では、ひっそりと、詩の研究というか、「こんなのおもしろくない?」みたいなことや「ひさしぶりー」「いやいやどうもどうもお元気ですかではでは」みたいな会話がなされてて、その空気感がとても好きだった。
今思えばこれはニフ(ニフティサーブ)繋がりの人が、時々やってきては去っていく場所みたいに機能してたのだろう。
まあでももうインターネットだから、時々そこにまったく関係ない人がやってくることもあるのだが、わたしはそういう人を見るたびに「勇気あるなー」と感心していた。

先に挙げた文章、いまだにわたしは意味がよくわかってない。

「桂冠詩人」、意味は知らないけど、なんか頭に草の輪っかを被って、白いローブみたいなの纏った、認められた詩人、みたいな感じだろうか。

そして「勅撰」というのは、なんか、教育勅語とかいうから、やっぱ天皇とかが絡んでいるのではなかろうか、と推測する。

そうやって、なんとなく読み解いていくと、えーっと
なんでも好き放題に書くことがそのままってわけではない(これは、悲しいと書いて悲しさが伝わるか?みたいな話のようでもある。本来であれば、もっと伝わりやすい「そのまま」のルートがあるはずで、そのルートを見つけることで、より(自分の体の中にある)「それ」に近い表現が見つかるかもしれない。
なので、そのままを書いているつもりでも、全然そのまんまではなく、もっと他者が、読んで、自身の体の中にある「それ」を見つけて「え、、なんで知ってはるんですか」と驚くぐらいの精度の「そのまま」もあるはずである。「確かに、、いわれてみれば確かにそのとおりですね」的な「そのまま」もある。
なんかそれの再現を目指して詩を書いてる人も多いのかもしれない。
というのが一点。
もう一点は、「ぶちまける」ということのバッシャーンみたいな、バケツっぽさである。
露悪というか、投げやりというか、投げっぱなしジャーマンのような、「そういう状態の自分」が書いている止まりの文章と、もう一段作品としてギアアップかギアダウンかしらないが、変貌を遂げた文章は、まあ見た目こそ同じかもしれないが、ちょっと潜行した過程がものをいうのかもしれないし、そんな過程ならくぐらないほうがよかったという作品もあるのかもしれない。
ただ、投稿前に何回か差し戻すことで、その修正はある程度可能だと思うけど、最終的なジャッジは自分が納得するかどうかでしかない。
差し戻さない文章というのは、やはりあまり読まれない気がする。ただ、若いときは中央神殿に近いので、ふつうにつらつら書くだけでほぼ「そういう状態の自分」≒「そういう文章」になるプレーンな強みがあるような気もする。ひねてきたり、すれてきたりすると、つまり歳をとったり状況をあまりにも織り込むようになると、そのようなプレーンさは失われる。
中央神殿にも、加齢により、おいそれとは寄り付けなくなってしまう。中央神殿は青い鳥の次の魂の待合みたいになっている。
これは茨木のりこ的にいえば感受性であって、でも感受性というよりは距離と考えたほうがいい。あっちが遠くなればこっちが近くなるという、失われるというよりか、遠くなるぶん近くなるものもあるはずで、ただ今の時代の少量多品種な雰囲気の中では、歳をとればとるほどカスタマイズされて中央をガッと握るような詩を書くことは不可能に近い。
だからこそ敢えて卑近なところから掴むか(それにしたって、人の卑近な日常から詩を浮かび上がらせるほど心に余裕がなければ、読む気さえ起こらない。まず人への関心がないと読むことができない)、それ以外のサブカルチャーに任せた方がいい。詩はサブカルチャーなのかはよくわからないが、すくなくともメインではないだろう。
今では若い頃から細分化が進むし、昔ほど「一緒〜」みたいな幻想も強制もすくないから、早くのうちからみんなそれぞれカスタマイズされていくため、あいだを取るのがまず厳しい。
話がそれた。

「偉大であることは選べるし、形式たるもその通り」

これはかなりむつかしい文章である。
…わからない。
どっちかというと語感で書いてるような気もする。

そのまま読めばいいのだろうが、膨らませれば、仰々しく飾るような、崇めたてられそうな書き方をすることも、枠にはまったような書き方をすることも自分で選べる。
けどさ、今は君が選んで君が書くターンなんだから、

「勅が枠をつくるんであって」

ここは偉い人が(選別によって)枠(かぎり)を作るのであって、そこからはみだしたものが理解されないからといってすばらしくない・よくないとは限らない。「役人」というのは偉い人のもとにいる、実際に選んだり編纂したりする人のことを指すのかなと思う。まあそういう人、ある種のエリーティズム、権威主義から選ばれるようなしろものじゃない、むしろそれでいいと言っているようにおもえる。

というのが最近の理解。
また後年よみかえすと印象が変わるかもしれない。

この問答は、m.qyiさん(どう読むのか知らないが、わたしは勝手に「えむきゅーい」さんと読んでる)と岡さんとたみさんの受け答えの中で出てきた文章なのだが、このm.qyiさんもかなり癖のある人物で、
わたしのプロファイリング(妄想)によるとかなり現代芸術に精通していているが、ネット上では不思議キャラで通している。時々理詰めで書くこともあるけどそういうのは基本DMで送ってくるタイプ。ネット上では「ぼくむずかしいからわかんないやぁ」とか書くけど明らかにそんじょそこらの人より芸術のことに詳しい人物。という感じだと思ってた。
で、このm.qyiさんが「おぼこ板」に行って、現代詩とは、詩とは、こうなのですね!?みたいなことを聞きに行ったら岡さんとかに「俺らはそんなこと知らねえ」みたいな感じになっててそれを見てるのがおもしろかった。
クレヨンしんちゃんの映画とかでどっかの国のしんのすけそっくりだけど性格がめちゃくちゃ真面目な王子がしんのすけに感化されてけつだけ星人をやるときみたいな雰囲気だった。
もちろん(もちろんかはわからないが…)m.qyiさんが王子で、岡さんとたみさんがしんのすけである。

(つづく)

(11月頭ぐらいから今朝まで書いた)

余談

というか思い出したけどm.qyiさんは文学極道かどこかで返信のときに自分の文章の後に(泣くなm.qyi、大声で!)と書いていて、他の人に「それ、なんなんですか? ふざけないでください」みたいに塩対応されてて、すごい悲しかった記憶がある。
今書いてて思い出したのが、それからm.qyiさんはなんか現代芸術っぽいWEB上の同人誌っぽいのを何号かやってた記憶がある。
B.H.W…じゃないけど、なんかこうアルファベットピリオドみたいな3文字のやつだった気がするけど、思い出せない。
表紙はカンディンスキーみたいなコンテンポラリーな絵が飾ってあったような…なんかそれでこの人は芸術に造詣ふかいひとやーて思たんや

あとはm.qyiさんの詩の一節で、真夜中にゴルフする詩で「幽霊の白玉のぽちゃん」みたいな表現がすごく好きだった記憶がある。
m.qyiさんの詩は言葉遊びっぽいときもあればすごく荘厳みたいにもなれる感じだった気がする。だから凄い賢いというか、ほんと芸術寄りの人だったんだろうなぁと思う。で、その生真面目な芸術寄りの人がニフのちょっと不良(不良ではないと思うんですけど)の部室みたいなところにいって教えを請いに行く、というシチュエーションがもうおもしろかった。

そういう思い出

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