20150512
※ Netflixでちひろさんみてて「それいいね…」のくだりが出てきたので昔それを引用した日記書いたのいつだっけなと思ったら2015年であの頃は若かったなと思って再掲します。全文意味不明に思います。
==========ここから本文(てか日記)============
昨日です。
「習い事」「料理とか?」「作ったとして、誰に食べさすん?」(ここが分水嶺だった)「俺に」って言ったらどーなってたのー! 幸せな未来ついえたりー!
意外とアリだったのではないかという気がしてならない。急いては事を仕損じる。非モテコミット。よしよし。古今東西の人たちが遺してくれたことば(俺は視野狭窄で限りのようなものがあるよ)勇気の漸近線。キューピーちゃんのおでこが摩耗する。「脳をやられちょる」
朝。信号待ち。ぞくぞく揃う人。流れる車のそれぞれが、建物の影を抜け、交差点のある一点に達すると、太陽光が一瞬だけ跳ね返る。間の延びたストロボのようなものを眺め、ちょっとだけ目を閉じてみて、マイ紫だか緑だかの滲む様子(太陽光のネガ)を感じる。通勤途上、こういうことをすると、ちょっとだけ童心に帰り、何かが整ったような(仕切り直したような)気がする。遠くに見える高層クレーン、こっち向きに倒れたらどのへんまで来るかな。関西古紙のポケットティッシュのイラスト。木の左側でこけてはる犬状のキャラ。腹にラッキーと書いてあるから、ラッキーなんでしょ。彼はなぜこんなに窒息しかけているの。も、どーでもいぃ、どーでもいぃやぁ。女性をながめってっとー、TTさんがレントさんと久谷さんの詩集の感想を述べていたのが思い起こされた。「朝も夜も」「昼も夜も」。買ってみようかな、エッチなのだったらいいな。
仕事。出る前に入沢康夫さんの覚え書を読み終えたので、これはもう「わが出雲、わが鎮魂」を読むしかないのではないか? と感じていた。でも「俺みたいな人間が読んでもいいのだろうか?」とも思っていた。
まず、順を追って説明しようと考えた。2001年。昭和詩歌集。入沢康夫さんの紹介文には「方法意識に貫かれた詩法は『わが出雲・わが鎮魂』で結実。』と書かれていた。記憶だが。そして「本文と膨大な註」なんだか文字も多いし、古語も多いし、こりゃ紀行文かなと思って敬遠して、鈴木志郎康さん(凶区!)や岡田隆彦さん(ドラムカン!)にいく。若者が刺激を求めるのは無理からぬ事……。2014年。今を生きるための現代詩(木の舟のための素描)おぉ……なんじゃこりゃ。2015年。詩の構造についての覚え書。ここでだんだんイメージが変わってきていた。鯨が食えるジェフみたいなもんだ。あとはどこかでジャジャンカワイワイなども読んでいたので「あれ? あの紀行文の人(……じゃなかったんじゃ)」みたいなこともうすうす(0.01mmを試してみたい!)感じていて、ごく最近に至っては「ああ、こういう人だったんだ(松尾芭蕉みたいな人ではなかったんだ)」とだんだん固まってきて、今日がある。俺はいつも遠回りしていて、何事にも10年ぐらいかかる。ノータイムで取りに行く日があってもいいんでないかい?
帰りに、ずっとためらっていた現代詩文庫177「続・入沢康夫詩集」を購入。持って帰って詩集〈わが出雲・わが鎮魂〉からの文字にorzとなる。いや、出雲のほうは全文なんだけど、わが鎮魂は〈抄〉なんだって。そんなことがありえるのだろうか。おわかりいただけただろうか。
昭和詩歌集が〈抄〉だったから、買ったのにぃ! と思ってそっちにあたると「わが出雲・わが鎮魂」はびた一文載っておらず、かわりに「死者たちの群がる風景」が載っていた。あれー? 記憶を捏造していた。俺は10年かけて、ひとつの詩を眺めた記憶を捏造していた。
夜。「かつて座亜謙什と名乗つた人への九連の散文詩」を読み、読むっていうか、読み、床が透明になるくだりで「ひょっとして宮沢賢治と関係あるんじゃないの?」と検索したらビンゴだったのでコーナーロープで血混じりの口をゆすいだりあがった息をフー、フー、と整えたりして、また読み始める。ダイジョウブ、オマエ、ホントウバカダケド、チョット読メテルヨ……。詩集のタイトル眺めているだけだと「紀行文」とか「沖縄の舞踏の人(座亜謙什)」とか、俺はとかく偏見を持ちやすい性質。入沢康夫先生の詩は、ほんと読んでみないとわからないなと思う。
+
今日。
朝。休み。職場に行き用事を済ませ一旦帰宅。次の仕事を済ませる支度をし、一日じゅう仕事じゃ流石に息が詰まるので、移動中に読む本をちょいす。詩集はやめとこう。母の積ん読から「舟を編む」をとって鞄にしのばせた。自転車で外に出て、信号待ちで「読めない……」と気づいたら、ちょうど雨が降ってきて、こりゃあいいやあバスにしようと思い立ち、家に引き返すと郵便局の人が来ていたので(ブックオフで頼んでいた)チェリーナイツとボヴァリー夫人を受け取って、家でチェリーナイツを少し読み、鞄を軽くしようと中のものをあらためてから、最寄りのバス停まで歩いた。ちょうどバスが来たので乗り込み、鞄をまさぐると本がなかったので、仕方なくiBookでちひろさんの3巻を読みながら揺られていると
うぅ……。「こんなに遠くまで」ってなんだろう。親からのそれ(たったそれだけ)を諦めて、探し続けて来たということだろうか。
チェリーナイツの江藤は女性に対して自信がない男で、ビッグになりたいけど、何もできないまま、東京のボロアパートで鶴光師匠のポスターに向かってこんな風にひとりごちている。求め続けたちひろさんと、求めてるようでびびってばかりで何もできないままの江藤。
「たったそれだけが」
「欲しくて」
「こんなに遠くまで」
「来ちゃいました」
と
「東京へ来れば」
「こんなわしにも」
「用意されてると」
「思ってました」。
「する」ことや「してきた」こと。「してこなかった」こと。ちひろさんが「欲しくて」纏ってきたものや、行動原理を貫く謎のこと、あっけらかんとした態度。好きなものや嫌いなもの。それを取り巻く人のこと。江藤が纏うこともできずに傷つき続けていること、情けない行動原理のこと。「された」ことに対する決着。「されなかった」ことに対する決着。「成長」とか「トライアンドエラー」とか、言ってしまえば身も蓋もないが。「してほしかった」ことを諦めて「する」ほうに回る時期とか、早さのことを思うとちひろさんに「うっ」ってなるし、遅さについて思うと江藤に「うっ」ってなる、そういう俺は今どのへんに位置するんだろう……。
+
俺も体にめり込む系の詩が書きたーい!
nemaru (id:***) 7年前
================ここから現代(2023/3/2ぐらい)
要約:たぶん自転車で出かけようとして鞄に入れてる本が読めないので家に引き返してチャリを置いてバスにした。バスでスマホでちひろさんの3巻を読んだら「それいいね…」の台詞があってうぅ…ってなって、家に帰ってからなんか色々引用した、そういう日の日記。2015年なんですね
もう8年前。まだあの頃はテンション高かった。見てくれる人がいたからテンション高かったんですね。今はもう誰が見てるとも思わないのだが、誰が見てたらシャキッとするのかとももう思わない。総体として今の私はボケてるとしか言いようがない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?