めも(図書館化)

あさ
新記号論少し読んだ
ネットのプロトコルや検索技術が図書館とか本のデジタル化計画に端を発しているので
すべてはデータになるというより、すべては本のようなものになり
消費者はすべて読者になる
というような話で、とてもわかりやすい見立てだと思った。
ふと、
この流れで、エヴァのマリについて考えると、
彼女はヴンダーの自室に網で抑えつけた
はちきれんばかりの蔵書を持ち
すべての書物を読むのが私の叶わぬ夢なのよん
的なこと仰ってた気がするのだが、
そう考えるとエヴァの登場人物は
百科的というか、「すべての」に執着する人の物語とも捉えることができ、
かじはすべての種を保存し、
ゼーレfeat.ゲンドウは魂とか存在、あるいは世界のすべてを変質させることに取り組んでいた。補助具であり、且つ妨害者としての冬月。
彼らのやってることはある意味、インデックス(索引)の破壊というか、ゼロクリア、あるいは全コンテンツの没個性化みたいなことである。
対して、今であるとかこれからに執着するのがヴィレメンバーである。

普遍図書館とか、いつかすべての何もかもが収蔵されるということと、
ゲンドウがなんか言ってた(コモディティ化だっけ?)ことは
この世のありとあらゆる書かれたものを読み取りデータベース化することのコモディティ化と、アクセスのコモディティ化は違う。でもアクセスされないとその成果は存在しないのと一緒とも言える。
世界へのアクセス権を得てすべてを消去するか、すべてをゼロで上書きして平等にしてしまうか、そんな感じ。その過程でユイに会えちゃったりするかもねー、みたいな。でもこれは旧劇か。
シンはちょっと違う気もする。
みたいなことを、なんか風呂で考えてた。

今日も仕事である。GWとは何か。
仕事出る前バーっと思ってることを書く習慣があり、ほとんどは下書きに埋没しているが、最近は公開している。
なんでだろう。
ちょっとした気分の波みたいなものである。
少し気が軽い。
あとやっぱGWだと部屋の中にいてもなんとなく空気が休みの空気な感じがする。駐輪場に行けばさらに休みの空気だなーと思い、道でも職場でも休みの…と思うんだろう。

ここで書いてることはそのままペーストして日記の一部にもする。
そして、日記にペーストしたあと、プライベートすぎる部分を削ってnoteとして公開する。


*****


ここから下は4/29ごろに書いたもの。

SNSで「サンリオ文庫が国会図書館のやつで読めるー」みたいなことが書いてあって、あとポールオースターが死んだというのがあった。

目録のtsvファイルを開いて鈴木志郎康さんの本がないか探したら、映画の弁証、二つの旅、やわらかい闇の夢、あとなんかあったな、ああ現代詩論の10か11か、なんかそのへん。
なんか8冊ぐらいあった。
雑誌のほうも検索したけど、凶区はなかった。
確か「1970〜80年代のやつを中心にやった」みたいなことが書いてあったから、それはまあ。

で、ですよ。
検索してから恐怖したのだが、これってそのうち私がめちゃくちゃ高いお金出して買った本もNDLに上がってくるってことじゃないですか。
しかも私も「読めればいい」派だから、デジタルならデジタルで全然いいってことになってしまう。
なので私は急いでフィジカル愛でる気概を持たねばならないである。
今は、本の風化と破れを気にして、個人でデジタル化をしこしこすすめているけれども、待ってさえいれば、そのうち凶区全部NDLにアップされてAppleVision Proとかで読めんじゃね?
…いや、考えないでおこう。
いや、もう少し考えを進めると…
もし、新生都市(鈴木志郎康さんの第一詩集。本人的にはなんとなくカウントしてない可能性もあるのかもしれない。少なくとも俺が作った感が出てくるのは第二詩集から。なんでそう思ったかというと、記憶によれば第二詩集のあとがきかなんかを読んだとき、私がそう思った気がした、という記憶があるから)がアップされたら、稀覯本の愛で方はもうそのモノ、フィジカル、あるということを愛でるしかない。

インターネット老人会且つネット漬けの自分に「フィジカル愛で」が出来るだろうか? 戦々恐々としている。
新生都市は、俺の心のグリードアイランドで「一坪の海岸線」「大天使の息吹」レベルの超レアなので、デジタル化してほしくないである。

Apple Vision Proの国内販売(今年後半と噂されている)に向け、凶区デジタル獺祭化計画を押し進めていたのだが、いやはや、当然NDLの資料も見るのにも役立つかもな、とは思っていたけど、もうNDLに今持ってる本の大半が入ってきそうな勢いなので、そうなってくると… まあ何もできることはないのだが、まあなんというか。
残念、でもないんだけど、収集することと研究することの差別化というか、ネトゲ廃人というか、時間と体力のあるやつが勝つ世界になってくる、元からそうだったけど、余計にそうなるというか。
ネットで、文字だけ読んで、背景が見えないプロじゃない人たちの文章を読んで育って、その人たちのバックグラウンドが見えてくるとなんか当然の素養とか環境があったみたいな、そんなこともあるけど、やっぱり手違いも起こって、でもそれはバイタリティのある人たちの生存バイアスみたいなものに支えられていて…
何が言いたいんだっけ。そうそう、なんか、結局体力っていうか時間だな。両手塞がるライン作業8hしてるバイタリティなくて21時〜5時までは寝ないともたない人間でYoutubeばっか見てる人は研究できないし、余計差がついて、働いた金で買った貴重な本もデジタル化されて…
なんかそういう、いや結局自分が研究というものがわからないのもあるけれども、なんか金と体力と時間と興味関心と勘違いみたいなものの掛け合わせとはいえ、厳しいなぁ。。
何が厳しいかというと、なんかそこは平等にしないでほしいみたいな、昔は全部やってほしいと思ってたのに、いざ中年になって中途半端にお金使って本揃えてると、なんか、「いやそれは困る」みたいな、
異議はないんだけど、ちょっと悲しみというか、えー…みたいな。

全然話変わるが
最近読んでる本(新記号論)の文脈で、漫画やアニメでたまに出てくる「登場人物のパワーが凄すぎて測定器が爆発する」というのは、どういうエネルギーの流れ方してるのか、記号のピラミッドとかフロイトの脳のやつとかを繋げて考えてみて、それをなぜ漫画は表現として使ってるのか(作者の意図や思想)を含めると面白いような気がした。
ばっさりいくと「そうはならんやろ」である。スカウター(ドラゴンボールで相手の戦闘力を測る片目型のスコープ)も普通は数字を上げてくだけならボンッとかならん。6桁以上で爆発する機械なんか怖くてつけていられない。数字以外のものが入ってきてるから爆発するのである。
じゃあその数字以外のもの(エネルギー)は何か。という問い。
これを逆に表現の問題として捉えた場合、「爆発するほど凄い」ということが分かればいい。まあそのまま普通に測り切れてしまうと「数字」になってしまうから、「2963374だ」「2963374だってぇ!? 機械の故障だろ」とか言ってると、ちょっと漫画としてどうなのかと思うので、まあ機械が壊れといたほうが都合がいいのである。
あとは、制御室みたいなところで盤面や操作盤がショートしてイカれるパターンもある。測定不能とか制御不能の記号化である。
デジタル化しているはずのもの(エネルギーの計測、数値化)がアナログの形のままで急激に流入してきて処理が追いつかない、オーバーフローする、ということの表現なのかなとは思う。
「そうはならんやろ」と思ってるのは、「エネルギーを数値化するための機械の回路に、エネルギー(計測対象)がアナログの形のまま入ってくるわけないやろ」ということになる。
そうじゃないと、単なる桁溢れで機械が爆発したり、研究施設がショートして研究者がやけどしていることになる。んなアホな
なんとなく原子力の比喩なのか、と思わなくもないが、少しズレてくる気がするので触れない。
そもそも戦闘力ってなんやねんって話でもある。ばねが凄いとか、体幹が凄いとかいう話ではなく、そういうのは前提としてあって、「気」が凄いという話になってる。「気」がめっちゃあるのが、「戦闘力が高い」ということである。
で、悟空側の人間は補助具なしで、肉眼で「気」をアナログに測ることができるが、惑星フリーザの戦闘員サイドはスカウターという補助具でデジタル化された「気」を数字として把握することができる。
フリーザは「530000です」と言ってるが、端数は切り捨てていると思う。実際は細かい数字があるのだが、フリーザも覚えていられないので530000と言ってるんだと思う。でもやっぱり数字の桁とか、0が続く光景はかっこいい。ぞくっとくる。カンストとかの気持ちよさは同じ数字が続くところに天井というか、到達点を感じるからだろう。
数字は制御されている限界に達したことを指し示すし、それ以上は制御機器の破壊によって表現する。そのセオリーももう「古い」と言える。
漫画はアナログ化(心理学化?)とデジタル化のトレンドを行き来しながら、互いにいいとこどりしながらこれからも進化していくのだろう(適当)。



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