継ぎ足しメモ
鈴木志郎康の「もっているようにみえる」と「みたとはいえない」
今回は鈴木志郎康の詩「ソファの男」(『やわらかい闇の夢』所収)と「粟島行」(『家の中の殺意』所収)を比較検討し、タイトルにもあるように「もっているようにみえる」と「みたとはいえない」の違いについて考えてみたいと思う。
もしかしたら、必要に応じて、初期の詩篇(『新生都市』など)に立ち戻ることもあるかもしれないが、まあそれは書きながら。
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まず、「ソファの男」から引用。
先に言っておくと、いま確認したら「ソファの男」は思潮社の現代詩文庫『続・鈴木志郎康詩集』には収録されてなかった。「粟島行」も。なぜだ。
「ソファの男」は後半がとても見事というか、とても好きなのでぜひ読んでほしいけれども、「短いので全文引用」とかいう理屈は、理屈になっていないから、そういうことはしたくない。
さておき。
次に「粟島行」。粟島がどこにあるかっていうと、新潟らしい。旅行で行く場所にリストアップしてある。鈴木志郎康さんの詩に出てくる地名は、基本旅行で行く予定にしてある。
話が逸れてしまった。「粟島行」はこうである。
「大丈夫か」と声を掛けたくなるが、終始このダウナーというのか、気が滅入りそうな雰囲気が続く。とはいえ、そこにぼんやり「死」とか「場所」とか、さまざまな要素が絡んでいて、一筋縄ではいかない感じがする。ドキュメンタリーとも紀行文とも私小説ともつかない変な感じの詩である。
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「ソファの男」との違いで言えば、シミュレーションっぽさとか、思考実験ぽさがない。「ソファの男」はまさしく「男」で、男を観察している何者かが存在している。観察者の見方と伝え方はとても妙で、疑うようにものを見たかと思えば、「男」の重量や力の伝わり方を、言葉で書くと当然なのだが、とても雑と思えるようなやり方で積み重ねていく。計測機器的な言葉運びではなく、論理として書かれている。そして、その結果として「男」の行為の総体へと戻ってくるわけだが、またその「休息」にも留保をつける。
これに比べると「粟島行」は、明らかにわたしが「貧しい」と感じまくっており、地名もあるし、私がいるし、私の行為や思考や心情がある。
(2024年8月16日朝、仕事まで書く)
昨日書いた部分を読み返していて、「ソファの男」の「休息が成立したように見える」の行から、「壁のない部屋」という作品(『青鰐 27号』『罐製同棲又は陥穽への逃走』『現代詩文庫 鈴木志郎康詩集』『攻勢の姿勢1958-1971』に収録)を思い起こした。
この詩は、鈴木志郎康さんの本人のサイトでも読める(サイト全体はところどころでリンク切れを起こしているのだが、この作品は残っている)。
「立ったり寝たりすれば生活でした(壁のない部屋)」と「休息が成立したように見える(ソファの男)」と「見ているともいえない(淡島行)」の違い。
何が違うのだろう。
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抽象化のレベル、あるいは固有名詞の量、心情描写、それはとりも直さず本人であるかそうではないか、事実であるかそうでないかと思わせる度合いを決める。あるいは、そう考えても差し支えないかどうか。
「壁のない部屋」は固有名詞はなく抽象的だけど、わたしの心情はある。ちょっとした神話みたいにも思える。「ソファの男」は固有名詞がなく抽象的であり男の心情もないし観察している何者かの心情もわからない。なんだかマウスの実験映像とか無音の外国の映像みたいにも思える。「粟島行」は固有名詞があり、具体性があり、わたしの心情もあるのに、わたしが観察しているもの(であり、かつわたしを取り巻くもの)を、わたしが否認し続ける状況が続く。
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「粟島行」の粟島や、冒頭の岩船は地名である。また、あとの詩行には
ともある。この隆起を起こした新潟地震は1964年6月16日にあった大地震である。凶区3号の日録にも「6月16日 新潟地震。」との記載がある。『家の中の殺意』の「あとがき」によると、詩が書かれたのは1977年2月〜1978年9月までの期間なので、新潟地震から約13〜14年経っている。
この詩に出てくる地名や事実と、「私」の「貧しい」「みたとはいえない」の連発は、それまでの詩の自由さと比べるといかにも縛られている。
地名や事実によって、また仕事によっても、自身の肉体の自由が奪われている。仕事によって奪われているのであるし、そのような詩を書くことによっても奪われているように思える。つまり言葉の具体性を上げることで「男」は「私」になり、「私」以外ではあり得なくなることによって、現実に拘束されている私が感じること以外を書くことができなくなるし、自分の首を絞めるようなことになってしまう。「水だから青」ではないように、「海を見ているから見ているといえるかどうか」も、私のことである。私のことであるなら、海を見ていてもほんとうに見ているかどうかは私が決めるのである。そして、この「私」は、見ていると決められないほど貧しいのである。この「貧しい」を、もっとほかの「男」であるとか、仮の「私」に言わせて、場所も新潟をやめて、もっとふわっとしたワード(こ、甲信越とか?)に変えればどうにかなるんじゃないかとも思うのだが、そういうことにはならない。
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本意ではない肉体の移動と行為、言葉の事実による私への拘束。
こう書くと、他の鈴木志郎康の詩篇が浮かべられる。「床抜き」なんかは特にそうである。ただ、「床抜き」は「ソファの男」のような、観察された、仮定された人間が対象である。
「床抜き」は、『家庭教訓劇怨恨猥雑篇』現代詩文庫の『新選鈴木志郎康詩集』『続・鈴木志郎康詩集』、また初期詩篇の詩集成である『攻勢の姿勢1958-1971』などで読める。
これなどは、「おまえ」をずっと落としていく詩(最後に少し変化はあるが)である。
自分で書いていて「"おまえをずっと落としていく詩"とは何か?」と思ったが、まあそういうもんである。こういう視点を生活に持ち込むと、すごく辛辣なことになるのだなあと思う。
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鈴木志郎康さんの詩が、第二詩集のプアプア詩から、『完全無欠新聞とうふや版』に収録されているような詩を頂点としてから、激烈さを潜め、『やわらかい闇の夢』のような一見平易な詩にシフトしていったこと。
これによって、「もっともっと観念から遠くへ(『やわらかい闇の夢』あとがき)」向かったかのように思われている(誰に?)のだが、個人的には実はあまり変わっていないと考えている。
「男」が「私」になり、主題が日常生活に入り込むようになったけれども、それも結局、鈴木志郎康さんの素の状態というのか、詩を書くためのカメラの取り付け場所とか、録画のオンオフのタイミングとしては、基本的には何も変わっていないと思えるのだ。
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『日々涙滴』所収の「投身の思い」から冒頭を引用してみる。
これはある意味で、「粟島行」を外側から見たような詩だと私は思う。「男」を作者にして、その「男」の疲れてしゃがむ行為や、見えても関心を持たない様子を、「貧しい」や「見たとはいえない」に置き換えると、そのまま鈴木志郎康さんの粟島ダウナーにつながる気がする。
私も時々仕事ですごく疲れた状態でバスに乗り、暗い車内の吊り革につかまりながら「なぜ誰も叫ばないのか」と思うことがあるが、そういう系統の疑問は、世界にたくさんある。
「もう疲れたー!すーわーりーたーいー!」とか、言いたいひと全員が地団駄を踏みながら叫べばいいのに、そうしないのはなぜか。そういう意味で今はスマホがあって、皆そこに意識を逃しているから、スマートといえばスマートな社会になっている気はする。
でも、鈴木志郎康さんはそういうのが嫌だから「貧しい」とか「見たとはいえない」とか言いまくっているわけである。仕事が進んでも周りが酒を飲んでいても、「酔っているともいえない」、寝る前になっても「私はここにいるとはいえない/粟島にいるとはいえない/粟島を忘れたともいえない」ずっとこんな調子である。
関心がなさすぎて自分がやっていることをやっているといえない状態をここまで執拗に書き続けると、逆に面白いというか、通り越して笑いそうになるのだが、鈴木志郎康さんの詩や文章には、時々こういう感じのおもしろみが出てくる。
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鈴木志郎康さんの詩の、「ソファの男」系の詩というか、日常のように見えて、架空のシチュエーションでも十分成立しそうな抽象化が為されているタイプの詩の一群がある(ように思う)。
そういった詩は、どちらかといえば集中の序盤に置かれていて、そこから助走が始まり、最終的に次への方法論の端緒のようなものを掴みかけるようにして終わる、という個人的イメージ。
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そう捉えると、『家の中の殺意』の詩は、グッと日常に寄ったあと、また離脱し始めようとして、抽象や抒情が混じり出している時期の詩のような気がする。
私は「最初期の詩→硬質な初期詩篇→言語破壊的な詩→プアプア系→頂点→ソファ系→極めて日常的な詩→日常+再ソファ(+出口的抒情?)→それらの混淆型→現実に抵触しない極私的詩群(言葉遊び的?)→ネット系→記憶系→晩年の詩」みたいなイメージを持っている。
とはいえ、これはあまりに雑な分類であって、基本的には、どんな時でも(プアプアの時でも)鈴木志郎康さんはずっと「ソファの男」系の詩を書いている。そのへんは、詩の主題の日常性というよりも、リフレインとか、行の進め方の執拗さのようなものをみたほうがわかりやすいようにも感じる。
あとは、1980年〜1995年あたりまでがすごいふわっとしてる気がしてて、このへんの詩はなんかあまり読めてない。時々「バブルだからか」とか簡単に思っちゃうけど、そうじゃないんだろうなとも思う。
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私にしかないことと、私じゃなくてもあることがあって、みんなやってるけど忘れていることとか、みんなやらないけど私はやることなどがある。鈴木志郎康さんの詩にはみんなやってるけど忘れていることを「私」を通じてほじくり返す系の詩が多い。
「私」というか、雑踏の中で個を屹立させるにはどうすればいいかということを考えていった末の、詩の方法論であったりとか、そこからさらなるシフトによって、最終的に、詩というものに対する厳しさと優しさを兼ね備えた人になったんだろうなと思う。
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鈴木志郎康の詩篇には、ナレーションのように、またリフレインのように語る観察者がいる(これについては別稿を設けて考えてみたい)。
この、ナレーションのようにリフレインする観察者としての自分と、具体的な生活者としての自分に重ねていくと、「粟島行」みたいな、こんなメッタメタにダウナーな詩になる、ということなのだろうか。
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これもまた別稿を設けたい話だが、『家の中の殺意』の「あとがき」において、詩人は自身の身に起きた変化について、こう書いている。
この詩集は1〜3(ローマ数字)に分かれていて、「粟島行」は3の冒頭に置かれている。3の詩は、それまでの詩篇に比べ、苦しさを感じる。つまり、家族といてもこのように思ってしまう自分を認識し、詩行に書き留めながらも、そのことそのものにも批判のまなざしを向けていき、そのような場所から徐々に遠ざかり始めている、とでもいうような。
それが抒情とつながり始めているようにもみえる。「口に入れてうれしい」のような詩に、至る前の状態とでもいうか。繋げようとしているともいえる。何もかもが意識の途切れによって、追いきれなくなる場所へと向かい、真っ暗なそこに抒情のようなものがある、というように感じるような。ただ、少し言葉で終端を丸め込みすぎているように思わなくもない。
次の方法論がみつからず、言葉そのものに囚われていくしかない詩人の苦しさを感じる。
(2024年8月17日朝、風呂に入るまで書く)
さっきまで、NHKのフィルムで撮られた映像番組で、粟島に関連するものがないか検索するにはどうすればよいかと試行錯誤していた。
詩の中には「仕事」としか書かれておらず、必ずしも撮影とは限らないのだから、空振りに終わるのかもしれない。もしあるのだとすれば、「ふるさとのアルバム」という番組が、それにあたるような気がしたのだが、違うような気もする。わからない。
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『家の中の殺意』を読み返したり、現代詩文庫やらなんやらひっくり返していると、私は「鈴木志郎康さんは自分の記憶についてあまり語らない」と思い込んでいたのだが、そんなことはなくて、色んなところに記憶を書いている。何をどう読んでいけば、思い込みや勘違いはなくなるのだろう。
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鈴木志郎康さんの最期の詩は、現代詩手帖に掲載された「五つの詩」だろうか。五つ目の詩には、母をおかあさんと呼んだことがなかったこと、母が私立(日大一中?)に口利きしてもらいに行ったかもしれないことが心のしこりになっているけれども、そこで自分が文学や友に出会えたとも書かれており、最後に想像の同人誌(単的独立)の0号を創刊して終わる。
何かが一周したような気がして胸をうつ。最期に、詩の中でまた同人誌ができる。
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(8/18の昼頃)
疎開のことを調べていた。城東区(現在は深川区と合併して江東区になっている)の水神小学校(当時は国民小学校?)3年生のとき、山形県の赤湯に疎開。
「現代詩論10(晶文社)」の略年譜、また「江東区 学童集団疎開の記録(PDF)」「江東区立水神小学校」の沿革を参照。
「江東区 学童集団疎開の記録」を見ると、城東区から赤湯に学童疎開したのは四砂小学校と水神小学校の二校である。
『家の中の殺意』の「三人が三羽の頭の大きな鳥になって」で、以下のような詩行を見つけたためである。
少し他の家事と軽い運動を済ませてまた戻ってきた。
鈴木志郎康さんの萩原朔太郎賞受賞時のパンフレットをパラパラ開くと、私が知りたいようなことはすべて網羅されているように思えてきて、調べたり、まとめたりする気が減ってしまった。
感覚的には十分にまだ書くべきことは残されている気はするのだが、先日図書館で戦後詩誌総覧をみて、自分が青鰐やバッテンや凶区について調べていたようなことも網羅されていて、さまざまなものが、ちゃんと見れば先んじて調べ上げられていることに、今更ながらに気づくばかりで、なんか自分の集めたり調べたりすることに水を差されたような気分になってしまう。
私とはまったく無関係に、すでにそのようなものはあったのに、それに気づかなかったり、手にとって開こうとしなかった私が悪いだけなのに、そのような本が先に存在していることのほうがまるで悪いかのような、微かな怒りを憶えてしまう。
そんな本や冊子にも、結局のところ、詩作品について横断的に語ろうとする人はなかなかいないのだった。
詩人も結局有名なシングルが何曲かあり、アルバム(詩集)の曲があって、ヒット曲を点々と聴かれるしかないのだろうか。
詳しくはないが、ガーランド(詞華集)やブロードサイドバラッドのようなものだと思えば、元々本は好みの紙を自分で編むようなものだったとも考えられ、個々のアンソロジーでしかなかったともいえる。そこに批評やキュレーションによって紹介する人が現れ一冊の本として売るような世界が一瞬始まってもうじき終わろうとしているだけなのかもしれない。
私のお気に入りの言葉でいえば「桂冠詩人を見上げるような事じゃなくて、君が勅撰であって、君自身が語る番なんだから。勅が枠を作るんであって、それは役人に理解できるしろもんじゃない」という話である。
かといって、noteに書いていても仕方ないという気持ちも拭えない。このアルゴリズムでブラウザバックするたびに表示が変わるような場所でハートをもらっても私は信用できない。
(8/18昼下がり。文章は途中で断章になって話の筋もバラけてしまったが、一旦ここで投稿してしまう。この内容はコピーして日記にも差し戻す)
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