わいの平成詩史(だだ書き)


 〈10/9〜10/16にかけて断続的に書き足していったもの〉


りりじゃん29号が昨日とどいた。ポストに入ってたから、じっさいにはもうちょっと前に届いていたのかもしれない。

特集は平成詩史覚書。
読んでたら自分もなんか書きたーいって気分になってきたのでメモとして書いていく。

前史
教科書に載ってる詩とか、音楽の歌詞しか知らない状態。
たぶん、教科書には谷川俊太郎の芝生とか、あとは遺失物係のやつが載ってたはず。
記憶として残ってるのは、なんか幕間のコラムみたいなページに、同学年の子が書いた詩があって、それは魚を釣り上げた、ということを書いた詩で、それを読んでしょっちゅうむかついていた記憶がある。
今考えれば叙事というか、起こったことをそのまま書いていくという詩のスタイルもあるよみたいな解説だったのだと思うが、このようにひねりがないものは詩じゃないみたいな気分があったのかもしれないし、同学年の書いたものが教科書に載ってるということに対する妬み嫉みもあったのかもしれない。
歌詞はCocco、Chara、黒夢、ミスチル。スピッツは聞いてたけど歌詞で聞いてる感じではなかった。
寝っ転がりながら歌詞カード開いて聞いてたのはCoccoとかミスチルで、Charaはアルバムを買わなかったから、8cmCDでミルクと光と私を持ってたぐらいだった。
CoccoのRainingとCharaのミルクの歌詞は好きだった。
あと、Coccoは歌詞カードにバンドの編成が書いてあるのがよかった。ブーゲンビリア(1stアルバム)はなんか歌詞カードがパリパリしてて変なにおいだった記憶がある。
漫画はBLACKJACKの文庫のやつを何度も繰り返し読んでいた記憶がある。ほとんど好きなのだが、なんか下水道でネズミに顔を齧られるシーンのある巻だけは怖すぎて、その話が収録されている巻だけが手に取れなかった。3巻か4巻あたりだったと思う。
あとは稲中の11巻だけを繰り返し読んだり、ドラゴンヘッドの8巻だけを繰り返し読んだりしていた。これは、学期末に学校の机の中を片付けるときに発掘されたもの(出てきたもの)を貰い受けたもので、表紙のカバーがなくなっていた。
つまり、わたしはひとりで何かものを買いに行くということができない子供だった。
親が買ってきたもの、拾ったものや教室の机に入っていたものを持って帰り、そればかり読んでいた。
ドラゴンヘッドの8巻を読んで、その前後を知ろうとは思わなかった(当時の深夜の番組で、鈴木蘭々か誰かが望月峯太郎に会いに行って、「いつまで新幹線やってるんですか」みたいな感じで詰めてたのはぼんやりと覚えている)。まあともかく、自分には何かに衝撃を受けて、それを買い求めるようなことはできなかった。
衝撃を受けるというようなことも少なかった。
子供の頃、日々はいつも異様な緊張に包まれていた気がする。

1999年 4月 TOSHIBA Dynabook Satellite2520
専門学校に入学したのを機に、パソコンを買ってもらった。元々父が仕事でMacを使っていたが、家にはパソコンはなく、わたしも先に書いたように、何かをねだるということができない人間だったし、親も何かを察して買ってあげるようなことができない人間だったので、家にはいつも最低装備しかなかった。(思い返せばわたしは狭小1DKで4人で暮らしていた。)
そこに最もらしい理由で、最もほしいわけでもない機種のノートパソコンを持ち込めただけでも値千金だったのかもしれない。本当はMacが欲しかった。あの当時だと周りはローン組んでバイトしてG3とかG4を家に買ったとかいうのが聞こえてきたりした。
わたしはバイトとかも無理だった。というかこの頃は持病の対人恐怖症が確変を起こしており、いろんな意味で精神的に極まっていた時期だったため、毎日学校に通えている(と言いつつ鴨川でベンチに座り蟻を潰している)のが奇跡だった。

なので学校でiMacとかG4を使っても、それを家に買う金がなかったので、TOSHIBAのノートPCを頑張って使っていた。メモリが64メガで、HDDが4GBぐらいで、フロッピーが入るやつだった。
メーカーのパソコンは、初期のデスクトップにお客のことなんかまったく考えていないようなクソ重いバナーのようなものが大量にチカチカしているのがデフォルトだったので、まずはそういうのを頑張って消して、スタートアップのわけのわからないアプリケーションを消して、すっきりさせる(軽くする)のがスタートラインだった。
たぶんWindows98あたりからか、IEの4からか、デスクトップの壁紙にHTMLも使えるみたいな仕様になってて、それでバナーを押したらブラウザが開くという、くそみたいなメーカーのくそバナーだらけの文化が勃発していたような気がする。だからまずは壁紙のHTMLをやめるだけでもだいぶマシになる。

で、カスタマイズをしていくと「…で、君は何をするわけ?」というフェーズに移行してくる。君はパソコンを使って何をなすべきか。君はパソコンでどう生きるか。

買ったはいいものの、することがない。エロゲ(バーチャコールと鬼畜王ランス)を借りてやったりしてた記憶がある。
ただ、家が最低装備だったので、自室がなかったので、ナメック星でベジータと鉢合わせした悟飯がドラゴンボールを岩陰に隠したときの感じで食卓の陰になる場所で画面が見えないようにやるために、かなり不自然な体勢をとっていた。6畳もないところで母と弟のいる空間でやるエロゲはかなり難しかった。もしかしたらふつうに見えていたのかもしれない。
そもそも鬼畜王ランスに至ってはまったく記憶にない。確かゲームのシステムがわからなくて投げ出し、学園キングとかSystem3.6?(数字はテキトー)で遊んでた記憶がある。
(このアリスソフトのSystemというやつにしろ、親父の会社でいじらせてもらったMacのHyperCardにしろ、わたしはなんかプログラミング的なものやオーサリング的なものに興味があった。結局それはHSPとHTMLになってしまうのだが…。わたしにはC言語は厳しかった。ついでにいえば、野田クリスタルがあの画面を出してきたとき、たぶん当時HSPをやってた人なら一発で「あれ、なんかこの感じHSPぽくない?」と思ったと思う。でっかちゃんの色数が落ちてる感じとか)

次は音楽である。とはいえ、音楽を作るソフトは入っていなかった。わたしはパンフレットで見た「ソフトウェア音源」という言葉に騙されて、「あ、これだけで(音楽制作まで)いけるんですね」と誤解してしまっていたのだが、実際には音符を並べて音源を鳴らすソフトがないと曲は作れないのであった。
なので、東芝が最初に入れてくれているソフトの中で、最も音楽制作に近いソフトが、「機械が合成音でテキストを喋ってくれるアプリケーション」でしたので、これに短い言葉を打ち込んで、ロボットのボタンや人の顔のボタンを押して、今のゆっくりの始祖のようなボイスを聞いて
「…で?」
と思っていた。

ペイントで絵を描くのは試しすらしなかった。親父の会社でPhotoshopを知ってたら(さらにいえば、MacにはHyperCardがあって、あの書き味はペイントとは明らかに違うよさがあった。誰が描いてもなんとなく味があるような気分にさせてくれる魅力があった。そこに軽いプログラミングというか、オーサリングの機能がついていて、非常に魅力的なソフトだった。)ペイントをいじろうという気持ちにはなかなかなれなかった。

手詰まり。もうやることがない。東芝の初期ソフトはどれもこれも失礼を承知で言わせていただけるのならば、もはやクズのようなものばかりだった。

当時の東芝はクレーマー騒動という、今でいう炎上のはしりみたいなことをやらかしていた。だからといってクズなどと言ってはいけないのは承知のうえで言わせていただけるのであれば、本当にクズのようなソフトしかなかったと当時のわたしは感じていた。途方に暮れていた。

まあ、当時は「パソコン(なんちゃらかんちゃら)ただの箱」みたいな決まり文句があって、パソコンというのはそれだけ買ってもただの箱であり、アプリケーションソフトというものをパッケージで買ってインストールしてからがスタート、というのが常識だった。
わたしもそれは知っていた。
でも、わたしにはものを買う習慣がなかった。

わたしの家は最低装備で、わたし自身もものを買うパワーがなかった。もちろん金もない。
いや、金はあった。小学生のころ、一時期自販機の釣り銭口と自販機の下を漁る趣味があって、それで拾ったお金と、親戚縁者からもらったお年玉のストレート貯金があった。

だから、今思えば、キャッシュをすべて使えばMacを買えたのかもしれない。でも、それを家に置くという、何か自分の意思を明白にする行為自体に抵抗があった。
すべては何かの口実によって家に入れなければならない(さもなければ…)という強迫的な思い込みがあった。
この(今はかなりやわらいだ、強迫的な観念の)根源は何に由来するのか。自分自身の肯定感の低さとも密接な関係にありそうだが、ここは先を急ぐ。

わたしは近所の本屋さんに、がんばって行った。本屋さんには当時、CD-ROM付きの雑誌というのがたくさん売られていた。よく吟味して、それのひとつを手に取って、レジに持って行った。
CD-ROMの中にはVectorや窓の杜から集められた有象無象のフリーソフトがいくつも収録されており、おまけにMPEG1のエロ動画なども多数収録されていた。
わたしはこのCD-ROMによって、少し延命した。
D-PixedでGIFアニメーションを描いて遊んでみたり、音楽ソフトは忘れたが、たぶんフリーブ? 綴りだとFreaveかな。という名前の人のMIDIのソフトがあって、そういうのを使ってた気がする。
先取りして言うと、ネットにつながってからはcherryというソフトを使って音楽をこちょこちょ作っていた。

とはいえ、これはこれで終わりが訪れる。
作った、わーい。
終了。

音楽はまだテープに入れて人に聞かせたりしたような気もするが、GIFとかになってくると、なんか人に見せるほどでもなく、なんか行き詰まりを見せるようになる。

それでまた本屋さんに行って、またソフトの入ってるCD-ROM付きの雑誌を買う。
次の雑誌にはぷららというプロバイダーの接続用ソフトが入っているCD-ROMがついていた。

わたしはこのCD-ROMでネットの世界に参入した。電話線を外して、(パソコンのたぶん左側の後ろ(のほうだったと思うが)に挿して、モデムがピーガーと鳴るのを聞いて、インターネットの世界に入った(のだと思う)。

最初のころはまったく記憶がない。たぶんIEの設定とかを頑張っていたんだろうとは思う。

でも、そのうちシズザンスとかを見るようになり、DOI-chanさんのサイト(D-Pixedを作った人)も見たりなどして、少しずつネットを見るようになっていく。そしてそのうち彼は「街の灯」とかに足を踏み入れていくのだが… それはまた、別の話

ここでふと記憶違いというか、併記しておかないといけないと思ったのが、学校でのネットについてである。学校の入学とともにローカル環境バリバリのノートパソコンを手に入れていたのとは別に、学校ではネット環境が整っていたのである。
じゃあそこでフルにネットを活用できたかといえばそうではなく、まずは時間の制約があった。授業のあいだ、教室が使われていないあいだのみネットが使えた。さらに、当時は検索してもそんなにサイトそのものがなかった。Yahooは検索するところというよりは、分野別にそこそこ有名なサイトを順番に表示するサイトみたいな役割だった。
サイト作成者が申請を出して、実際にYahooの人が見に行って、そのサイトの充実度によって登録の可否を決定したり、サングラスのマーク(COOLマーク)をつけたりしていたのだと思う。

おそらくわたしは、家でインターネットを接続する前に、専門学校で詩のサイトにアクセスしている。
これは、G.I編のゴンの「ニッグ」と同じレベル感の、衝撃的な
やつである

専門学校のYahooで、COOLマークのついている詩のサイトにたどりついたのが、おそらく、わたしがインターネットで詩に触れた最初だったのではないか。

そして、そのサイトが日本WEB詩人会だった。

(つづく)

そしてすぐそのつづき。

前回の話に補足するとすれば、この時期の出来事の時系列は、わたしの精神状態の限界精神によって、かなりうろ覚えである。
事実としては2001年9月23日ごろにわたしは日本WEB詩人会に会員希望のメールを送っている。
2001年のイメージフォーラムフェスティバルで鈴木志郎康さんが「極私的にEBIZUKA」で参加している。
2002年1月にわたしは誰かと相互リンクしている(つまり自分のサイトをもっている)
2002年3月に現代詩文庫の石垣りん詩集買う
2002年5月〜 鈴木志郎康さんのサイトを読み始める(この頃は専門学校も卒業して無職ひきこもり状態)


今、ふとイメージフォーラムフェスティバルの過去作品を見てたら、2002年の受賞欄に「HOME(小林貴裕)」が入っていた。これはひきこもりの兄に対するドキュメンタリー映像作品で、当時ひきこもり界隈(そんなものはない)で話題になった作品である。

ここでひとつ重要なのが、当時、NHKがひきこもりサポートキャンペーンというのを張っていたことである。
最近も武田鉄矢とあの人、松、
松山ケンイチのひきこもりのドラマがあったり(NHKスペシャル ドラマ こもりびと)、何かとNHKはひきこもりに対するキャンペーンを定期的に張ってる気がする。

2000年代のひきこもりサポートキャンペーンの頃は、確かひきこもりの定義は6ヶ月、精神的な病気とかでもないのに家族以外とコミュニケーションをとってない、みたいな感じのやつだった気がする。
そしてひきこもりは病気ではなく状態像である、という言い方が為されていた。
斎藤環さんがよく出てきて、あとはネガティブハッピー・チェーンソーエッヂの滝本さん(現エリーツ)とか上山和樹さんも出てたし、先に書いた「HOME」の紹介などもあったように記憶している。

あのときのひきこもりは、定義上19歳〜40歳ぐらいが範囲だった。そのあとにニートという概念が玄田さんから提唱され(元はイギリス発の概念だと思うが)、こっちは主にとくダネ!によってネットのおもちゃにされた感があり、ニートのほうがメジャーになってしまった気がする。

で、わたしが定義上なんだったのかというと、結局ニートであり、4つの型(これはたぶん小杉礼子さんが分けたのだと思うが、享楽型、ひきこもり型、立ちすくみ型、ヤンキー型とある)でいえば、享楽型に分類されざるを得なかった。
個人的な心象でいえば完全にひきこもりなのだが、定義とか分類上は享楽型のニートだった(これも政策の及ぶ範囲を集計、決定するための暫定的なものだとはいえ)

2002年の4月にはネット詩爆撃プロジェクトというのがある。
これを、享楽型のニートのわたしは、日本WEB詩人会に所属している状態で喰らった。

(つづく)

一気にそのつづき
状況を整理しよう。
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1999年ごろ、わい、ノートPC買ってもらう

1999〜2001年 ネットに繋ぐ?

2001年ごろ、わい、日本WEB詩人会入会

2001年〜2004年 わい、ひきこもる(とはいえ、享楽型のニート)

2002年
4月、ネット詩爆撃プロジェクト
5月、鈴木志郎康さん

2003年
4月、現フォ(WEB)発足

2004年 わい、労働

2006年〜2013年 わい、プライベートで死ぬ

2013年〜2014年 わい、ネットに戻るって感じがする

2014年〜2017年 リアルな世界の詩のやつと一瞬だけ関わる

2017年〜2022年 少しずつ疎遠になっていく(けど時々参加する)

2021年 徐々に詩への興味も薄れていく(りりじゃんと現フォのみ)
2022年 徐々に詩への興味も薄れていく(りりじゃんと現フォのみ)しかし、自分で本(詩集とか?)を作れないかとInDesignを年間サブスクして来月の支払いやばい

2023年(未来)
4月、現フォ20周年
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わたしは悪い記憶は消していく派なので、プライベートでなんかあったやつとかはもう黒歴史としてバンバン屠ります。

だから2006〜2013年あたり、欲をいえば2006年〜2015年あたりまではなかったことにしたい。というか実際にない。この世には2006年〜2013年は存在しない。

まずはこの歴史観を受け入れていただきたい。

(つづく)

またすぐつづき

ここで書いていて思ったのが、ネットに初めて接続したのが、実は2001年9月よりも後だったのではないかという可能性である。
専門学校で送ったメールの返信を見るために、家でネットを接続する必要に迫られた、という考え方である。

今思い返していて思い出したのだが、わたしは2年コースで半年留年したから、卒業がちょうどその頃にあたる。
だが、そのあと1年間は、その学校でもらったアカウントで家からもネットに接続できていたような気がする。

となると色々前提が崩れてくる。わたしは卒業したあとも、学校からアカウントをけされるまで、学校のアカウントで家からネットに接続していて、それが無くなるタイミングでぷららのCD-ROMでネットに繋ぐようになった、という流れ。

これ自体が、直接的に詩との関わりに影響を及ぼすものではないが。

たしか、ぷららで接続しているあいだに、Livedoorが無料プロバイダとして勃発したので、そちらに乗り換えて、そのあとADSLの波がきたときに街で配られていたモデムでYahoo!BBになる、という流れだったように思う。

(つづかない?)

※今回は詩の話がほとんど出なかった。

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