0711

あさ。エレン(仮)は今日も元気である。なんか最近世話ばかりでなかなか本読んだりできてないが、まあなんか今も草を齧っている。
今は磯野真穂さんの「他者と生きる」の第二部みたいなところを読んでて、自分らしさについて、新聞などで自分らしさとよばれるための要件のようなものをさぐり、そして、風呂に入るとか歯を磨くといったあたりまえのことには「自分らしさ」は使われない、というような話が書かれている。

わたしはなんでも鈴木志郎康さんと関係念慮させていただく所存なので、その関係からいうと、鈴木志郎康さんが「観念からもっと遠くへ」というキャッチフレーズで「やわらかい闇の夢」であらわした詩の世界というのは、まさしく、前段に挙げたような、風呂に入るとか歯を磨くといったあたりまえのことのなかに自分らしさを見つけ出す行為だったのではないか、とも考えられなくもない。

海につき出た桟橋が思い浮んだ
そこに釣りする人が何人かいたら
私は彼らの方に歩いて行くだろう
何を釣っているのかなと思って
置いてあるバケツを覗いて見るだろう
魚が入っていても私には名前がわからないから
ただ数えてみるだけだ
それでもういいのだ
沖の方を見る
当然、海と空は広くて
そういう海と空は何度も見たことがあるのに
その度に何を思ったかなんか忘れている

鈴木志郎康 海を思って(やわらかい闇の夢 p44-p45 青土社)

「やわらかい闇の夢」の詩は4部構成で、徐々に帯にある通り、先に進むにつれ「観念からもっと遠く」に行く。

わたしは毎回「観念からもっと遠くへ」が頭のなかでこんぐらがる(もっと抽象的になるのか?と勘違いしてしまう)ので、もっと身近に、と言い換えて考える。ようは当たり前すぎて見逃しているシーンを再構成して、あたかもそのままであるかのように書くようなことに力点を移していっている、ということになる。死角から、あるいは今まで感じたことはあったが見逃していたある種の感興(自分ですら気づいていなかったが、確かにあるというような感興も含めて)を言い当てるような、技術であり鋭い観察眼であったりを、意識や習慣のほうに振り向けて、谷川俊太郎の「自分の中に他者を見つけること」にほんの少し混じる抑揚を完全に平板にして頬杖ついていた手が滑るようなズッコケ感(ナンセンス、と言い換えてもいいかもしれない)を前面に押し出していった、というのがわたし個人の見方。
この詩集には、先に引用した「海を思って」の「それでもういいのだ」とか「本当によかった(私がソファに坐っていると)」とか、本来であれば、そこを「うまくいいあらわす」べきである、という詩の技術の使い所や勘所をあえて丹念につぶしていき、日常生活のいかにもどうでもいいことに視点を移したものをガンガン詩にかけていくということが行われている。
あとがきにも「人間の瑣末な姿の真影」を見つけるには至っていないと書いているが、まあここにふつうは飾り付け、つまり修辞を駆使してあるていどはキラキラしていたり、余計につらく見せたりといった味付けをするのが「当たり前」だったし、今もそこそこ当たり前のままであるが、塩でどうぞぐらいの感じで特に素朴な
あー、時間が

からの続きである(7/12朝)。
特に素朴な…、なんだったかな。忘れた。
瑣末な人間の姿を、つまり都市生活者、うーんこの場合だと高度経済成長期なのだと思うが、このへんは谷川俊太郎もそうだと思うのだが、高度経済成長期をどう享受しながら生きてきたか、その中で都市生活者としてどのような価値観を持って生活していたか、というふうに見ていったとき、飯島耕一が鈴木志郎康は掃除機にカメラをつけたような視線で詩を書いてるといったり、夏目漱石「それから」の代助みたいだと言ったりしたが、それは都市生活者の側面と都市生活者の中でさらに執拗な、ひらたく言えばねちっこい視線を持った人間としての詩人像であり、また富岡多恵子がいう貧しい詩、というのも都市で生きる生活者のさもない姿を映し出す(的確な技術によって析出する)ことを言ってるのだと思う。
鈴木志郎康自身、電車の雑踏などを映すと、映像だと、パッと見てその人だとわかるのに、その人が誰だかは結局わからないみたいなことを言っていて、映像では人の顔が写り込んでどうしようもなく一意にその人である(防犯カメラであれば証拠になる)のに、その彼らを特定するための意味や目的がなければ私たちはわざわざそれをピックアップしようとする気にまったくなれないといったこと、ピックアップしようとする気になれない人間たちの、さらにピックアップする気にもならないようなものごとを、丹念に積み上げようとしていたのかなと思う。そしてそれが、計らずも「自分の中に他者をみつけること」に通じていた。それもかなり素朴なレベルで。B

(そして現在は、書く、ということに関して既にそういうことが起こっていて、映像に関しても起こっている。
ある媒体へのハードルが下がると、一意にその人であると認めていたものが雑踏化して、その意味や目的(合理性)を少しでも欠くと途端にわたしたちはそれらをピックアップしようとする気にもなれなくなり、その「なれなさ」は既にSNSやこのnote、あるいはAmazonやYoutubeのおすすめなどによって反転した形で実装されてしまっている。
わたしたちの興味は既にある程度、機械化され、非常にピックアップしようとする気にもなれないものを見に行こうとすれば、わたしたちは隣人を知る(カズオイシグロ的な)か、外に出て偶発的なものごとと出会うか、ネット上でややこしい手続きと莫大な無駄な時間とで、そこへ自力で辿り着くしかないことになる。
話がずれた。)

ただ、そこからは結局、家族観のようなものが出てきて、わたしは少し遠のいてしまう。結局のところ、谷川も鈴木もかなり素朴な時代感、家族観をもってるように感じてしまうのだ(普遍的、という意味ではなく)。
渦中にいること(高度経済成長、のなかにある家族観のなかにある個人であるということ)をどうしても脱しきれないというのか、脱していてほしかったと思ってしまうのだ。
なにか、家族というものに対して、もういっこ芯のところを穿つようなことを書けなかったのか?と思ってしまうということ。
ようは、すぐれた詩人であれど、時代が掛けていたレースのようなものを、家族というものを捉えるときにはつかまされてしまっていたということ。
そういうことをよく感じる。
ただこれも、詩と詩人の人生がそこそこ注目されてセットで追っかけられていた時期の特異な現象のようにも思うし、最終的には作品だけが残り、そこから引き込まれるひとが、その個人の人生にも馳せる経路(しりかた、興味のもちかた)を辿ることになるのだとしても、わたしたちは同時代にそれを見つけ出し、それをできるだけ「これがどのような背景で現れ、どのようにすぐれているか、どのようにユニークなのか」といった批評を加え、敷草のようなものを拵えてできるだけ長い時間にあればいいのか、また、光芒のように立ち消え、それぞれが家庭の灯のなかで慎ましく生きるのがいいのか、また、それらのアンソロジーをつくるべきなのか、ただこの光芒のアンソロジーの道筋を指し示すことぐらいはできるのかもしれない。
とはいえただ単に共有する、URLを貼る、ということでしかないが。
光芒が雑踏化して行く(ただの明るみになる)中で、家族が唯一それに棹をさせる存在なのかもしれないけれども、光芒を光芒のまま辿るようなやり方にどうしても固執してしまうのはなぜだろうかというと、やはりさっき言ったとおり、わたしにはどうしても家族、というものについて時代との関連において「つかまされてしまう形態」のようなものがあって、ほんとうはそうではない、と思いたがっているからなのだと思う。

ふとおもいだし追記:
「海を思って」表現について。表現をみていこう。なぜ「釣りする人」なのか。なぜ「釣りをする人」や「釣り人」ではないのか。
また、「何を思ったかなんか」は「何を思ったかなんて」ではないのか。
あとは、「思う」という言葉の多さであるが、この思うもくせものだ。
最初に思うのは「海に突き出た桟橋」であり、そのあとの二個目の思うはその想像の中の桟橋の釣り人のバケツに対して、そして最後、みっつめの思う(思ったか)は、話者の人生における海や空を見た記憶を反芻することを反芻することに対して掛かっている。
この「思う」や、「当然」であったり、「もういいのだ」といった
平易であるが、そこに感興の起伏を産まないという起伏のようなものがある。つまり、日常の中の「きらりと光る汗の中に」のような、なにかさもない日常にきらめくものを無理に見出したり探しだそうという姿勢は皆無であり、ただ、団地のようなものが興りつつある戦後日本社会における都市生活者である自らを媒介してその生き方のなかにわざわざ意味や美しさを求めなかったらどういうものがみえるのか、といったような姿勢にたいし、今でもわたしは好感をもつのだと思う。
毛を逆立てていえば、今また日常の中で、というかおそらく永久に人間が続けていくと思われる、詩を美しいと思ったとき、なぜかそれをきらめきだと勘違いし、わざと美しいものを探しだそうとして飾ろうとしてしまう姿勢、ないものを書こうとしてしまう姿勢、そういった姿勢をわたしはとくに悪いとも思わないものの、好ましいこととも思えない。
詩が感興や起伏を起こしているのは読んでいる「わたしの内部」での出来事であって、そこにある言葉そのものではなく、言葉はそのように再生されるように再構成されたり、あえて隠したりすることで、そのものに近づけるように配置されているだけなのだ。個人的には入沢康夫の未確認飛行物体を読んだあと、なにかそこにわざわざとってつけてあるような言葉があるか再確認してみるとよいと思う。そこには感情を安易に靡かせたり、誘い込むような言葉は一切つかわれていないはずなのに、自分のなかにはなにかそのようなものがあるかのように感じてしまう。なんかそのへんで感興を起こしたものと、感興を起こすための言葉を誤解し、あまりにも直裁な言葉を置きにいってしまうことで、そういった詩は、詩を台無しにしてしまっているのだと思う。重ねていえば、それはそれで悪いこととは思わない。ただ、そんなにいいことだとも思えないし、すくなくとも私は読んでてあんまり。どうかなぁ…、みたいなことは思う。でも、それによって、鼻で笑うとか、蔑むとかはないようにしたい。
話がずれた。
ようは、少しフラットにみることで、とりたてて美しくみせたり、荘厳にみせたり、意味ありげにみせたり、権威的にみせたりするような表現を相対化できるように、むしろわたしの温度感や距離感(時間も含む)別に優先順位をつけ、少し重みづけをしたあとに、再度フラットに見直すような姿勢を保つといえばいいのか…、あとは偶然性、朝起き抜けにパッとよんだものが妙に沁むようなそういう重みづけをつけていきたい。そういう贔屓はどんどんしていきたいと思う。

同集でそこそこ知られてる(と思うのだが…)作品「終電車の風景」に出てくる「汚れ新聞紙」もそうであるが、こういった微妙に変な造語のようで造語でもない、単純に言葉を連体形?(だかなんだかわからないが)でくっつけたような言葉が散発的に出てきたりもする。他の詩にも「長髪というのになった」とか「ああいう」とか「そんなふうに」みたいな言葉もでてきて、なんか一見だらしないふうに見えるというか、なんか表現を切り詰めることを諦めたのか?と思わなくもないような表現をしているところがままみられるのだが(とくに「いいなァ」とか「本当によかった」とか、それをうまく表現するのが詩だろう、という考え方があるのだとすれば、そういう方々にすればズッコケ待ったなしであろう)、これはなんとなく、手塚治虫のブラックジャックで時たま見られるような「甘ったれるない」とか「ふざけるない」といった表現になんとなく近しいものを感じる。
癖とミスのあいだのような、油断したら出てくるような感じの誤植のようでもあり、自分のやりがちな言葉の運びや選びのようなものをあえて残したり、付加することによって、何かしらのリズムであるとか、ばかばかしさとか、どういう理屈かはわからないが、そのように選定されて置かれている言葉が結果的に「よかった」とか、小並感に近いものなのである。
たとえば、大人になって、親にいわれて数えて浸かっていた湯船を、いつしか黙って、自分で決めてあがるようになったが、じゃあ何を基準にあがっているのだろうか、といったことを毎回生活者として再生し直して、再構成する過程で、残したり削ったり添加したりして、わたしたちが再生しやすくなっていたり、多少の違和はスパイスぐらいに思っているのか。
ただこの「生活者」の射程もいつまでもつのだろうか、ということは思わなくもない。表面的な生活習慣が変化し、それらを置換することはできたとして、背景にある暮らし向きの変化によって詩の一部、あるいは全部にロマンや象徴的なものがないせいで、見向きもされなくなってしまう、つまり憧憬をもたないこのような詩の形がどこまでいけるのか、といったこと。
なんかそんなことを考える。
とはいえ、一部〜二部にかけてはかなり観念的なものが多く、そのぶんいつまでもある種のおもしろさはあるのだろうが、そこから先については時代背景のようなものや、社会学的な、島宇宙的なものとも絡んでくるような(見えない隣人など)部分もあり、それを都市生活する個人としてどのように詩に昇華しているのかといった面からみてみる、あるいは「(詩と、社会学?)どちらのほうが早いか」といったふうにみてみるのも、おもしろいかもしれない。こういうとき、発表年をみると、思ったよりも遅いな、ということが多い。先見的なものよりも、浸潤したもののなかで、間隙をつくように、さもないことをふつうは書けないように書く、みたいなことをやってる。そんなことを思う。

B
話がずれるので、Bとしてもうけた。WEBアニメスタイルで昔読んだ、田中達之がうつのみや理を評した言葉を引用する。

小黒 ショックだったというのは具体的にはどういう点ですか。形の取り方とか動きとか?
田中 いや、もう演技の発想が違う。あれが自分がやりたかった事ではないんですけど、画や演技の組み立て方が今までと全く違う事がショックでしたね。さっき言った「再記号化」ってやつを、全く俺なんかの想像外の方向からいきなり達成してるって思いましたよ。
 本人の意図は違うのかもしれないけど、マンガ(アニメ)の記号的表現を、リアリティを元に再検討して、再構築して、再びシンプルなマンガの記号として提示した、という大仕事だと思います。
小黒 そうですね。いや、おっしゃる通りだと思います。

animator interview 田中達之(2)
WEB アニメスタイル特集 アニメの作画を語ろう
http://www.style.fm/as/01_talk/tanaka02.shtml

なんとなく、このへんのくだりが思い浮かぶ。うつのみや理さんというのは、アクエリオンの18話あたりで、今のAC部がポプテピピックで知られるようになったようなニュアンスで知られた(と私は理解している)作画の人で、今だと、NHKかEテレの「おはなしの国」のOPのアニメーションで見かけるかも。雲の上を子供がけんけんぱするように飛んでるようなアニメだが、色使いから動きまで、たぶん一度見たらすぐ「あ、うつのみやさんだ」とわかる感じがあり、これはたぶんアニメーターとしていいのかわるいのかは微妙なラインなのだろうとは思う。少なくとも今の、作画崩壊とかしょっちゅう言うSNS的な世間とは折り合いよくはないだろうと思う。
あとはエウレカ3期のOPとか、色々やってる。
うつのみやさんはアクエリオンの公式ブログで、「テレビ受像機の故障ではありません」とかいうタイトルで気軽に書いていたらネットは今でいう炎上状態で、賛否両論だった。
18話は、うつのみやさんの作画スタイルを逆手にとったような回だったのだが、まあよく動いててよかったのだが、視聴者の一部は、それ以前の問題であり、これは作画崩壊であり、世界観の連続性を期待している(消費者として、キャラが似続けているかどうかを祈念し続ける)人たちからすると許せないみたいな感じで怒ってて、まあ当時のネットはそれ以上どうこうということはなかったけど、なんか後味は良くない感じだった。
この頃はGUN道ムサシとか、ヤシガニ屠るとか、なんか作画崩壊していたものをちょいちょいネットで笑う時期だったかもしれない。
当時から作画崩壊の意味の捉え方については議論があった気もするけど、わたし的には動いていたらいいし、あいだの絵がどうであろうと、ちょっとデッサンが狂っていようとまあいいかって感じであり、そこまで一貫性を求めたり、安定したクオリティを求めてキレるのは、なんだか「撮り鉄」みたいでいやだなあ(しんどいなあ)と思う。
一時期、アニメや作画に疎かったわたしも、うつのみやさんという軸でアニメを見るようになったりした。
御先祖様万々歳をVHSで借りてきて見たり、妄想代理人(明るい家族計画だったかな?)見たりとか…。
で、このWEBアニメスタイルにはうつのみや理さんへのインタビューもあり、そこで井上俊之さんと自らの力量について、以下のように話している。

うつのみや そうですね……。アニメーションを長くやってはいるんですけど、僕は、仕事ができる、というタイプではなくて、逆に、自分の技術的な欠点を、色んな知識とか方法論を見つけて補うタイプだと思うんです。そういう意味では、井上君のようなタイプとは違うんですよ。喩えて言うなら、小さな排気量のエンジンを、色々とチューニングして走るタイプが僕で、凄い排気量のエンジンでガンガン走るタイプが井上君だと思うんです。才能だけで比べると、僕は井上君に劣るんですけど、チューニングして、なんとか誤魔化して走ってきたわけですね。

http://www.style.fm/as/01_talk/utsunomiya02.shtml

ひさしぶり懐かしくて読んでると、こんな話も出てきてて興味深い。

うつのみや やっぱりね、僕らがやってきた事っていうのは、もう――敢えて言いますけど――どんどん無意味になってしまっているんですよ。最初に挙げた、うめだりゅうじ君がいかに凄い事をやっていたって、今ではCGの演算処理でできてしまいますからね。そうなると、僕らの必要性そのものが疑わしい、とさえ思うんですね。もう、絶滅する動物のようなものではないかという危惧があるんですよ(苦笑)。
 でね、僕も3Dソフトをちょっといじって分かったんですけど、もう僕でも3DCGが作れちゃうんですね。で、作った3DCGをセルシェーディングすれば、普通のセルアニメに見えるんです。そのクオリティについても、『八犬伝』の1話とか「浜路再臨」、あるいは――細切れのフィルムで判断するのは非常に失礼だけども――『人狼』までも、技術でアニメーターの足りない部分を補えば、できるものだと思うんです。
小黒 つまり、そんなに腕のよくない人でも、あのぐらいのものができるようになるだろう、と。
うつのみや ええ、そういう気が凄くしているんです。勿論、それにはいい面と悪い面があって。いい面というのは、完成度の高いフィルムを量産できる時代になる、という事ですね。僕らの後に出てきた、フルアニメをやろうとした人達っていうのは、さっきも言ったように生活を捨ててまで、玉砕戦法で作っていったけれども、CGというツールを使えば、玉砕せずに量産して長編が作れると思うんです。あとは、一番最初に僕が感じた、アニメーションそのものに対する絶望感を取っ払ってくれるという事です。もの凄く複雑なカメラワークや、画面上の大勢の人を同時に動かす事が可能になる。そうした、フォローできる範囲が、凄く大きい。 ただ、そうなると、淘汰されるアニメーターも多分出てくる気がする……。昔ならアニメーターが描いていたメカアクションを、今、CGが肩代わりしている作品も実際にありますしね。そういうふうにアニメーターの存在意義が脅かされるというマイナス面もあるんですね。
小黒 脚本家や小説家の仕事で言うと、手書きからワープロ打ちに変わったのと同じですよね。ちょっと前まで「モノ書きが、ワープロみたいな便利な道具で書いていいのか」みたいな事を言う人がいたわけですよね。で、さらに遡ると、「小説家は万年筆なんて、そんな便利な道具で描いてはいかん」という時代があったわけです(笑)。まずは、墨をするところからやらねばイカン、と。
うつのみや 「過程が大事だ」という発想ですよね。漫画の世界でも同じような事があったらしいですね。手塚治虫さんが、活躍し始めた時期は、描き版だったんです。漫画家の原稿をトレースして、印刷のための版を作る人がいたんですね。で、そういう作業をしていた人に言わせると、「写真製版によってダイレクトに写した物には、味がない。こうやって、一度人の手を経て、再構築するから、そこに味が生まれるんだ。そこに芸術性があるんだ」という事なんだそうです。でも、今はそういう事を言う人はいませんよね。
小黒 つまり、価値観が変化するわけですね。
うつのみや いや、と言うより、誤解して捉えていた部分が消えていくわけですね。
小黒 ああ、そうか。必要以上のところに価値を見出していたのが消えるわけですね。
うつのみや そうです。便利な道具を使う事によって損なわれる部分は、本質的なものではない、という事ですね。
小黒 逆にね、ワープロがこの世に出た頃って、ワープロで書かれたものをもらうと、ありがたかったんですよ。「わあ、綺麗な手紙だ」って。今は、全然、そういう感覚ってないですよね。手書きで長い手紙もらった方がありがたみがあるくらい。そういうふうに、意味合いって、どんどん変わっていってしまいますよね。今、CGは人の温かみがないみたいな言い方をされるけれども、それも今だけの問題でしょうね。結局、「何を表現したいのか」という事が問題になるという事ですよね。ワープロが当たり前になれば、ワープロで印字された原稿の美しさには意味がない。当然の事ながら「何が書かれているか」だけが問題となる。それと同じように。
うつのみや そのとおりだと思いますね。何よりも、僕らの仕事では、できなかった事ができるっていうのが、大きいですね。例えば、歩いている時の、リアルタイムの服の動きっていうのは、何度も僕らは、頭の中の映像を元にシミュレーションし直して、作画をテイクし直して作るんですけど、CGならば、正解が簡単に出ちゃいますからね。
小黒 少なくとも、滑らかに動く、みたいな事は、もう目的じゃなくなっちゃいましたもんね。例えば、あるものがクルッと回るっていうのを描くのは、凄く大変な事で、それができるアニメーターって、もの凄く優秀な人だった。綺麗に回ると、みんなが驚いてくれた。つい最近までそうだったわけですけど。そんな事は、もう意味がない。
うつのみや そうやって、クルッと回転させる事そのものが難しかったから、そのアニメーターに高いお金を払って依頼していた、そのシステムが崩壊するんですよ、これから。だから、いくら技術的に優れていても、そのスタイルが、作品スタイルで要求されなければ、優秀なアニメーターであっても要らなくなるかもしれないんですね、恐ろしい事に。そういう意味では、技術的に優れたアニメーターっていうのが、生きにくい時代がくるかも知れないですね。まあ、そこは、マイナスだけじゃなくて、プラスに考えていきたいです。
小黒 逆に、今までリアリズムだ、表現主義だ、みたいな事を言っても、基本的には手で描いたものだから、たかが知れていると言うか、垣根が曖昧だったわけですけど、その表現の範囲が広がっていくでしょうしね。そうなれば、リアルなものだけではなくて、表現主義的なものの価値も上がっていく。
うつのみや 上がっていくはずですね。絵画で言えば、印象派が台頭してきた頃は、雑に描いた、いたずら描きみたいなものだって言われていたわけですけれど、カメラが登場して写実画が一旦意味を失うと、印象画の方が再評価されたりしたわけですよね。同じ事が、多分、アニメでも起きるんじゃないでしょうかね。
小黒 全くそうですよね。
うつのみや だから、これからは、作品を管理する、もしくは監督としてトータルに物事を作っていく立場の人間には、夢のような、ホントにクリエイティブな時代が来るんじゃないですかね。

http://www.style.fm/as/01_talk/utsunomiya04.shtml

これが2001年4月に公開されたインタビューらしく、21年前の話である。え、まじか…? 2022-2001=21
まじか?
21年? まじでそんなに経ってんの?

引用したインタビューのワープロのくだりなどは、現代詩文庫鈴木志郎康詩集の富岡多恵子の詩人論で書かれていたくだりとほぼほぼ同じ話である。

あと全然関係ない話だが、「やわらかい闇の夢」の「ソファの男」に出てくる映像感は、コーネリアスの「あなたがいるなら」のMVのような感覚?を想起させなくもない。これぐらいCG的な詩が書けるようになりたい。

床にずり落ちた男ひとり
背中からコップに力が一直線に走る
酒滴が跳ねる
球状の液体は一瞬男を隅なく映したのだが
それは誰にも見えない

鈴木志郎康「ソファの男」部分(結部)

鈴木志郎康さんの詩には「なんとかの男」的な詩がけっこうあるが、胡桃ポインタ所収の「ベンチの男」はネットでも読める。

石の風所収の「エスカレーターを走り降りる男」

姉暴き所収、「屑男、夜だけの旅」

初期詩篇、数篇(「新生都市」所収)

話がそれた。

うつのみやさんの作画の画期というのは、アニメーション的なごまかしをいったん基本に戻して、再度リアルさを取り入れて再構成し、もう一度アニメーションに戻した、というようなことらしい。今、御先祖様を見てもあまり凄さがわからないというのはそれだけ浸透してしまってるからだろう。

なんか、これと似たような構造を、鈴木志郎康さんの「やわらかい闇の夢」の詩に感じなくもないのだ。
日常詩(そんな言葉ないね、ごめんね)を一旦現在のリアルに置き直し、再構成したというか。要は民衆詩派とかプロレタリア、自然派、歌声よおこれとか道路派(、じゃない、なんかあれ、アメリカの、ああいうのとか、つまり、イデオロギーや価値観、ある種の集団的な(仲間的な)感覚を(極力、無駄に)纏わないように単独者としての自分を見つめて結果的に他者に開かれるようなルートを再通させたようなところがある。そういうののプロトタイプというか、テストケースがこの詩集なのかな、と思う。
まだ「おお、なんとかよ」みたいなことはまだちょっと言ってるけど、そういうのを次第に辞めてく過程が垣間見えるというか。
つまり時代がくだったとき、そいつ誰やねんとかそれなんやねんといった言われるような、不用意な他者や集団や価値観への呼びかけしないというのか、それまでの詩集では外部にあるものをなんとかして閉じ込めようとしたり、閉じ込めたものを無化していくことに力点を置いていたが、もうそれをやめて、内部にあるものをできるだけのちのちにもあるもので繋げられるように配線をつなぎかえたというか、素朴ではあるが、素朴に言葉の先につながるものを信じているわけでもない。
宛先がなくならないように慎重に書かれているとでもいうか。
それは結局春と修羅序で宮沢賢治が言ってるような、かなりの射程を狙って書くということと同じことになるのだと思うが、そこに新鮮な驚きや感興は起こさない。波風を立たせず、しずかに「そういえばそうだね笑」ぐらいの感じで現実を切り取ってる。時々、まあ、色々ある(「普通は書きとめないこと」という作品)んだけど、基本的にはそういう詩が多い。

ついでいえば、「普通は書きとめないこと」や次の詩集にある、「楔の感情(タイトルうろおぼえ)」といったものの中に、わたしはあまり感心しないというのか、ステレオタイプな(あるいは西洋的な?)道徳観とか価値観とか家庭観が見え隠れしているようにみえて、自分にはこういうのは書けないし、おもしろいけど、あんまり好きになれないというのがある。

意外と詩はジェンダーとか家族に対する観念を乗り越えれないというのか、そこは書かないほうがいいのでは?と思うような詩が多い。
いつでも内部破壊をモットーとしているかのような日常に追撃をくわえるような詩を書いていても家庭観は純情素朴そのものであり、それを破壊するようなことは書けないあるいはまったく従順にジェンダーや役割について、面従腹背or盲従する自らは曝露するが、それじたい無化したり無視するかのようなことはやはり起こらない。そういうことがあるので、詩を自身の属性や世代によって選ぶ、といった手順が必要になってくる。
つまり人生のロールモデルを昇天しつつあるリフトアップする詩人によって辿るのではなく、そのような制度に順応し始めると次のロールモデルのリフトへとジャンプしてシフトして、なかなか上昇しない道を辿るということになる。詩人の尖ってる時期ばかりを読むことになる。
マリオの1-2とかのイメージであるが、これはこれで精神的な成長、つまり情動と認知の発達の苦手な極をほっぽりだして耽溺し続けることで、もじどおりの浮かばれない人生を送るはめになる。
書を捨てるわけじゃないが、少し出会いを偶発に切り替えてみたほうが予後がいいのかもしれない。自然物と人工物の摂取配分。チモシーとペレットの配分。

それがいいのかわるいのかはだれも知らないが、そういうことになるとだけ言っておく。まあそれでもなんだかんだあるし、なんだかんだあって死ぬ。

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