0604

あさ。最近何回もヘーゼツナッツのものだとおもいこんでピスタチオのものを買ってしまう。ぼけてきてるのだと思う。
我が都市に瀰漫するスーパー、猖獗をきわめるフレスコというスーパーがあります、5倍デーののぼりのある日は必ずお世話になってます。
個人的には業務スーパーと阪急オアシス的なスーパーのあいだぐらいのニュアンスで、じゃあなぜ業務スーパーや阪急オアシスを使わないのか
やはりはびこり具合による。
時々、やすいけど、ブロッコリーに青虫がいたりするので、なんだかなぁと思ったりする。結構品質がキてるものをそのまま置いてるときがあるが、まあ安いのでいいかぁと思って買う。
阪急オアシスだとまぁそんなことはまずない。なんか栄えててファミリーがいるイメージ。フレスコは大学生が練り歩くイメージ。
最近ピスタチオのチョコだと思って買ってるけど、頭の中のピスタチオはヘーゼルナッツのことで、食べたときに「これはピスタチオじゃない」と思って、箱をみるとピスタチオと書いてあり、少しかんがえていると「あ、俺がピスタチオだと思っているものはヘーゼルナッツなんだ」と思う。
じゃあいつ俺がへーぜつなっつをたべたかといえば、たぶんエコルセ?とか、なんか缶に二等辺三角形とか、四角とか、いろんな形の扁平な薄焼きの焼き菓子を巻いたようなお菓子のアソートみたいなやつを赤とか緑のサテンの手触りの包み紙で巻いてるようなやつにヘーゼルナッツの風味のやつがあったような気がする
これはおばあさんが印鑑とか病院でもらった薬の紙袋や輪ゴム画鋲などこまごましたものを入れる缶缶だった気もするし、おばあさんがよくこのエコルセを買ってたか(もらってた)記憶がある。
エコルセ、ゴーフル(ゴーフレット?)、阿闍梨餅は常に祖母には供給源があり、いつもどこかからくすねてきては子孫である我々にあたえていた、彼女は夏になると551のアイスキャンデーを買い、ドライアイスを薄く水を張ったアルマイトカナダライ(直径350〜450?)に入れ煙を発生させ時々それに顔を突っ込んで吸うとなんかすん、とした寒気と酸味のようなにおいがした。
祖母は老人会的なものに参加してはそこで出されたお菓子を持ち帰り、最後のほうは喫茶店でやってる宗教っぽいやつに行って最後は老人ホームっぽいやつへと行った。
缶のおもてはなんか神話というか、昔の字みたいなかんじでえこるせ…と書かれていて、古い壁画みたいなデザインだったかと記憶してる

たぶんこいつのせいで、わたしはヘーゼルナッツとピスタチオを逆に記憶しているというか、混濁しているのだ

同じ引き出しにしまっている

おじゃじ引き出しにしまってるといえば、コリー犬とコメツキムシも同じ引き出しにしまっている。
共通点は「なんかシュッとした」「いいやつ」「わすれたころに見かける」



このYoutube見て詩のことを考えていた。
「テレビ」を詩に置き換えても大体通じる気がする。

内容は、最近テレビの企業案件化が進み、クイズ番組の選択肢が企業内のどうでもいい細かいどうでもいい話や自慢話ばかりでクイズとして考えようがないし、特に知りたくもないし、たとえ正解がわかっても知らんがな、どうでもええわ、みたいな案件が急増しているというもので、例えばジューシーチキンサンドの売り上げが初めてシャキシャキレタスサンドの売り上げを超えました!みたいな感じで、それはコンビニの内部の人間からすれば「えー!」であっても、一般視聴者からすれば「知らんがな」って話であるのだが、そういうのがまかりとおっててもうテレビオワコンだなとこの元テレビマンのさっきーという方は実感したらしい。

簡単にいえば、企業の隙自語(すきじがた、隙あらば自分語り)に近いのかもしれない。
自分語り、問わず語り。

これが個人になると、この隙自語をいかにテーマや要求に沿わせ、需要に乗るかという話になって、生産性にもってかれそうになる。
これはいかに生産性とはべつのとこにあるといっても表現や詩も例外ではなく、いかに水分というかウェットさ、個別性を均したり、共通するものや、共有可能でかつイメージ換気力の強いものに置換していくか、効果的であったり「そのまま」伝わるための奇妙にみえる言葉づかいなどを駆使して、何かしらの、個人という配管の中をつたってバラバラになったはずの「それ」がまた個人の中に再構成されるように組み立てる作業というのは必ず自覚的にせよ無意識にせよ発生する。
ここで水をいかに搾り、乾かし、保存つまり、普遍性あるいは多数の人に響くように書いてしまうかが詩の要諦な気がしないでもないが、なんかそうじゃない詩というのも今はある気がしている。
前者が個人の詩で、後者は社会的な詩。社会的な詩には立ち回りとか所属とか賞とか友達のほうの詩。たまに、あれ、こっちのほうが詩だったっけと思うことがある。
簡単にいえば1945年以降の詩はほぼ後者の詩の中と前者の詩の往復というか往還で成り立ってるような気がしないでもない。
ちゃんと時間経過とともに干されてそれなりの普遍性を持ち得るという意味で近代詩のほうがまだなんか確かなとっかかりを感じるという気持ちもわからないでもない。そのとっかかりのことをうつくしさとか言ったりもする気がする。あと理解という意味でも、そこまでわけがわからなくもない。
で、そのうつくしさとかわかりやすさを捨てて新しいうつくしさとわかりやすさに飛び移ったのかといえば、なんか全然違う方向、必敗の負け戦を続けているような縮小再生産をやってるようにもおもえる。
もともとこうだったものが一瞬だけなんかおっきく見えただけなのかもしれないとも思う。

いつのまにか喩は外部化あるいは拡散され、ある程度の時間が過ぎればその流れにある人間、あるいはふと興味のわいた余暇のある人間が「調べてやってもいいよ」といった感じで、ある種の詩の理解は趣味みたいになる。
そしてもっと出版されてもいない、あるいは自費出版の詩集のほとんどは誰からも黙殺はされるが、ISBNとかを取ったり、SNSで友達になんか買いて貰えば、検索には残る。
で、それ以前の詩がそうじゃなかったのかといえば、たぶんそうだったのだと思う。結局ずっとそうだったのだと思う。
一瞬だけアカデミックなところからお金やジャーナリスティックなものが流れ込んできただけで、もともとの姿はこうだったのであって、戦後から少しのあいだの詩を取り巻く環境がちょっとおかしかったというか、お金と拡声器がちょっとあっただけなのだと思う。
詩をとりまく環境と詩そのものと個人をわけて考えていくと、
とはいえ考える気力もない。
詩はだいたいどうでもいいものになる。生かしてはくれる。調べてるあいだ、読んでいるあいだ、考えるあいだ。それによって話し合ったりもできる。
ちょっと前の、詩をとりまいていた環境を目指そうと鼻息を荒くしたりすると、馴れ合いとかに見えたりするものも、まあ昔からずっとあった活動のひとつだし、人間活動のひとつで、ただ、その人が発したルール無用の言葉を目の前に置いて差し向かいで話すという、ちょっとした違和感というか、特別さはある。何もなしでふつうに話すのとはちょっとだけ違う。
その共通項だけで集まれたりするから不思議だ。
たぶん詩は、そのちょっとを生み出す最小単位に近い。
なければスマホをいじりあって、差し向かいで喋りようもないはずなのに、詩の紙ひとつ置いて差し向かいで読んでもらって自分が補足を加えていたり、工夫を重ねた箇所を語り、また相手がここがいいと、本当にそうおもっているのか、あるいはひねりだしたお世辞かはわからないが、大抵はまあ後者だとしても嬉しくなくはない。まあべつに「俺はここじゃない」と思いながらでもいいじゃない。いようよ
オープンダイアローグっぽいし、リフレクティングのようでもあるけれども、詩という作品を(一応)噛ませてある、介在させてあるから、ね。まあ、セラピーだといわれても甘んじて受け入れよう
さっきいったみたいにちゃんとした詩、みたいな世界もあるのかないのかもしれないけど、俺はもっとガチで詩がやりたいんだ!みたいな気持ちがあるのかもしれないんだけど、君はここだと思う。そうサジェストされてここへきた。かなり的確だ。まあこっからどこへいくのも自由だが、基点にして、あとは好きにすればいいのだと思う。



詩はしょっちゅう別にいらないものと言われる。なくても困らないと。困るのは個人の心情吐露の「場がなくなる」とか取り柄のない人の最後の砦みたいな、場所としてであって、まあそれはそれでいいとも思うし、作品っていう発想になるようなものなんかほとんどないし、作品とよべるようなものは結局かなりの道具立てとか文脈を理解しないと読めるしろものでもないし、だいいちそんなにエキサイティングでもおもしろくもなく、どこにいっても一時的な思い込みや悟りみたいなものや互助の世界が多岐茫洋と広がってるだけで、なんかしっかりしたプロアマがあったり、製作者と享受者がそこまで歴然と決しているといったたぐいのものでもない。
じゃあ誰でも書ける?
いや、おそれおおくも…というタイプの、詩に対して極度に神聖なものをみているような人もいるし、真逆の、すれた人もいる。
どっちも一同に会し、すれた人は「こんなまじめ腐った詩…」と思いながら堪えながら場にいて、神聖に、おずおずと書く人はすれた人の自己満足の意味不明の詩のいいところをその人柄で褒めそやす。
なんかつらい構図だが、ずっとある世界で、これからもずっとある世界なのだと思う。お互いが持っている詩というものへの先入見と個人の深奥とか世界の真理?の一番よく展開できていると思われるもの、あるいはその放棄の形などを持ち寄り、提出し、お互いに慰撫しあったり、これは詩じゃないとか思いながら、家に持ち帰る。
詩を書く人と会うというのは得難いものがあるが、尊重しながらあり続けるのはなぜかむずかしい。本当のことが言えず、少しずつクリンチしていく。
このクリンチから抜け出すには見当識をめまぐるしく、まるで当たり前かのように切り替えていかないと先に進めない。
詩を書きながら、個人として隙自語を行いながら、普遍性やうつくしさに到達しようとしたり、そこから距離をとるようにしながらその都度、詩を書く。書かれたものへの言葉に窮したり労したりしながら尊重する姿勢を崩さず、本当のことを言い続けたい気持ちはずっと燻り続ける。焼け焦げる。
とはいえ人生は終わる。終わるまでになんとかしたいよね。
共通理解として、そのへんはわかる。でもそのあいだの表現物として提出されたものの程度としての自分も、相手も、う〜ん…みたいな時に陥るお世辞クリンチ、あるいは本当のことだけをいうために池を迂回するような書き方をしているときの苦しさ。逆に先に世間一般の自分としてこの本は世間的には大概かもしれないが、わたしはこの本にTボーンステーキを削ったピンゾロを投げる気持ちで誉めていきたいので今から褒めちぎります!と宣言して書くぐらいのことはしたい。じゃないと言論統制だと思う。
なんか、生まれたことをことほぐことと、作品としてどうかとか、もう少し引いた目線で見た時のしょぼさのようなものについても、一応は言ってから、すべて正直に吐いてから、もう一回おめでとうとか言えたら言いたい。

じゃあ、かといって ☜結局つかわなかった


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