メモ岩

ハイスタに戻せるのがM-1の強み、みさえ、まさえ、ときて次むさえといけるんがクレしんの強み。キッチンで牛乳を豆乳で割ったものをあっため、ロールケーキを切り分けつつそんなことを思った。6時。前。

もうこれはチンチラ用のケージなのよ、と思いながらイージーホーム60ハイメッシュを組み上げる。数ヶ月悩んでいたがAmazon初売りのっかってえいやっ。荒俣宏の世界大博物図鑑の普及版は惜敗。でもまたいつかなんかのタイミングで買うかもしれん。
デグーを部屋んぽ。チモシーを入れて新しいケージの中で食べてもらう。どうですか。たぶん図書館にもあるし、というか毎回螺旋階段降りるとこまで(つまり階下の景色が見え始め壮観な棚やら読んでる人たちの頭やら思い思いの姿が見えるあたりまで)は、頭の中によぎってるのに、完全に降りると一気に忘れてしまう。で、帰宅してから「みとけばよかった」っていうのをもう何年? 相当長い間繰り返してる気がする。
自分の人生はなんかそういうのの蓄積でしかないような気がする。うわもったいな!うわ低すぎ、これずるいな気もするけど、40すぎるとそのへんも自然と折り合いがついてきて気にしなくなってくる。

で、昨日借りたのは岩成達也、びっくりした。今「いわなりたつや」って打って変換したら「入沢康夫」ってなった。変換、やりすぎやろ。
岩成達也『私の詩論大全』というやつで、開けてみるとやはりというべきか、現代詩手帖の連載を本にしたやつっぽい。
大岡信『蕩児の家系』はしょっぱなからフルスロットルでいってるが、こっちはなんか「私事で恐縮だが…」的なところと「まずその前に二点言っておかねばならぬことが」みたいのが延々続いて、ひょっとしてもう何も始まらないのではないか? みたいな雰囲気が漂い始める。
なんか出版社とか同人とかの話から入るのがもうお客様目線じゃないというのか、あとがきに書きなさいよこういうことはと思ってしまう。
こういう誠実さは逆効果で、自分にも思い当たる部分があって、端的にいってモテなそうというか、別にモテるために書いてるわけじゃないんだろうけど、なんか、「早速始めようか」みたいな、ちょっと置いてけぼりぐらいのほうが惹かれるものである。
けど、そういうのはもう生まれつきのものというか、シュッとできる人はできるし、もっさりした人はもっさりするしで、もうこういうのは性分の問題なのでどうしようもない気はする。
でもちょっと読んでいくとすごくいいところがあった。もうこれで全部評価がひっくりかえるぐらいよかった。

独学者の共通した欠陥に、定義使用乃至は概念規定がどうしても正規のそれとはずれる (恣意的となる)ということがある。これは私自身、私の専門分野の事項についてしばしば経験したことであって、極端な場合、ある問題を独学者が解決したと思いこむとき、実は、定義そのものを意識的にか無意識的にか少しずらせることによって「問題解決」がはかられていた、ということさえそれほど稀なことではない。

残念なことだが、私の場合もそうでないという保証はどこにもない。 というよりは、私自身、すでに テクニカル・ターム、特に言語論の用語については、かなりずれた使い方をしているということは十分 承知している。したがって、本当をいえばここでは言語論の用語は使用しない方が混乱が少ないとは思う。だが、新しい用語を造るのもいまさらたいへんなので、ここでは従来通りとせざるを得ない…(p33)

岩成達也『私の詩論大全』p33

これはとてもいい文章だなと思った。
毎回自分の文章の冒頭に掲げておきたい。



というか読んでて思ったのが、経歴というか、最初のほうにある生い立ち編を読んでいて、鈴木志郎康さんと少し似てるというか、なんかちょっとそんな気がした。たぶん生年も近くて(岩成さん1933年、鈴木さん1935年)。というか

「手ばなし」で詩的な領域というものは、いまなお私にとっては、何かしら違和の感じのする領域、何かしらそこに安心してひたりきることのできない領域なのである。その点、非詩的な領域での詩的事象の発生は、その発生を一つ一つ確認することができる分だけ、私にとっては「安心」なのである。

岩成達也『私の詩論大全』思潮社 p27

たとえば、ある一瞬暗いなかにパッと落とされたとき、人間はそこがどこだろうかと凄く気にしますね。手探りでもして、そこがどこかわかったら落着く。(中略)叫ぶんじゃなくて手探りでも何でもいいから、自分がどこにいて、それが何であるかがわかればいい、そこなんですよ。

現代詩手帖 1968年5月号 p48 鈴木志郎康の発言

この部分だけ読んでもなんか非常に近しいものを感じる。時代背景と生育環境によって、何か、この二人は言葉を信用できなかったというか、信じたいけど信じ切るに足るものがないというところに対し、なにかしら考えて、手を打たなければならないという方向に動いていったように見える。

あと家が自営業で疎開して一浪してるところが共通点である。フランス文学に行くところも似てるが、なんかちょっと系統が違うというか映画に行くか理数系に行くか、また、神戸か亀戸かの違いはあるのかもしれない。いや当然もっとあるんだろうけど。そんなことを悶々考えながら昨日は床についた。

(1/6〜1/9)


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