暫定

経緯

クリニックに通う
パンフレットでギャラリーを知る
見に行く
なんか名前とかメール書くところに書いた
そのギャラリーからのメールでウェビナーがあると知る
ウェビナーを受講する
そこで質問する
「ここなんかおもしろいんじゃないか」とNPO教えてもらう
行きあぐねる逡巡する気後れする
8月ごろ
行ってみたら日曜なので閉まってて逆に安心する
11月も終わりごろ
占いが一位だったのでこのノリで行くことにする

理由


10代から対人恐怖、視線恐怖、むっつりスケベの症状があり
20〜30代はなんとか乗り切ったが40代で再発してきた
筋力や勃起力は衰えるのに視線のむっつりは増してる気がする
社会に居られなくなる予感がひしひしする
また20〜30代で多くの人と別れた
喧嘩したとか死んだとかではなく
突然無理になったり、被害妄想(わたしが殴られたり金を巻き上げられていた人のことを、わたしは秘密にして誰にも話せなかった。だから表向き、その人はわたしの友達にみえていた。だから、誰かが安易に連絡先を教えるとバレてしまうし、わたしは周りの人になめられていたから、簡単に教えたりされそうだったから、そういう関係をすべて絶った)ので、結構孤立してる
行政がポストに入れる「しんぶん」系のやつも、40代の男というのはまだやれる、まだ自力でなんとかしろみたいな雰囲気がぷんぷんして、さいごのほうの催しの欄とかにも自分が困ってる件の受け皿にはなりえず、でも自分は確実に衰えゆるやかに危機に瀕していっている実感はあるのにどうしたらいいかわからない。
から

どうしたい


見学。居たい。時々来るから、こういう人間がいるということだけ知っておいてほしい。来なくなったら死んだ、という感じ。

こういうのがいますよ感。そしてこれは仕事での関係やプライベートの関係ではないかたちで(仕事は仕事が切れると消える。そもそもこの仕組みもどうかと思うが。いや自分で仕事の中で関係を作っておけよと言われそうだが、つくづくなんだかんだでサラリーマンみたいな生き方だった。男は自分でこじんまりした空間とパートナーや子との関係を構築&確保し、そこで自己を癒しメンテナンスせよという圧迫感に、結果的には屈従しているようなものだ。しかし、わたしはそのどれもにうんざりさせられてきて、自分がそれをやるのもうんざりで、じゃあオルタナティブがあるのかといえば、それはそれでいかにも「さみしいもの」にみえてしまって、所属することができない。恥の意識。失礼。
でも、試すことはできるかもしれない。規範は、なじんだりにじんだりおおったりしてくるけど、その外を試すことはできるかもしれない。そういう感覚。それだけでも結構覚悟がいる。)
家族、仕事。
わたしがおそらく幼く、そして「そういうもの」だと思えないたちなので、何かをえて「ああこれだ」とか思ってる自分が嫌になったり、たぶんキレたりするから、家族も仕事も「ああこれだ」とか「そういうものだ」とみてしまうものなので、また、それによって嫌な目に遭って来たから、だから自分はそうはならないぞとは思えないし、ならない。
疲れた。
最近疲れてる。
美味しんぼの40巻あたりの山岡みたいな感じかもしれない。でも自分はこのまま60も70もそのまま行く。なんだかんだ、イタイまま、50ぐらいで地味な社会的なストレスがたたって孤独死する感じがする。

治したい ほか

視線恐怖をなくすか、散らすかしたい。「いちいち感じなくしたい」が正確か。また、そういうものだと受容しながら自尊心にちょくでダメージがいかないような思考回路を構築するか。

フラットな人間関係。二人いれば関係性に凸凹のような自然な形状ができてくる。わたしは必ずそれに対し、不満をもつ。かといって、わたしは自身を分相応に認識することはもう無理だと思うので、なるべく距離感をもって誰ともフラットに、正確にいえばフラットかどうかもよくわからないぐらいの遠さで接したい。要は人を見て攻め入るとか駆け引きされるのがすごいしんどい。
コミュニケーションにそれを持ち込んできて何を勝つの?と思ってしまうし、目線恐怖で目が泳ぐ人間に対し、それをみて動物的につけいってくる人とか、目線でキッと圧してくるタイプの人ってかなりいて、それと仕事の論理的だったり建設的に進めることって相反してるんじゃないかって若いときは思ってたけど、まあそれはもういい。
でも人としてそういうありかたがあるからといって、そうじゃない場所がないのはおかしい。狂ってる。
なんでもいいから隙があれば攻めればいいのかと毎回思う。なんでそう窪みがあれば流れ込もうとするのか。人間の能動性とか関係性は水みたいに単純なのか、むしろ自制してコントロールしてなんぼじゃないのかと思ってしまう。それでさんっざんいやな思いをしてきて、それでもっと昔だとたぶんもっと殴られて端っこに追いやられてサバイブできなかったのかもしれないけれども、今は変に居れるぶんキツイ…というタイプのキツさもあるにはあると思う。
でもまあ、そういうタイプの流動的な、目からズン、と入ってくるような何かや、関係性もあるのはだんだんわかってきた。でもわたしはそれは苦手だ。つらい。
ちょっと昔は酒も慣れだと言われてたけど、今は誰も信じない。
それと同じで、もうわたしは目線を慣れだと思わない。信じる必要性もなくなった。いい時代だと思う。
まあでも面従腹背みたいに、定年まで金をくすねたい(仕事はするけど意識としてはくすねる気概をもって働きたい)。
「北の国から」の急流いかだ下りの回みたいな、ギラギラした、目線と関係性の微妙なものの揺らぎというかあやしさ、危うさのようなものも、ちょっとはいつかは使うのかもしれない。でも自分はたまたまそれをうまく操れる人間には生まれなかったし、かといってそういう人がたくさんいるほうにも行かなかった。だから今困ってるのかもしれない。
そういう関係も、昔、洗脳みたいになったときに勢いで切ってしまった(切らされた、とは言えない。けど言いたい。)そのおかげでサラリーマンになったはいいが、今、つらい。
自己決定の経験のできる時期を洗脳みたいな時間に費やしてしまった。10年近くをそれに費やしてしまった。そして今はまったく何も思い出せない。
その関係を切ってみると、時間だけが経った気がする。
そう考えるとげきつらなので、前向きというか、
まあそれはそれで…と思う。
でもいまだに嫉妬とかもしてしまうし殺意も抱いてしまう。
かといってすぐイライラしてたら早死にしそうだから
全部認めて面白がれるようになりたい。
鷹揚になりたい。
そのために何か違うところ、場所を知りたい。
今の私の架空の「ふつう(子供が何歳で妻がどうで仕事が…)」ではなく、
今私が本当に居て、選ぶ、それのことに満足していけるように
生きていきたい、ということ。

(だれかに話そうと思ってることのメモ)

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