0616

あさ。原因不明の足首ぐねりが増えた。気づくと左足がぐねってたりする。いのっちの手紙はなんかだんだん飛ばし読みになってきている。間に編集者みたいな人が2ページぐらいでコラムじゃないけど、なんか入れてくれたら読みやすいのになーとかはなんとなく思った。

MYBブックレットで鈴木志郎康さんが「詩は、詩を書いてるときの頭の中にあるもののこと」であって、もう書かれた詩は詩の抜け殻か何かであるというようなことを書いていて、それはちょっと違うような気もするけど、おおむね同意できるところはあって、それがどこかというと、まあ仕事してるときになんか思いついて、これだけ、このワードだけは覚えて帰ろうとしてるときとか、そのワードが長すぎるので、脳内で圧縮して記憶して持ち帰ろうとして、帰りの電車で完全に忘れちゃってるときとかですね。
こういう時に、詩によって人は生かされてるともいえるわけで、こういう方向性での詩の効果ってのもあるわけで、ほとんどの人にとって、結果的に詩の効果があるのは、そっちのほうであるわけであって、抜け殻そのものにすごく普遍性や美しさ、再現性やら真理やらあるあるやらエロさがある、つまり、読んで自分の脳内で再生したときにすごくリアルに、作者の目論見どおり立ち上がるように設計された言葉たち、みたいな詩ってほとんど書けないわけですね。
じゃあその人たちにとっての詩が徒花とか徒労とか無駄とか慰撫とかセラピーなのかといえば、そうでしょうと一旦言い切ってしまって構わない。まちがっても芸術であるとか真理を追い求めてるとかガチで詩を求めてるとか言わないことが肝要でしょう。それじたい(そういう姿勢)は否定しないけれども、遠足の準備じゃないけれども、遠足の準備、遠足当日のワクワク、遠足当日、後日、含めて詩を書くことで、残った詩にどれほどの意義を残すか、それは生きた自分に残すか、読者に残すか、まあ書いているときの自分に残すことがわたしの場合は多分に多い気もしますが、それはそれで独りよがりになりがちで、それはそれで良いのだと思っています。

自分の詩が言葉だけで自立できない、よんだ人の頭の中に綺麗に立ち上がらず、自分自身という身体を添えないと解明できなかったり、読み進めるのも苦痛であるようなものであるとしても、まあそれはそれでいいじゃん、とは思います。
あと、本になって、買い合ったり、送り合ったりしても、そんなに読まなかったりするけど、その贈答行為や、書いている人がいっぱいわちゃわちゃしてる空間に行ってみるだけでもまあ生きてるわけですしね、傷つくこともあるかもしれないし、読んでないけど「ん、ああ、よかったよ」みたいなこともあるわけだけど、まあそれもそれでいいじゃんと思うわけですね。
利他的になろうとせず、肩肘張らず、そういうのをいっとき忘れられた証として詩みたいなものが残り、公開というのがほぼ理解できないしろものの抜け殻だとしても、まあいいじゃん。そのあいだは生きれたんだし、とは思う。
まあタバコみたいなもんですね、今は吸ってないが、タバコのおかげで5分ここに居れた俺、みたいなことを駅の外のバスロータリーの隅っこにあるような、フェンスで囲まれた喫煙場から空を見て思ったりしてた。あれに似てる。もっといえば書くってことがもう、かなりそれに近い。
居るパワーというのはけっこうバカにならない。
書かれたものはあとから振り返って、居方的にいかがものか…と、そのふらふらの足取り、あるいは意味不明なダッシュ区間、息切れ、稚拙さがよくよくみえてしまうので消したくなるけど、まあ消しちゃいけないっていう法もないから、それも好きにすればいいのだと思う。
自分の身というか、生きることと対比させて厳しかったら消せばいいし、いや、俺は書いたもののほうを選ぶぜっていうならば、そのときはおでこに指をピッと当てて「おう、あばよ」って感じになるかもしれないけど、個人的にはゲンスルーに大息吹を使えるゴンたち、みたいなスタンスで言葉と向き合いたいなぁとはぼんやり思う。世間的、倫理的、道徳的ないい悪いじゃない、イデオロギー抜きで、おもしろいかおもしろくないか、みたいな感じ。そういうわけわからんブレブレの審美みたいなものを各自が大事に持っていれば、詩というのはもっとおもしろくなるのになぁ…とは思わなくもない、しごと

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