メモ

たぶん次のiOSアップデートで提供されるジャーナルアプリの説明の文言だけを読むと、なんだか私はエキスパンドブックツールキットやハイパーカードのことを思い出す。最近だと、ブックアプリのオーサリング機能(iBook Authorのこと。pagesに統合された?)を思い出されたりもする。
オーサリングツール、オーサリングアプリケーションと呼ばれていたジャンル(今もあるのかな?)をぼんやり思い出す。
マルチメディアやインタラクティブを前面に押し出したMacromedia Directorや、本をイメージしたオーサリングツール(パッと思い浮かばないけれども、エキスパンドブックもこっちだと思う)等があった気がする。私は当時小学生で、父のMacのHyperCardをいじるのが関の山で、Directorは雑誌の記事で読むことしかできなかった。
記憶では、当時のDirector、Photoshopなど、とにかくプロ用のソフトは"19万8000円"ぐらいのイメージだった。いや、23万とかだったかもしれない。とにかく、そのあたりが、当時のアプリケーション価格の相場観だった。



Directorは、どちらかといえば時間軸があって、アニメーションにこちらが干渉して分岐できる箇所を作ったり、反応を返してくれたりするものだった。私の理解では。
これとは別に、ページ単位で管理して、本の比喩で操るものもあった。鳥なら鳥で、説明文の横の図版を押すと、動画が見れたり鳴き声が聞けたりするような。HyperCardも、後者のように使うこともできる(が、そこまで重たいこと≒マルチメディアな事はできなかったはずだ)。
カードを次々とめくっていけば、アニメーションのようにも使えた。逆に、Directorも、本のようにすることもできた(はず)。アニメーションの時間軸を堰き止め、ユーザーの入力による分岐のみによって進むようにすればいい。

教科書の隅っこにパラパラ漫画が描けるのと同じで、時間軸に力(制御)か、力か命令の比喩(情報)を与えて、次々にフレームを送る。そのバランスによって、本にもアニメーションにもなる。
力(命令)を必要とする加減が、任意に近いか、強制(受動)に近いか。
その後、行き着く分岐点で、再度ユーザーの選択肢を(逐次、あるいは定期的に)差し挟むかどうか。これもまたバランスだと思う。もっと遡れば、本屋で本を手に取るか、アマプラで動画を見るか、スマホで音楽を聞くか、勉強するか、寝るか、友達に会いに行くか、みたいな話になる。そこにもまたバランスがある。

小さければ、手元にないと見えないし、一人用のメディアに近くなり、大きくなるとみんなで見ることができる。ふたがあれば、開けないとわからないし、中にあるのが言葉だと、ぱっと見じゃわからない(読まなきゃいけない)。



フレームを時間軸に沿って送り続けるか、その操作権限をユーザーに委ねるか。その程度問題が、アニメーションやオーサリングツールと言われるもののあいだに挟まっている気がする。(やや重複)
わたしたちは映画やアニメ(フィルム)、あるいは本の比喩の中に、自身が干渉したり表現やイメージが拡張されたり別のメディア(音や動画)によって補助されることや、スクリプトを挟んで、ユーザー側からの刺激に対するレスポンスを準備するもののことを、マルチメディアとかインタラクティブとか呼んでいた気がする。(やや重複)



翻ってジャーナルアプリ。謳う効果については、どちらかというとマインドフルネス的なもの。あるいはボンヤリとした認知行動療法のようなものに近いような気がする。写真アプリの「メモリー」機能に近いようにも思える。
個別の記憶から、それっぽいものをサジェストして引っ張ってくる機能というのは、なんとなく不気味だ。壁紙に向いている写真なんかを、私のカメラロールから選んでくれているのも不気味ではあるけれども「私って意外といい写真撮ってるじゃん」と、思わなくもない。
ジャーナルアプリが教えてくれる、自分が過ごした一日の素材も、基本的にはこういうアルゴリズムで出てくるものなのだろうとは思う。
ただその素材の提出の早さや、メディアの種類が複合的になっているだけで。
スマートフォンを持っている間に保存した情報を、日の終わりに、自分自身で(スマホの助けを借りて)再構成、再編集するという行為自体が、私には、少し意義を見出しづらい。
というか、ジャーナルアプリは、その意味や効果のようなものを半ば放棄しているかのような、「変なアプリ」だと思う。
言語化しづらいが、なんか、マインドフルネスより無為で、記録や、記憶の再構成にしては押し付けがましい。なんか「変なことをするアプリだなー」と思ってしまう。



作品ってなんだろうと思う。ひとつの世界というか、箱庭というか、モノとして完結させ、綴じて公開するタイプのモノと、ずっと日々記録し、フローし続ける、源泉掛け流しの、閉じない、終わらない、まとまらない「もの」との差のように思うが、その境目は限りなくボンヤリとしてきている気がする。みんな業余で色んな選択や行為ができるようになった。
仕事をしながら、家では作品を仕上げることができないままの人もいれば、作品を仕上げることが仕事の人もいる。



ウェブサイトの頃から、いくらでも後から修正できるから、そのときから、ずっとボンヤリとはしていたのだ。見る(読む)母数も、やる母数も今よりずっと少ない時代だったから、あまりそれに気づかなかっただけで。
原簿がずっと手元にあり、修正したものをネットワークに何度でも載せたり引っ込めたりすることができるもの(でも、コピーされると無限に増殖したり魚拓やスクショを取られたりする)。
一度配ってしまったチラシや冊子のようなもの。

即売会やBOOTHで本を売ること。
ブログを更新すること。
ブログを本にすること。
日記を本にすること。

私は、元ファイルを、ずっとちまちま剪定していられるような状況が好きだ。インターネットを始めたときの習い性というのか、そのときの空気感で、なんとなく自分自身がそういうことに向いていないという自覚が染み込んでる部分もある。つまりおじけづいていて、チャレンジができない人間でもある。だから合理化して、「チマチマするのが好き」と言ってるにすぎないのかもしれない。
いつも、一度配ってしまったモノや、読まれてしまう記事のように「ならないようにしてしまっている」ことと、自分自身が精進しないことは、まっすぐに繋がっている。そして、それがなにかの拍子で掬い上げられたり、裏返ったりしないか、密かに期待もしているのだ。



昔は、FTPでファイルをアップロードして、そこそこ時間が経っちゃうと、もう丹念に更新する気も失せてしまい、「工事中」のまま、すぐに放置して、ある日、気がつくと、サービス終了で、ホームページが消えていることが多かった。なんか、工事中のコーナーを見かけると、もう更新されないことと同義のように思われることもあった。



閉じたSNSに、パーソナルな情報を付加し、自分自身にフィードバックしたり、自身の行動を再認識するためのアプリ。
そのヒントとして、写真や位置情報、そのとき聞いていた音楽などを「ネタ」、つまり素材として提供してくれる。自分自身の行動をコンテンツ(情報の内容)にして、自分自身の足跡を辿り、その足跡をもとに自分自身を顧みて、再編集する。
スマホには、行動(操作やセンサーによる変化)はわかっても、内面や、それらをどう総括するのかはわからない。"そこ"を支援するのがジャーナルアプリなのかもしれない。



自分自身の日々をオーサリングする支援をしてくれるのだが、その行き着く先というか、出口戦略、そもそもそんなものが存在しないような気がしていて、そこが、アプリにしては珍しいような気もする。
「共有」のアイコンは四角から矢印が上方向に飛び出しているものだ。
以前は共有という言葉に慣れなかった。
以前は、「共有」というのは、「公開」という意味に近いと思っていた。
動画の書き出しも、昔はレンダリング、出力、書き出し、なんか色んな言い方をしていたが、共有という言い方が当たり前になってきたのはいつ頃からだろうか。
ジャーナルアプリにも、共有アイコンは多分つくだろう。なかったら、「尖ってるなぁ」と思うかも。その時、共有するファイル形式はなんだろう。HTMLの完全(HTMLと、フォルダに構成するファイルを保存したもの)や、SNSやブログサービスへの出力、独自形式などなど…。
Appleの公式サイトのメッセージアプリみたいな、ゴリッゴリの陽キャ(いやあれはもはや陽キャというレベルではない気がする)がジャーナルアプリで日記を共有しまくるイメージも、ないでもない。
ただ、Appleはなんとなく静か〜な方向に向かっていってる気がするので、ジャーナルアプリもそっちかな、という気がしなくもない。



循環してしまっているというのか、終わりのない入れ子状になっているもの(観念)に対し、それを支援するようなアプリが提供されることが珍しい、とでもいうか。



マインドフルネス的な、内向きな効果は後付けであって、本来的には何ら意味がない行為。残してると、あとあと自分が面白かったり、身近な人がちょっと面白かったりするぐらいである。

暇な時に2、3年前の日記を端折って読み聞かせると結構面白がったりしてくれるので、人の行動はよくみて書いておくと楽しい。それの自分版は時々爆笑してしまう時もある。

当時はガチで悩んでた日記であっても、とても面白い。そして、自分がこんなにいいことを書くとはとか、こんないい文章書けたのに今は…とか思ったりする。

ジャーナルアプリが作り出す「型」がどんな日記を生み出すのだろうか。
ジャーナルアプリはある種の規律や教育機関として作用しないだろうか。



おそらく綴じられた日々の記録は、ある程度(一定の人口割合、もしくは人生の周期において)、出口を求める気がする。
フィジカルになることや、出会いを求める。
そのために綴じるという人も同様に、いるようにもおもえる。

日記というのは、日本では教育の一環として普及していった側面もある気がするので(先生に見せたり親に見せたりしてた)、ジャーナルアプリも修養とかの一環になるのかもしれない。ゆるいというか、なんかアップル特有の「しませんか?」的な口調で、すすめてくれるのかもしれない。

別に、ティムクックに見せるわけじゃなし。

しかし、ラフなかたちでの修養や人格陶冶に使う、その意味で、マインドフルネス的なものに、ちょっとだけ、近いとはいえるのかもしれない。マインドに作用する。そしてそれが役に立つと思えば、役に立つのかもしれない。

一億総ドギーハウザーになるということである。

そもそも、画像と文章で1日を振り返るなら、SNSで事足りる人もいるような気もする。

わざわざそれと切り離して、人には明かせないパーソナルな情報の塊を自分で見つめ直すための、自身の1日の再編集のためのアプリ。
「それはいったいなんなのだろう?」とは思う。

このハテナは、「そもそも日記って、なに?」みたいな疑問にも通じてる気がする。

公開や非公開の判断、校閲や検閲、あるいは編集の有無であったり。

いつか、もし、ジャーナルアプリが、職場や仕事内容や人名を、いい感じにぼかしてくれて、イニシャルトークや仮名によって人間関係のゴタゴタを適宜自動修正し、位置情報も編集した上で、うまく再構成して、SNSにアップする機能などをつけてくれると、私なんかはちょっと嬉しいかもしれない。私が今、日記をネットに上げられない理由の大部分はそこにある。



元々は、20年ぐらい前、ネットで、友人の見ている衆人環視のなかで、ホームページに書いていた2行程度の日記が始まりだった。

途中から、ホームページの更新に飽きてきて、日記だけをローカルのHTMLに直打ちするようになり、ホームページにアップしようにも、内容がプライベートになり、長くなっていって、出していいものではなくなってしまっていた。
そこで、徐々に外に向けて書くような口調も消えていった。
けれども、なんとかアップしようと思ってた期間(5年ぐらい)は、完全にプライベートだが、いつか人に向けて見せるかのような、変な文体で書いていた。

そして2012年か2013年ごろから、はてなブログを書き出して、確実に読んでくれている人が1人はいると確信している状況になった。
すると、文体は一気にはっちゃけた。
その読者は女性だったので、なんかテンションあがっていた。
当時の日記はおそろしい。別に女性に向けて自慢とか年収をえんえん書いてるわけじゃないけれども、なんかぴょんすぴょんす(by3月のライオン)している。
そしてその読者を失ったことに気づき、時々はコメントが来る程度には読まれてるという実感を得ながら、徐々に文体は落ち着きを取り戻し、ふと気づくと恥ずかしくなったある日、はてなブログを非公開にした。



今はもう、思いついたことをメモアプリに殴り書きして、24時間以内に書かれたものをその日の日記とすることとしている。

ただ、これだと生々しすぎる&意味不明すぎて公開できないし、公開しようにも、かなりの編集が必要になってくる。かといって、そこが書けない&編集しないと載せれない日記なら、私には意味がない。「上司に信じられないことを言われた」ではなく、もっと具体的に書きたい。
でも、今の世の中そういうのは無理なのだ。会社はチームで、チームは人間で、人間はプライベートがあり、営業の人とかいろんな人がいる中で、自分が自由に好き放題書いたら普通にやばいという予感や実感がある。
いいうんちが出たとかもあまりよくない。

なんか、そういうのは、直接的にモノと関わらないとでもいうのか、扱う商材が直接人体に害を及ぼさないとされているタイプの職種というか業種の人じゃないとできない。
もっとざっくり厳密に定義すれば、そういう人っていうことになってる人。
さっき佐藤二郎が「うんこ」とツイート(現X)していたが、食品関係の人は、なかなかできないツイートである。「どういうことなんですか、したんですか、さわったんですか」と、激詰めされる。

一日を振り返るにも、色んなやり方がある。「今日は鉄とちんことビニールしか触ってない…」そんな振り返り方もできる。
「ドアの取っ手、ちんこ、レジ袋」
佐藤二郎の「うんこ」は、たぶん「なんとなく」だろう。形而上のもの。
俺のこれ(病原菌、ちんこ、鉄)は本物だ。でも、書いてしまうと「ちんこ触った手でうんぬんかんぬん」言われるに決まってる。でも、書いてないけど基本全員そうである。書いてないだけで触ってるし入れてるし出してる。書かなきゃOKなことはかなりある。というかほとんどがそうである。
バカ正直に書くとよくない行為はたくさんある。
SNSで槍玉に挙げられる迷惑行為というのは基本的にそれである。
見る人と上げる人が増え、さらに同じタイムライン上に(擬似的に)並び、アップは楽になり、形式はめちゃ増えた。文字とか本みたいな真偽不明かつ紐解いてみないとわからないメディアに比べると、編集されてないSNSの動画はほとんど見た瞬間「これはあかんやろ」とか思えるところがすごい。別に日本人が悪いことする動画以外でも、外国の人のこける動画でも、犬猫の動画でも、なんかわかってしまう。

最近マフィンの件をSNSでよく見るが、ああいうのを見ていると、なんか「一貫してても終わってる」ということがあり得るのだ、と感じる。

日記はどうだろうか。日記には悪いことも書かなければいけないときもあるような気がする。誰にも明かさない気持ちなど。誰にも言わないし、あのときは合わせたけど、帰って自分の気持ちを見つめ直すと「やっぱキモかった」とか、そういうのはザラにある。あるいは、見てみぬふりをしたとか、おかしいと思ったけど通り過ぎてしまった。あるいは、なんか「あった」とか、ほんとうにそれだけの話など。道に紙袋があって、誰もいないからこっそり覗いてみるとおばあちゃんが履きそうな肌色のももひきというかタイツみたいなやつがいっぱい入ってたとかそういう話。
懺悔とか思い出しとかなんか見たとかあったとか、そういうものの集成と、そこに同時にかかる編集の圧や、自己保存欲求と推敲、言葉や時間の限界や眠気や疲れ、興奮や怒り、悲しみなどの心理状態などが複雑に絡み合って、めっちゃ悲しいのに全然書けないパターンやめっちゃ書くパターンなどがあり、急に誰かの記事や格言を引用元も書かずにのっけたり、もう日記というのはめちゃくちゃである。無法地帯でもありうるし、合法に切り揃えることも可能でもあるという、なんでもありの世界である。
好き放題に書いたこれをまた世界に発信するとなると、その修正は容易ではない。ただ、自分の枠とでもいうか、スタイルというか、部屋のトーンとでもいうか、最初から無理なことはしないというか、うまく枠内にまとめるのが習い性の人であったりすると、最初から最後まで何もせずに自分だけの日記をそのまま公開することもできたりするのかもしれない。それが自分だといえるなら相当うらやましい。



だが私には、日記をぼかす機能が必要だ。日記の中のプライベートな部分を編集して、「問題のない形」にしてSNSにあげてくれる機能。

なんか、メモアプリなんだけど、ぼやしたい単語のとこだけ指先ツールみたいなやつでキュッキュッて擦ったら、そこの単語だけうまくAIが変換してくれて、前後の文脈も自動的に置換してくれるようなツールとかあったらいいかもしれない。

時々、ニュースサイトなどで、ルポルタージュで何件かのケースを組み合わせて書かれた記事があったりするが、あれに近いかもしれない。人物は仮名、内容は適宜ぼかして書いています、みたいな但し書きが付いているアレ。

写真で言えば、顔に😊←こういう絵文字がついてる感じに近いかもしれない。

***

自分で検閲して、これは公開できないとか、そういうのがあまり好きではない。出すなら全部出したいし、出さないなら全部出さない。自分で自分の書いたことを選別して、大丈夫なやつだけ出すみたいなことをしたくない。第一、その管理がめんどくさい。一本化したい。

自分はその分離した2つ(オフィシャルとプライベート)を、両方保存しておきたい派なので、結局3つになる。逆に、オフィシャルとプライベートが混ざったやつをあとで検品して、2つにおろすというのは、なんか本末転倒というか、いや、ちがう。そうすると、2つでいいのか。
つまり、オフィシャルとプライベートが混ざった日記(プライベート極み)と、オフィシャルの日記(見せれるセレブ日記)。

ということは、二択である。
ひとつは、すべてを非公開にするか、すべてを公開にするか。もうひとつは、非公開の内容から、公開できる内容のみを抜出する。ただ、工程的には後者のほうが手間がかかるし、自身の検閲が入る。そして当然、この"自身"には社会とか見栄とか残したい綺麗な自分とかが内面化されており、私にはそれがだるい。



自分自身が大丈夫になるように動くか、大丈夫じゃないなら出さない。
それが一番いいと思ってる。というか、憧れである。

鈴木志郎康さんが「住んでる人しか知らない道」で言ってるように

語法というのは、物事の関係を改める言葉遣いのことです。
でも、これはかなり厄介。
先ずは、人との関係を改めなければならないから。

http://www.shirouyasu.com/e-poem-lib/siroyasu/sunderuhito.html

ここでいう"語法"というのは、ふだん使ってる意味とは「すこし違うんじゃないか?」と思うかもしれないけど、おそらく正確である。

個人的には、こういう考え方でありたいとは思う。
思いながら、できないことは多い。

「人との関係を改める」ことを後回しにして、自分の名前や関わった人々や場所の名前やそのときの感情や発言までもをぼやかした「語法」で書いた日記と、私が先に挙げた「AIが適度にぼやかしてくれる日記」、どっちのほうがマシだろうか?

でも、書かないよりはいい。それもある。

完全に自分だけが読む(見返す)ためだけの予定の日記を、AIが自動編集し、穏当な内容に書き換えて、自分っぽい誰かの日記としてSNSにアップしてくれる(ついでに、その内容から、またプライベートなかたちに復元もできると嬉しい)として、それはそれでどうなのかな…とは思う。
可逆できるのに特定されない匿名日記ファイル形式…。どんなんやねんとは思う。

それはもう自分じゃないというか、自分じゃないとか自分であるとかも、別にどうでもいいっちゃどうでもいいんだけど、なんか、テキストボックスに任意の文字列を入力し、自分の責任でボタン押してるだけの人に成り下がっちゃってる感がある。文字列は判別されて、やばそうな箇所はAIが書き換えてくれる。
それだったら、ハナから自分で穏当な日記を書いたほうがマシなのかもしれない。みんな、そのループ(本当と穏当)のルーレットで悩み続けている気がする。そして自身の帰属する領域によってそのバランスが決定されるが、常に人はその領域から抜け出し、書くことや書き方(語法)を変えたいと願ってもいるように思う。
ただ、願い方にも、今ここを満足したい、今ここの良さに気づきたいという願いもある。常に一定のフォームで日常に満足し、淡々と生きているかのように、時折抑揚を挟みながら、トピックがあるようでない、なにもない日でも綺麗に一定量を書けるような日記。それらのルールからすべて逸脱した日記を織り交ぜて、まったく後悔のない日記。崩れそうなジェンガみたいな、不統一でバランスが悪く、整えようとしていないのに、後からみればなんとかなっているような、そんな日記。

もし、AIに、日記を穏当に書き換えてもらったとしたら。

まず、単純に「ぶつからない」と思ってしまう。
SNSで顔だけ😊で隠してアップするのと変わらない。
ぶつからないように守っている。
でも伝えたい。
その折衷案として、顔以外をそのままアップする。
特定を避ける。
「だれか」でありたいけれども、自分でありたい。そしてその腕で自分の存在を屹立させたい。という野望はできるだけひた隠しにして、地味に生きたい。市井の人っぽく、時にははっちゃけ、時には暗く、素直に、時には思索しつつ、いろんなことを考えたり書いたり書かなかったりする、ひとりの人でありたい(とすら思っていない人になりたい!)

事実の埋め草(アリバイ)として、周到に編集した情報を投稿する。そういうのが世の中に無数にある。

「すごかった」「やばかった」「めっちゃびっくりした」「よかった」「最悪」「信じられない」「昨日はすごかった」「あの人に会った」
全部なんのことだかさっぱりわからないが、感情だけは書いてもいい。そういう範囲で書く。何かがあったことだけは告げておきたい。
自慢したい。戦利品は上げてもいい。ポジティブなこと以外はなるべく別の垢でぼかして書くようにする。
そういう、ルールの総体としての自分。

「本当のこと」というのはないのだが、いちおう自分で打った文字だったり、自分で引いた文字だったりを、なるべくそのまま使いたい。

ひとつのトピックに集中することもあれば、断片的な時系列を指し示す単語の連続(仕事、フレスコ、帰宅、風呂、部屋んぽ…など)のときもあれば、その単語を急に詳細に分解し語り出すフェーズがやってきたりもする。
noteに書くときはそういうフェーズになりがちなので、逆にその作用を利用して、自分がふだん何気なく行っている行動を分解して書くときはnoteなどのフォームを利用する。



急に仔細に語り出す、バランス感覚を欠いた自分をもどかしく思いながら、崩れるフォームを受け入れながら、やめずにずっと続けていく。

それが何年か溜まれば、当時の文章の傾向が見えてくる。



でも、出すものと出さないものとをしっかりわけてる人はえらいよ、やっぱ。胆力というか、薫陶というかアティテュードを作家や表現者からそれとなく継承してるとでもいうのか。
勝手に限界を設定してるやつ、と見下すこともできるが、ふつうの人が読んでわかる範囲というものを把握しながらちゃんと書いてる人のほうがふつうにえらいというか、読まれなきゃ意味がないみたいな話。相手はプロである。それで金もらってる。

そういうもののカウンターとしての、素人とかおっさん。



結局、誰もその仕分けからは逃れられない。出してしまえばそれはそれで型として、意外としっかりしたものとして、成ったものとして受け止められてしまう。
それは言葉の機能というか、自分自身の認知とか認識のズレが、わりかし良い方向に作用した場合の誤算ではあるが、たいていの場合、それ以前のレベルの文脈において、自分の文章がものすごく誤読されまくる文章なのだということに、まず気づく。
ほとんどちゃんと読まれていないし、そのように(読まれるように)書けていないことに気づく。

そこで丸い石になるか、山にかえるか、どっちか決める流れがやってくる。丸い石になると、仲間ができて、フィードバックをもとにして削ぎ落としていけば、読まれる文章が書けるけれども、おそらくは、その文体でどんな人生を書いても、あんまハネない。
そこそこのところで、丸い石として、丸い文章を書く癖ができてしまう。型である。伝わる構文に、少し数奇な人生が乗っかって、少しの読者がいる。そういう幸せがある。そういう幸せもある。
どこまでいっても文章というのは、受け入れ数の問題な気がする。だからそれでよければそれでよいのだと思う。
チューニングした後の自分というものが、わたしにはまだ存在しない。これからもずっといないのかもしれない。
わたしは自分で書いてることがあんまわかってない。

(11/14)

ちょうどタイムリーな話題だった。

こういう消し方もあるのかと。なんかアナログでいいな、でも手間暇がかかっていて私には難しいかな、とか。色々おもった。質問と答えもとても参考になった。(11/18)

***

昨日、仕事しててふと「開示の限界=転職」というのが浮かんだ。

その会社の中にある職種に、自分自身の能力を発揮したいものがなくなったとき≒開示の限界が訪れたとき、会社を変えなければいけないのではないか。社内にある職種や、まだないものを作り出したりして、引き伸ばし続け、遂に ちぎれるように、次へと移っていかなければいけないのではないか。ステップアップとか転職とか言うが、位置関係の上下や横に比喩を取るよりは、パン生地を引っ張ってちぎるような感じとか、自分自身の持ってる能力を開示する局面がなくなったり、その会社のきわきわまでいって、まだ先にいかないと開示できないところまでいってしまった場合、自分はそこを辞めなきゃならないのかなと思った。
ただ、これは自分自身がこの会社で開示する必要を感じなくなった(静かになった)というパターンもあり得て、その限界(限界集落的な使い方)もある。
限界というのも、もう構成要素が少なすぎて成立しないみたいな意味の「限界」と、きわのきわまでいききってるという意味の「限界」、あと単純に、肉体的、精神的な「限界」、社会的、社会心理学的な「限界」、いろいろある気がする。

日記も、開示の限界を示すときは、おそらく外部を意識している。そもそも、日記が習慣化してるとき、物事はルーチン化し、シンプルな語彙に圧縮されてるはず。LINEで親密な他者とやりとりするときと近い。コミュニケーションの永続を微塵も疑っていないとき。改めて説明の必要がないとき。

自分自身がこのルーチン、圧縮された語彙の詳細をいつか忘れるかもしれないと考えた瞬間、永続を疑った瞬間に、その日記は膨らみ始める。(将来の)自分自身に、この言葉の意味について、説明を始めるのだ。

(11/19)


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