わいの平成詩史(だだ書き) 7


わかってきたのは、結局どこも一枚岩じゃないし、どこも玉石混交であるということだった。それは紙媒体においてもピンキリで、それは歴史的にみてもそうだし、今もふつうにそう。ずっとそう。

時々編纂されるときに正史っぽくなるが、ネットはならなさそう。それがいいか悪いかは別としてネットらしくてよい。
このまま消えていく(あるいはアーカイブも、されるがままにしておく)のがネットらしいしそれでいいというスタンス・心持ちの人は、結構多いように思う。

ネット詩が時と場所を限定された刹那の産物だから。それは一閃の光芒のように流れ去って忘れられる。アーカイブとして放置しておいてもやがてサイトの閉鎖やサービスの終了で消滅する。それでよい。それゆえにこそ自由で潔い祝祭の場なのだ。

みつべえ『そろもん詩抄』七月堂 あとがきより

ネットで詩を書き続けて二十二年近く経った。
様々な人とネットで巡り会ったが
大半の人は過ぎ去っていった。
詩集の本を出す気もなく
ネットだけで詩を書いている。
沢山のネット詩を読んだが
大半の詩はアーカイブにも残らず
消えていった。
有名になった人はちゃんとそういう生き方をしている。

5or6.(ゴロ)さんのツイート 2021年12月17日

文章が煌めくネット詩人は沢山いたがみんなテキストと一緒にアーカイブの海に沈んでいってしまった。記憶に残るのは名前と断片の言葉の漂流物。

もういっちょ、5or6.(ゴロ)さんのツイート 2018年8月14日

この引用をもって「結構いるように思う」と書いたことには無理があるのだが、個人的にもこういう考え方だから、すんなりうなづいてしまうところがある。

ただし、これをもう少し紐解いてみると、権利上の問題として、もしくは意思の問題として、もっと言えば、書いた人間の状況が判然としないなかで、それらを、たとえURLであったり、引用のかたちであったとしても、日の下に晒すような行為を行なっていいのかがわからない、という問題がある。気が引けるというやつである。で、「まあ、このままでもいっか」となる。なんか、せつないし。

なので、最小限のセットとして、読んだわたしと書かれた詩のあった場所との記憶のみに留める、というスタンスが説得力をもつのだと思う。

簡単にいえば、消えることをよしとしているというか、本人も忘れちゃってるかもしれないということでもある。
それを掘り起こしてどうこう言うことが、何かに抵触しているかもしれないという感覚は、インターネット上の詩について云々するときには必ずついてまわる。すくなくとも私は。

「そもそも批判も非難も引用も要らんし、そんなこと考えて書いてないから!」というニオイがぷんぷんしている文章というのはたくさんあるし、置いてある場所や位置関係、文脈、その他HTML的な操作などを勘案して読んでても、ぼんやりとわかるわけである。

たとえばネットで詩の雑誌を作ったりするでしょ。ネットは公開の場所として成り立つのかというようなこともやっぱり考えたりするんです。詩の作品それ自体の手続きとちょっと違うけど、この公開の手続きの問題も大きいと思うんです。ネットで詩を公開することに関しては僕はものすごく懐疑的ですね。これは公開の場所として成り立っていない。いくつか理由はあるけども、一つは公開の場所には「境界」がなければならない。ここは出さない、ここから出すという「境界」がちゃんとできてないと公開というのは成り立たない。ふつうは編集者がいて出版社があって、それが手続きの場所になって印刷物として出てくる。ネットの空間にはそういう敷居がなくて、書き手一人の判断しかないから、暗い部分と明るい部分の境目がない。それと同じことなんだけど、ネットというのは名前のアイデンティティを本質的に作れない空間ですね。あそこでもしアイデンティティを作っちゃったら利用されるから出さない。匿名性がつねに侵入してくるわけです。したがって名前によって責任がとれない。責任を問えない。だからネットの空間は全体として暗がりになっていて、どう考えても公開の場、公的な場にならないと僕は思う。ネットは一つの例ですが、一般的に詩の言葉を公開するときの手続きの問題は、これからかなりいろんなところでシビアになると思う。

思潮社『詩的間伐―対話2002‐2009』稲川 方人・瀬尾 育生 p115

この引用はもう何回もしているけれども、読めば読むほど、先に挙げた「インターネットの詩が消えていくことに対するスタンス」に対する、「だから言わんこっちゃない」的な回答になっているように見えてきて、なんだか、悲しくなってきてしまう。

もともと、こういった文章の存在(こういうことを言っているの)を知ったのは、ななひとさんのこの文章からであった。

ただ、わたしは当時、詩の本を買うとかいう発想はまったくなかったから、「へぇ、そんなこともあるんだな」と思うだけだった。だから、この ななひとさん散文に書かれている瀬尾氏のスタンスを本として読んだのは、2020年か、2019年か、本当につい最近(最近?)のことだった。

当時読んでいたら、インターネットのことがわかっていない典型的な紙媒体の意見だ、2ちゃんねるとネットを十把一絡げにして理解している(っぽいぞ)、とか色々な言い方で揶揄したかもしれない。
けれども、今、「手続き」を経由して文章を発表することは、公開されたあとの文章の扱いのややこしさを先取りして確定・整理することだったのだと理解できるし、かといって、その確定や整理によって失われる繊細さや、紙がどうしても持てない即時性や希少性にもよさ(よさといっていいかもわからないようなもの!)があるのだ。ただ、そこにどうしようもないものや、しつこいもの、嫌なものがくっついてくることもあるけれども。

だから、単純にすべて記憶を美化してもなぁ…というのもないこともない。

反射的に昔がよかったとしみじみできる雰囲気ではない。というか、むしろ絶対今のほうがいい派である。

昔のホモソな感じとか先輩後輩の感じ、一応ちょっとは身についてしまってハイブリッドな心になってしまったものの、わたしは全然そういうのが無理な人間だったから、今のほうが、まだ(わたし的にはアカンやつはいっぱいあるけれども)マシな気はする。

なんか文章がねじれた気もするけど、とりあえず一旦ここまで
帰ったら直す気がする

(つづく)

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