わいの平成詩史(だだ書き) 7
わかってきたのは、結局どこも一枚岩じゃないし、どこも玉石混交であるということだった。それは紙媒体においてもピンキリで、それは歴史的にみてもそうだし、今もふつうにそう。ずっとそう。
時々編纂されるときに正史っぽくなるが、ネットはならなさそう。それがいいか悪いかは別としてネットらしくてよい。
このまま消えていく(あるいはアーカイブも、されるがままにしておく)のがネットらしいしそれでいいというスタンス・心持ちの人は、結構多いように思う。
この引用をもって「結構いるように思う」と書いたことには無理があるのだが、個人的にもこういう考え方だから、すんなりうなづいてしまうところがある。
ただし、これをもう少し紐解いてみると、権利上の問題として、もしくは意思の問題として、もっと言えば、書いた人間の状況が判然としないなかで、それらを、たとえURLであったり、引用のかたちであったとしても、日の下に晒すような行為を行なっていいのかがわからない、という問題がある。気が引けるというやつである。で、「まあ、このままでもいっか」となる。なんか、せつないし。
なので、最小限のセットとして、読んだわたしと書かれた詩のあった場所との記憶のみに留める、というスタンスが説得力をもつのだと思う。
簡単にいえば、消えることをよしとしているというか、本人も忘れちゃってるかもしれないということでもある。
それを掘り起こしてどうこう言うことが、何かに抵触しているかもしれないという感覚は、インターネット上の詩について云々するときには必ずついてまわる。すくなくとも私は。
「そもそも批判も非難も引用も要らんし、そんなこと考えて書いてないから!」というニオイがぷんぷんしている文章というのはたくさんあるし、置いてある場所や位置関係、文脈、その他HTML的な操作などを勘案して読んでても、ぼんやりとわかるわけである。
この引用はもう何回もしているけれども、読めば読むほど、先に挙げた「インターネットの詩が消えていくことに対するスタンス」に対する、「だから言わんこっちゃない」的な回答になっているように見えてきて、なんだか、悲しくなってきてしまう。
もともと、こういった文章の存在(こういうことを言っているの)を知ったのは、ななひとさんのこの文章からであった。
ただ、わたしは当時、詩の本を買うとかいう発想はまったくなかったから、「へぇ、そんなこともあるんだな」と思うだけだった。だから、この ななひとさん散文に書かれている瀬尾氏のスタンスを本として読んだのは、2020年か、2019年か、本当につい最近(最近?)のことだった。
当時読んでいたら、インターネットのことがわかっていない典型的な紙媒体の意見だ、2ちゃんねるとネットを十把一絡げにして理解している(っぽいぞ)、とか色々な言い方で揶揄したかもしれない。
けれども、今、「手続き」を経由して文章を発表することは、公開されたあとの文章の扱いのややこしさを先取りして確定・整理することだったのだと理解できるし、かといって、その確定や整理によって失われる繊細さや、紙がどうしても持てない即時性や希少性にもよさ(よさといっていいかもわからないようなもの!)があるのだ。ただ、そこにどうしようもないものや、しつこいもの、嫌なものがくっついてくることもあるけれども。
だから、単純にすべて記憶を美化してもなぁ…というのもないこともない。
反射的に昔がよかったとしみじみできる雰囲気ではない。というか、むしろ絶対今のほうがいい派である。
昔のホモソな感じとか先輩後輩の感じ、一応ちょっとは身についてしまってハイブリッドな心になってしまったものの、わたしは全然そういうのが無理な人間だったから、今のほうが、まだ(わたし的にはアカンやつはいっぱいあるけれども)マシな気はする。
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なんか文章がねじれた気もするけど、とりあえず一旦ここまで
帰ったら直す気がする
(つづく)
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