わいの平成詩史18

昔、m.qyiさんが、たみさんの詩にレスをした。

m.qyi

お書きになりたいものがやはり現代詩ではなくてはいけないのだと、率直に思いました。
20世紀の初頭世界がバラバラになってしまう、とみんな心配したんじゃないでしょうか。当然、それにともなって社会問題(一つは世界戦争)が起こって、どちらかと言えば、ペシミステックだったのじゃないかと思います。ヨーロッパの思想がやはり強くて、これから逃れるのにそれで個人に帰ってしまったのではないか。リアリズムを追求したあげく、主観主義になってしまった。
戦後の延長としての現代になって、確かに、不安定です。搾取にも基づいているでしょう。操作もある局面ではできるでしょう。しかし、どうも、有機的に動いている。社会とかマーケットとか。インターネットと詩というのは冒頭の思想からはありえない。いざ、バラバラになってみれば、現代の時点の度合いで個人まで人間が分解されても完全物象化ということには全然ならなかったように思います。それと豊かさとその内部での有機的な安定性が加わってオプテイミステックになった。それから、これでぺスミストじゃ地球と心中ということにならざるを得ないので、トライアンドエラーでやるしかないという諦観はあっても、ネアカにならざるをえないんだと思うんです。
方法論としては色々考えられると思いますが、物と自分を対立はさせたくないでしょうから、自分と物を同化させてその有機システム(自然ではなく)の中に入り込むことを考えるのは必要でしょう。これを一方向からだけ見るとシステムがこわれるでしょうから。この点、タミさん素晴らしい語彙と知識の持ち主ですね、尊敬します。これは有用なことだと思います。私はこれを怠けてしまいました。先にも後にも後悔がころんで。
そういう方法を考えていく(考えていないのかもしれませんがここでは考えるのに含めて考えて、ふウっ、 その)一方、自然ではない、人工的な有機システムであり、選択はとっていくわけでしょうから、能動的な総合力が働いているのは確かでしょう。(この部分、私の理解、矛盾混乱しているかもしれません。あと、自然もかかわってくるのでしょう本来は。ここでは度外視して話しています。)
詩作の場合この面がもとめられますが、部分でも全体でもある詩人がこれを表現するのは至難で時々空回りしてくる。(実感をもてずに無理すると特に。)そこにもう一つ(分析的でない、だから合理的でないという意味で、それ自体は非常にリーゾナブルだと思います)捨て身の第六感をはたらかせて、或いは自然に働くか、働かざるをえないようにして)ポエジーを創らなければいけなくなるんでしょうね。
それが、何なのか、たみさんの場合ロマンチックに、ぼくにはそう感じます。ピカソに似ています。ピカソは熱いですけれども、たみさんはやさしく、日本人的に繊細で現代的で、それで、ホントウにお若いのかなって思ったのかなと思ったりしまた。
それから、「表現」がグロテスクじゃないのに感心させられます。その切れ味が軽く鋭く。グロテスクに捻らない凄まない、或いは(ストーリーだとか、なぞなぞとか、笑いかの)ネタに逃げない、これは、すごいことかと思います。ネコさんも、魔法使いも勿論すばらしいですけれど、他のもいいですね、力があって。出された三編、どれもいいですが、時間をかけた作品がやはりいいんじゃないでしょうか。恐らく、御作品を人にわりと(あくまでわりと)軽くお見せになるのではないでしょうか。ノリでお書きになるというのは、まずやはり詩作の方法として大切であり、筆をいれるという事が少なければ、削除・挿入、リズム、綴りいじりは延々なさるのかなと思います。あるいは、データバンクを作ってあるとか。さっと見せて人の印象などはとっておく感じがします。
大きな空振りでしたら、許してやってください。一言、どれも好きな作品でした。

たみさんはこう答えた。

たみ

レスどうもです。ええと、読ませていただいたんですけどちょっと、詳しくもないしあまり大きな目はもっていないので辛いところもあるんですが……

> 方法論としては色々考えられると思いますが、物と自分を対立はさせたくないでしょうから、自分と物を同化させてその有機システム(自然ではなく)の中に入り込むことを考えるのは必要でしょう。

これはその、わりと我々、子どものころはそれが自然であったように思うんですね。というかそういう文化を大人が用意してくれてたというかな。たとえばウルトラマンですし、なんとか戦隊ですし、僕で言えば広井王子の一連の仕事が好きで、魔神英雄伝ワタル(というアニメがあったんです)は冗談抜きで僕の人格の方向性をある程度きめたと思ってるんですけど。
ファミコンを親から禁止されて泣いたり、それで何ヶ月かしたあと酔っ払ってる親父に頼んでよし明日つけてやる、といわれて嬉しくて眠れなかったり、やりすぎで親指の関節が柔らかくなったり、あるいは好きな女の子?って聞かれてついしゃべって、相手に考えられないほどの殺意を持ったり、まあそんなのがあって、棒をひろって天にかざして、「りゅーじんまるー」というのもやりましたし(「ワタル」です)天空の城ラピュタのビデオを何度も何度も見て、ついにはせりふまるまる覚えてしまったり。
FF5というゲームがあって、ほとんどシステムとやりこみの要素しかないゲームなんですけど、ガラフというキャラで全ジョブ覚えさせるとやっきになったり、そういうのが我々における、システムに入り込む、物と同一化、というのに自然になっちゃってるんじゃないかと思います。……ぜんぜん違う話だったらどうも、アレですが。
つまりは生まれて、日本は豊かであり、しかも生々しくなかったんです。豊かさをいっしんに受けてれば勝手に成長できたし、豊かであるなんて気づかなかったしね。今から思えばとても豊かだったし、それに大きくなってみると、知らないことはいっぱいあり、わからなかったくらい豊かだなあとも思います。もちろんネアカにならざるをえないというのはあるですけど。
ととりあえずこんなところで……レスどうもでした! よく分かってないところ、失礼なところなど、ありましたら、お許しください。

そこにワタナbさんが書き込んだ。

ワタナbシンゴ

いきなり横槍すいません。
いやー、おもしろいなあと思ってしまって。
m.qyiさんのレスに対して、たみさんの返答。
このお二人の組み手もそうですが
みごとにたみさんの内側からの語り言葉といいますか
荒川洋治さんという詩を書く人が
彼の、文章を書くときの心がけとしていっていたのですが
①知識を書かないこと(知識という過去の重みに現在の自分をつぶされるな)
②情報を書かないこと(情報はその人の文章の中に居ないことが多い)
③何も書かないこと(文章は読者を威圧することがあってはならない)
それとリズムの問題を言っているんです。外在律と内在律の2つ。
と急に言われても、もちろんなんだかわからんと思うのですが、
(その人の生きている言葉と息づかいで書けっちゅうものだと思うのですが)
いいんです(笑)僕ひとりで納得しているんで。
それで、たみさんの返信を見て
ああ、「ぴたり・怖い話」の最後の方は単に息切れやったんかな」と
妙に納得もしました。

> 方法論としては色々考えられると思いますが、物と自分を対立はさせたくないでしょうから、自分と物を同化させてその有機システム(自然ではなく)の中に入り込むことを考えるのは必要でしょう。

の問いかけに

> FF5というゲームがあって、ほとんどシステムとやりこみの要素しかないゲームなんですけど、ガラフというキャラで全ジョブ覚えさせるとやっきになったり、そういうのが我々における、システムに入り込む、物と同一化、というのに自然になっちゃってるんじゃないかと思います。……

いやもう、この返答だけでたみさんは詩だなあなんてしみじみ思っちゃいました

> つまりは生まれて、日本は豊かであり、しかも生々しくなかったんです。豊かさをいっしんに受けてれば勝手に成長できたし、豊かであるなんて気づかなかったしね。今から思えばとても豊かだったし、それに大きくなってみると、知らないことはいっぱいあり、わからなかったくらい豊かだなあとも思います。もちろんネアカにならざるをえないというのはあるですけど。

だから、この一連の言葉が生々しく響いてきました。ほかの人が同じこと言っていてもふーんて感じだったろうけど、なんかですね。

でも、この先、たみさんがどういうものたちとのコミュニケートをしていって
詩なんかを書かれていかれるのかなと、
僕の共感は、荒川さんが言うような詩を書くポジションと
詩のなかにある、決して主義主張とか思想じゃない、
具体的な他者とのまぐわりあいとでもいうか
そんなことを考えながら、またたみさんの詩を読ませてもらいました。

乱入、失礼しました。

2021年、だから去年だ。去年の4月の終わりごろ、わたしは図書館で荒川洋治「文学は実学である」という本を借りて読んでいると、こんな文章に出くわした。

 〈私の文体〉について書くようにとのこと。ひよっこのぼくにも文章を書くときの心がけのようなものはある。

 ①知識を書かないこと。
 ②情報を書かないこと。
 ③何も書かないこと。

ぼくは文章を書きながらこれらの条件を肝に銘じ「いい文章になりますように」と心からお祈りする。…

p58

こッ…これは、20ぐらい年前、ワタナbさんが言っていたやつである。

やっと元の文章に会うことができた。
わーい。

基本的にわたしはこういうことをくりかえしている。

ワタナbさんは今はなんか杢みたいな字のついた名前になってる気がするが、もう記憶力や検索力がないのでわからない。

ワタナbさんの「飛光」という詩が好きだった。

ここで読めるのだが、ここに載ってる詩はどれも記憶を呼び起こす感が凄い。タイトルで全部なんか覚えてる。

ぽえ会出身の中村トクシさんが入ってるとこもポイント高い。
群青詩賞というのはたぶんURLからしてVerse-Verge主催なのだろうけど、わたしの記憶では、これらの受賞作品は、「ネット詩コンクール」のものだと勘違いしてしまっていた。
また、記憶として思い出したのが、中村トクシさんのが一番下なのでぽえ会民だったわたしはちょっと不服だったのと、他の詩が結構長いやつが多いのに中村トクシさんが言葉かずの少ない抒情詩で入ったところに「よっしゃー!」みたいな気持ちもあった。嬉しかったのである。

受賞コメントで中村トクシさんのところを読むと、平成十四年に書いた詩だとある。平成十四年は2002年である。じゃあ群青詩賞は2003年である。
プロフィールでは昭和四十六年とある。西暦で1971年。東浩紀で換算すると現在51歳である。え、そんな若かったの(当時)!?と驚く。
ものすごく老成しているというのか、もっと年上感があったから、当時まだ30代なりたてだったのかと思うと、なんか衝撃がすごい。

当時読んでなかったのかな、読んだと思うけど…忘れてんのかな。
講評みたいなやつも、昔は全然わからなかったけど今も全然わからない。

話がそれた。ワタナbシンゴさんの「飛光」は構成がすごい。よくこんなにたくさんの場面を書けるなと思ったら、実際に世界を放浪してた時期があるらしい(リンク先のプロフィール欄で初めて知った)。

鳥瞰図の田中さん(課長だったかな)とか、なんでこんなの書けるんだろうと思ってた記憶がある。鳥瞰図という言葉もこの詩でおぼえた。

国土地理院に勤めている田中課長は鳥瞰図のプロだ。


あれ、なんか見出しになっちゃったけど、面白いからいいや。
ここ好き。ここなんかめっちゃ好き。

あとは、なんかアメリカの超スペクタクルパニック映画とかで、大気圏から隕石的なものが降り注ぐときに世界中でそれを見てるカットが入るけど、そのとき絶対チベットっぽいところが映るときのあの感じっぽさというのか、なんかそういう雰囲気をちょっと感じたりすることがある。わたしには(イメージとしての)チベットにはそういうイメージしかない。
デスノートの最後のほうの感じとかも近いかもしれない。
場面転換がたくさんおこなわれているが、これがちゃんと効果を生むにはどうあるべきなのだろうと思う。自分のいずまいをたたずませて、かつちょっと若くならないと、ちゃんと読めないような気はする。小泉構文的にいえば、ひとつひとつはそれぞれなので、全体を統括する力やテーマ性やディティールの幅広さに感心こそすれ、それがちゃんと感興を呼び起こすのかどうかはまた別問題という気もするのだ。だからなんかふにゃっとした時期に読みたい、またいつか、ふにゃっとした時期がきたら読みたいですね。

あと今見ると(当時もおもったけど)すごく受賞作品の配分というか、バランスがいい感じになってる気がした。なんかこういうのだけーみたいな感じじゃなくていろんなタイプの詩のいいやつが選出されてる気がする。

(つづく)

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