書かないことへの憧れ

書かないことへの憧れ

書かなくなった人たちのことをたまにぼんやりと思い出したりもしますが、基本的にドライなのか、「彼らはウェブ上で発表しなくてもいい状況になったんだろうなあ」って思うだけです。

(コペンハーゲンの舌に巻かれて https://deraroll.hatenadiary.org/entry/20061023/1161541283)

書かないことに対する憧れがある。投稿間隔があけばあくほどリア充な気がするし、まれに投稿すると、なんだかニキニキに込めてる感じがする。書くことだけにガツガツしてない。クールでかっこいい。

でもじっさい、生活送る自分をかえりみればよくわかるが、特に充実しておかげさまで忙しくさせていただいていますというわけでもなく、ただ単に仕事と生活に疲れこれといって書くこともなし、書いても「なんだかなぁ」みたいな雰囲気だし、ためらいと再読とちょちょ(推敲?)のくり返し、そのまま悶々と日々を過ごしてみたり、「こんなに連投したら暇人だと思われるかも…」といった心配、それらを複合施設にしたような人。

結局みぎのようなこまごましたどうでもいい気遣いや調整をいれているだけで、とくに公開していないあいだ、とくに充実していない。ただポリシーと惰性、水準と気遣いがあり、これらを総合的に判断すると「引っ込めるー」とか「ださないー」とかいう結論に傾くってのが本当のところだと思う。

とはいえ、それ以外にも、なんか個人的には物議を醸しそうだけど、出して逆に何も起こらないのもすごいショックだから出さないというのもある。評価も怖いし、評価がないのもいや。そんなの気にするのもいや。でもあんまり連投するのもいや。麻痺してない感じがして且つそこそこ評価があって、いやなこと言われないのがいい。

投稿する。投稿すると、それは世界にある、ということになる(一応)。投稿サービスのアルゴリズムがどういうふうにあれしているかはともかくとして、まあいちおうは世界から閲覧可能になる。

すきま風とジェンガ

てなると、急に、評価とかまったく関係なく、もれなく「すきま風」が吹いてきて、さむくなり、心細くなる。「反応がない…まさか、すべってる?(この俺が)」「もしかして、とんでもないあやまちをしてしまったのではないか」「あの文章で、わかってないやつだということがバレてしまったのでは」なんかいろいろ考える。書いてみておもったのが、基本かなり有名人みたいな体で考えてるのがわかる。重度のワールドイズマイン。自意識過剰というやつである。なぜこんなになるまでほっといたんだ!

まあなんにせよ、このすきま風は、わざわざ自分で自分の部屋の壁を破壊して、詮ないことを気にしながら、いろんな心の中の省庁を押し切ってまでして、かなぐり捨てるようにして開けてしまった一世一代の「穴」からふきすさんでる。自己責任論である。

次に、承認欲求の複利を求め、すきま風をずっと浴びながらひたすら投稿を続けていくと、今度はそれが「ジェンガ」になっていく。この積み重ねた本みたいなジェンガの傾きというか、ずれが無性に気になってくる。

今まで書いてきた文章群に対し「これは…いったんぜんぶ消した方がいいのでは…?」といった気運が巻き起こってくる。だいだい深夜帯が多い。

なぁんか気持ちが悪いというか、キャラが定まってないのに書き始めたからだんだん変わってきて一巻のドラえもんとはだいぶ違うなぁみたいな感じになってきて統一性がないのでむずがゆいし、いてもたってもいられない。それが「ジェンガ」というか、こう、ずれて積み重なってる本の山みたいに見えて、崩れそうだし、崩した方がなんかいいような気がして、一回リセットして最初からピッチリやりなおしたくなってくる。最初のパーパスとかブランディングとかマーケッティングとかターゲッティングとかをきちっと練り直して戦略的にやってこう次こそは!みたいな感じになります。でもそれは絶対なりません。だいたいしだいに飽きてって(縮小再生産的になってって)やらんくなる。あなたのものかき人生は終了しました。

一応終了しなかった場合のほうを書くと、まず、まあアカウント消します。すきま風だらけであばらやになってるところに、さらにジェンガというか、ずれていく積み木みたいなものをえんえん積み重ねてやってたので、精神的に不安定でぶるぶるふるえています。耐えたから、つづけたからといってなにか褒賞があるわけでもない。なんか知らんけど書いてる。けど意識したらなんかこれはあかんやろみたいな全体的な整合性がとれてない感が強烈に迫ってきて、これは消さな耐えられへん、生きていかれへん!みたいになる。

わたしはあんまり、書いたものはそこそこ消したけど、まだアカウントごと消失して再スタートするというのはたぶんまだ2回ぐらいしかやってなくて、このnemaruっていう名前のアカウントはもう死ぬまでいちおうこれ一本でいこうと思ってるから、もしなんか文句ある場合はこのアカウントをちょっと検索してDMなりコメントなりしてくれれば善処は弾むが、消すことはしないとおもう。打ち消し線ぐらいは引くかもしれない。

とはいえ、以前ここにあったnoteの記事もすべて、すわりが悪いような気がして、いったんすべてメモアプリに引き上げて再編集中だったり、そこそこフレキシブルに出したり引っ込めたりしている。

その意味では、文責っていえるほどの非可逆性というか、堰き止めっていうか、ダメージが通る感じにはなっていないし、勝手に消失したり出現したりしているそのへんのハンドルネームとかアカウントとかとそんなに変わりはしない。道端に落ちてる診察券とか子供のくっくとか、そういうのとあまり変わらない。

一応おもてに出す以上、ある程度はらはくくってるつもりだし、引用の要件としての主副の関係とか参照文献(参考文献?)の明記等々の条件も満たせるよう努力義務も課してはいるのだが、いかんせん、どうしても全体に目が行き届かないし、お客さま目線にもなれない。

何回も、こんなの書いたっけ目線で見返して、感覚で剪定して接木してを繰り返し、基本増やす方向へと向かう。そしていったん投稿用のテキストボックスにコピペして、そこでの収まり感やフォント感でまたさらに最終調整を行い、それをctrl+Aしてctrl+Xしてメモアプリを開いてctrl+Vする。

お〜ぃ(研ナオコつっこみ)

まあ、出さない以上、言葉の羅列としてパソコンの中に保有していても、結局それって所詮は肚の中みたいにどろどろしてるだけのものだ。淀屋橋の自由通路のミックスジューサーのようなもの、不凍港のようなもの、アバオアクーのサニタリーボックスのようなもの…。なんにせよ、公開せずとも、書き続けるには不凍液的ななにがしかが要るような気がする。攪拌作用は外界のアクシデントや摂取するもの、風景、日常などがとりもつとして、不凍液に関してこれは情念みたいなところであり、くらいつきっていうか、執着っていうのか、なんかこううまいことやれへんなぁ的なスパイラル的な遠心力の錐揉み式のトリクルダウンのハイパーガミーみたいなところがあり、何回も同じ筋で同じ道を辿り直すみたいなことをずっとやってる気がする。

まあでも一旦しんどいので、これらの書き物のことをいったん忘れます。でも、またあるとき暇ができて「くっそ暇やな…よっしゃ、日記(メモ)でも読み返したろ」が勃発し、見返してみると目暮警部的「おンやぁ?」や「あらあら、これはなかなかどうして…」とか思って読み耽ってるうちに、午後九時ぐらいになって、だんだんと目が慣れてきて「あぁ…やっぱ、これはやっぱダメなやつだ…」となり、暗澹たる現実を思い出し、編集や公開をとりやめる。そしてまた時間が経ち、あるときふと眺めると「これはなかなか…」のループを繰り返し、何年も経つ。で、死ぬ。とまあこれが人の一生です。

けっきょくのところ、何年経ったところで、出だしからたぶん筋が悪い感じがするから、こういうのにずっと拘うのはよくないのかもしれなくて、人生暇つぶしという意味で捉えた場合にはコスパがとてもいいのですが、自分で書いた文章を自分で読み返して自分で寝かせて自分で読み返すというループはまじで非常にコスパのいい趣味ではあります、がぁ、まあ、なんかこのループから抜け出したいっていう、加速器から飛び出たいタイプの原子のふるまいというのか、遠心力で非公開という壁をぶち破らなければならない。まあそんな気負うことはない。軽くやりましょうや。ふざけるない。

個人の生活も内面で見えず、内面も言葉で見えず。そして言葉になるとあいだになって、発信するほうと受け取るほうとで、どうずれるのか、どうひらかれていくかについての思いを巡らせるが、私はそういう把握がうまくできる人間ではない。あくまで発信してみて、あとは野となれ山となれのタイプであるし、野とか山になってるのを見てさてそれをどうするというわけでもなく「あぁ、野とか山に、なったなぁ。。」と眺めて、とくに手をいれることもなく、疲れて茶をすするのみ。

ほんとうはもっと出して出して出していってどーん!と打たれるべきだったのかもしれないが、重症の引っ込み思案だったので、ほとんどフィードバックもないまま生きてきてしまった。しかも読書経験もそんなになく、危機感がないというのか、運動がだめなら勉強でどうにかしないと、という危機感もなく育った。コンプレックスも特に。ちんこが小さいとか背が低いとかしかなくて、なんか能力のことはあんまり考えたことがなかった。

ただひたすら、インターネット上のやりとりを陰でみながら、ロールモデルとしていた。あとはオールザッツ漫才などでわけのわからないコントをやってるような人たちをロールモデルにしていた。

だから表現の洗礼とか、公開のフィードバックみたいなものを受けずにきて、ぎりぎり社会人生活にしがみついて生きてきたみたいなところがある。

じゃあもっとそのしがみついた手を早くに放しておけばどうにかなったのでは?みたいな考えもあるだろうが、それをやるともうちょっと早く死ねてたんじゃないかとは思う。まあ、でも、これでよかったんじゃないかとは一応おもってる。覆すかもしれないが。

で。

で、だ。

でですよ。

若い頃のチャレンジ精神やフットワークの軽さもなくなって、世の中怖いことばかりで詰んでいる昨今。四十一歳。そもそも、わたしはとっくに幼い頃、強制スクロール面で壁に挟まれて死んだマリオのまま、心がずっときてしまったから、ここいらで本当にもう詰みなのかもしれない。

ずっと浜辺に残ってるくらげの死骸や藻屑みたいな、満潮のときにちゃんと引波で海に戻れなかっただけなのに、なんかこんなえっらそーに書いて、じつのところは十人並みのライフステージからひとり取り残されているだけ。

なんらかの事情でアカウントの更新が止まったら「あとはひきとります」なんていうリアルな友も眷属もいない。

浜辺に打ち上げられたもの

情報の海に溺れそうになったらとりあえず浜辺に上がるのがよいでしょう。でも、浜辺に上がった人がもし、私が適応できなかった海は虚妄であると吹聴するなら、その人は残念ながら、進化に取り残された悲しい嘘つきです。真実の在りかは、そう簡単に示せるものではないし、そもそもあるかどうかさえ人により考えが違います。
まあ、少し器用に海を泳げたくらいで海の全てを語る憎むべき嘘つきは私も大嫌いです。
---2015/08/16 19:27追記---
付け加えるなら浜辺に上がる人を侮辱する人も大嫌いです。

(現代詩フォーラム 鵜飼さんのコメント http://po-m.com/forum/pointview.php?did=309130)

ときどき思う。たまに思う。

わたしは「海の全てを語る憎むべき嘘つき」だろうか? 「浜辺に上がる人を侮辱する人」だろうか?

ときどき、やってしまうかもしれない。時機(時季)や波にさらわれて、向こう岸についたなんて話を聞くと、砂浜に黒く突き出した流木の突端に引っかかって海に戻れなくなってしまったくらげとかレジ袋とか藻屑のたぐいのようなわたしみたいな存在は、やっかみついでにケチのひとつでもつけたくなってしまう。

すなおに幸せを祈れないし黙ってもおれない。わたしは書かないより、書いて謝ったり消して逃げたり懺悔したりするほうが無性に合っていて、それが好きなんです、とさえ言ってしまいたい。

それらを「書かなかった」ことにして、いつか「書いていなかった」ことにして、誇りをもって、友や眷属ができ、なにもかもが好転したとして、それでいいのか? とは思う。

うまくいったターンの自分だけを載せれば、それで華麗な人生のステップは済むのだろうか。自分に嘘はつけない(by布袋)けど、タイムラインを映えとパクツイで埋め倒して満足するような、なんか弱毒化した木嶋佳苗みたいな人が日本に何人ぐらいいいるだろうか。そしてそれ(そのアカウント)は結局なんなんだろうか。

逆じゃないだろうか、とは思う。インカメラのほう。映えじゃないほう。パクツイじゃないほう。そして、いつもその「逆」が載ってないので、そのことにいつも苛立っている気がする。かといって私たちは別に「逆」のほうも見たいわけじゃない。

そう、別に見たいわけじゃないから、いつも公開せずフォルダに移し、見直し、修正、自分で自分のゴーサインを待ち、見過ぎたら距離をとるためいったん寝かすのくりかえし。でも、そうやってためこんでいったって、またみてみたら「結構いけるじゃん」って、また勘違いが始まって、結局手を加えていく過程でさらにひどいことになったりして、かといって情がわいてきてて削除することもできず、書かずにもおれない。

わたしは自分の死まで、ちゃんと墓場までもっていくことができない。ひとは急に死んでしまうのだとおもってしまった。自分のオウンドメディアのブランディングに失敗し続けて死ぬのだとおもうと、まあ、そんなもんかと思う。

なぜ墓場までもっていけないのか。友や、眷属がいないからなのか、わたしの意志がふつうに薄弱だからなのか、さみしいしむかつくからなのか。不平不満があって、どうしても世に訴えて、シーソーをちょっとぐらいはこっちに傾けたい、弁護したい。そういうことなのか。やっぱ味方がほしいのか、でも味方なんか要らないやいという気持ちで書いてもいる。途中でどうしてもなにもかもに耐えきれなくなってしまう。

汚言症のような、途中ですべてぶちこわして椅子を蹴って帰ってしまいたい(どこへ?)ような、それを文章でやろうとすると、どうしても型ができてしまうから、全体の調子ではなく、節々や前後や整合性を壊すことに躍起になる。

書かずにはいられなくなってしまう。貧乏性だから、書いたものはぜんぶ見せたいから、もったいないと感じてしまう。でも、社会生活を送る以上、ある程度の時効や、自分や相手が安全圏に到達したかどうかの計算はある程度してから、半分ぐらいの見切り発車でやるのだが、それ(計算)自体が世界にとってはほぼ無意味ということもあるけれども、人が関係のなかで生きている以上、そのへんは近しい人との関係のほうからみていったほうが着実だし自分もやっぱり失うのは嫌だなと思うし、なくなっていいものとなくなってほしくないものとで、実名と匿名をわけたりするような恣意性を発揮するのも本意ではないから、できればそういうことは平等に行っていきたいと思う。

そうなってくると、わたしがある程度、身を切る必要が出てきて、そこから何かが始まる気もするし、逆に終わる感もある。ただ、もう社会人生活も限界にきてる気もして、詩人のアカウントに病名が書いてあったりすると「あぁ…もうすぐワイもそっちにいくんやな」と思うこともある。

詩人のアカウントの病名は、わたしにとって、空中ブランコを手放したときの、落下の先、安全網のようにみえる。ただ、故意に落下する気はない。

書かないことへの憧れ part 2

だが、ああ、自分の本性を見すかされまいと、お互いに身を隠すのに費やすエネルギーときたら!

(トルーマン・カポーティ『草の竪琴』大澤薫訳p69)

書こう。でも「書く」って、なにを。たくさん読んだりよく生きた人がたくさん構成する資材(知識、経験、感性)や興味や情熱をそこに注ぎ込み、投資している世界に、わたしたちが書こうとするものが太刀打ちできるかというと、やっぱそれはそういう同じ感じの人を探して読み合うしかない。

資材がないので、身のあじわったことを書こうとすることになり、身のあじわったことについて書こうとすると、身に染みたものをぎゅっと絞ったり、削り出したり、身の周りのものを削っていったり足を踏み入れたり分け入ったりしなければならなくなる。そしてそれに興味を引くような味付けができるわけでもないし、その搾りかすや削りかすがものすごく珍しかったり、珍しいアングルで捉えられているわけでもない。

まず価値で測るのをやめないと、ずっとしんどい。

やめるには、会わないといけない。会って、クリンチしないといけない。

家に帰ったら、またいつもの価値で測る自分をやってもいいが、会ったらクリンチして、あ、どうも、ひさしぶりです。という感じでいかなければならない。で、帰ったら速攻で「クソみたいな詩ばっかだったぜ」と嘯かなければならない。そういうのを繰り返すうちにまるくなる。まあるいいのちになる。まあまああの子はああいう感じだからという感じで対処法が確立し、そのキャラのやつになる。人間の集団のまるこめ術はかなりの手練れであり、そこにいると「ああ、こういうのも悪くないもんだな」と油断させてくる。

ですんで、価値判断の世界とかテキストで姓名判断するような世界観から抜け出ようとすると、会ってクリンチしてどーもどーもってやらないと尖ってる芸人の状態から抜け出ることは叶わない。

尖ってる時期が終わると、小康状態が、始まる…。

だから、なんとなくでも何も書くようなことがないから書かないという直感は正しいと思う。わたしが憧れていた、書く間隔というのは「なんとなく何も書くようなことがない時期が続いて、身を削る意味も、それを書いておもてにだす意味も、なにひとつ認められない」ということだから、それはきっと幸せなのだろうという推測が成り立つ。

でも、ほんとうにそうかというと、それは知り合いがある程度は同世代というか、ある程度若者だろうという想定があって、かつ統計的に死んでる確率がまあまあ低い場合のみ成り立つのであって(冒頭の引用にある『書かなくてよくなったのだなぁ』にそのような意味が含まれてるとは思ってないし、あるいは死をも含んだ『書かなくてよくなったのだなぁ』だったとしても、わたしには、ただよう楽観性のにおいのようなもの、どうしようもないことを考えない姿勢のなかに垣間見える存在を手放すしぐさのかろやかさやある種の潔さのようなものについて、わたしがそれを見上げているということも含まれている。この見上げる目線からは、これらの言葉はかなり峻厳にみえる)、インターネットもかれこれ二十数年続き、パソコン通信ともなると三十年以上となってきて、これからはふつうに音信不通が死を意味するようになる。音信不通のパソコンの向こう側に眷属がいない限り、わたしのアカウントはただの行き倒れとなって、だれにも気づかれることがない。

わたしの死体を警察や管理人、然るべき業者、行政が処分しても、パソコンやスマートフォンで行われていたアカウントを通した情報のやりとりはそのまま放置されることになる。

となると『幸せなのだろう』という推測ははずれる。厳密に文章を読めば『書かなくてよくなったのだなぁ』なのだから、合ってはいる。ただ、無責任すぎやしないか、とも思わないではない。

なんだかんだ、最後は物理的隣人であり、ネットで交友として掬い上げるのも、同じ程度に好みのあう少数の人間であるということまで、しっかり予見すれば、いや予見しなくとも、実体験として経験しておけば(つまり波にさらわれていれば)、書かなくてよくなったことを、ただちに幸せとするような決めつけや早合点はそもそも生じ得ないのだろうとおもう。

ただ単に、わたしがなるべくこの人生を「幸せだなぁ」とおもえるように生きて死ねばそれでよいのだけど、眷属や友や仲間を実感できない人間にとって、書くということは、かれらを一足飛びで撒いてしまうための方便や手段のひとつであって、かれらのような存在を育んだり関係性を築いていくための手段では決してなかったし、これからもないのだと思う。迷路の最初の行き止まりに座り込み、まさか俺が、そんなはずはない…とかいって、ここをゴールにするための呪文をずっと考えているような、頑迷な生き方。

書かないことへの憧れ part 3

宛名。しかし宛名のない書簡を出したがる者は、基本的にはその疎外状況をあらわにしてしまうだろう。自分のしるすものの届くべき場所が、漠然とした希望領域にあることをそれは意味するだろうが、かえってこのことは、みずからが希望領域にいない点の逆証ともなるためだ。

(阿部嘉昭『平成ボーダー文化論』)

希望領域にいない自分とか、疎外状況というのは、つけこまれる脆弱性みたいなものなのに、わたしはこの歳まで、そこをなんとかしてこなかったし、その個性につくような味方を誰も見つけられなかった。全員が敵で、わたしはひたすら「だだ漏れている」ということだけがはっきりしている。

わたしは、ツイッターでもnoteでも、テキストボックスで書いて、ボタンだけ押せずにメモアプリにすべて貼り付けてしまうタイプの「書けない」人だ。公開寸前の場所で書き出し、客観的に見れなくなると、いったんメモに移し、潜在的な状態に置いて、細かく直して、また貼り付けてみて、また戻すといった過程をくり返す。

この過程により、メモは増改築され、重複、晦渋、支離滅裂、論理性、文脈の破綻などをそこかしこで起こし、手の施しようがなくなる。

そうやって未遂の書き込みがたまりにたまり、一時期は四千個ほどになった。さすがに多いので、集中的に断捨離を敢行し、毎晩時間を作って、メモをへつり、現在では三十七〜三十九個あたりを推移している。今年の三月二十三日現在、ついに十二個になりましたー! いぇー

とはいえ、ほとんどはメモとメモを合併させてるだけである。ときどき、いたたまれない文言やイキッた表現を削除したり(もったいないときは日記に流し込んだり)して、少しずつ少しずつダイエットさせていった。

無理やり合併させたので、話の前後がつながっていないメモだらけだが、とりあえず数は減ったのでよかった。煮込んで水分を飛ばすように、トーナメント戦のように、こうやって数が減っていけば、自然と自分の好みや、捨てきれない部分が残っていく気がする。自分が昔書いた文章を自分で煮詰めて、べっこう飴にする。

普通書けなくなるというときは、ことばを忘れてしまったというわけではないのだ。書けなくなるというのは、「表現としてのことばが書けなくなる」ということである。「表現として」、あるいは「作品として」何をどう書けばよいかわからないということである。
書けなくても、「書きたい」という気持ちはなくならない。しかし、書けなくなったとき、何とかして書き続ける方策を求め続けるか、また書かないでそのままになってしまうか、ということの間には大きな差がある。

(鈴木志郎康『現代詩の理解』)

実家に帰り、大学まで暮らしてた自分の部屋で寝転び、ほんとうになんにもすることがなくなると、現フォにログインするのはなぜなのだろうか。

ライフステージや忙しささえ歯止めにならないような、且つものにならないうえに趣味でもない「書く行為」は、いったいどこでどう終わるのだろう。

生活習慣。健康。恋人。嫁。自分で終わらせるのはけっこうむずい気がする。書くことも、いつかフィットネスや脳トレのゲームみたいに、なんとなくやらなくなっちゃうのだろうか。休みの日に、湯船つかりながらYoutubeをずっとみてて(そろそろあがるか〜)ってなんとなくあがるような感じで、書くこともなんとなくでやめてしまうだろうか。

現フォ(現代詩フォーラム)にログインするということは、ひとりになったということだ。現フォにログインするときは、ひとりになった、ということを思い出したとき。ひとりだから書いているのか。そうじゃなくなったら、書かなくなるのか、書けなくなるのか。

わたしは、ひとりになれなくなれなさそうだから、(量ばかり無駄に)書けすぎてしまうから、公開しないことで、書いてないふりをしてしまっている。動物が病気を隠し、元気そうにふるまうみたく、希望領域から疎外された自らを隠している。

こうやって悩みつづけていると、書いてはいるけれども(傍目には)書いていないかのようにみえる。それはそれで「発表しなくてもいい状況」になったんだから、それはそれでまぁいいじゃん、というふうに捉えることもできる。しかし、それは、希望領域にたどりつかないまま、宛名のない書簡を溜め込んだまま、出すことだけを止めてしまっただけ。

叫ばず、迷惑もかけず、他者との相互作用を引き起こさず、クラスタ(群、集団)も移動せず、沈殿して、それが定着してしまうのは、なんか、良くない気がする。それは「発表しなくてもいい」というのではない気がする。

エロ漫画でおちんちんをみた女の子が「これはただごとじゃないってかんじだね」と言ってたが、今わたしが言っていることを的確に表しているようにおもう。そう、ただごとじゃないのにただごとで終わらそうとしてる。なんか、それがよくない気がするのだ。

とはいえ、インターネットという、こっちから発しない限り、とくに住所も顔も名前も知らない相手の「こと」を、ある程度ポジティブにメモリ解放しようとおもえば、そう思うのがいちばん良い(という価値判断はしていないにしろ)、良いのだろう。いまのじぶんの姿勢をふりかえり、あらためてどうなのかと問うと、そうなっていた、といった感じなのだろう。それは正直で現実的だ。アウトリーチしようがないもののことをあれこれ考えたり勝手に書いたりするのも野暮ってもんだろう。

その野暮を通そうとしたら、やっぱりひとは顔をしかめたり、離れたりしていくだろう。でも、と思う。

ネットというのは書かないことで羨ましがらせるメディアだと私はおもっている。というか、現フォで見慣れない名前があって、その人の作品リストをみて、今作と前作までの期間が1年ぐらい空いているのをみると、ひとりで勝手にロマンをかんじたり、ワイルドだなぁ、なんて憧れてしまう。これも、「発表しなくてもいい状況」だったけど、ふとひとりになって、現フォにログインして、現フォなんてひさしぶりにのぞくなぁ、いっちょ書いてみっかっていう感じで肩のちからが抜けていて、その抜け感がとてもいいような感じがして、その「発表しなくてもいい状況」で書かれたものというのも、それはそれでそれ特有の良さがあると思う。

それにネットというのは擬似的に「書くことで関係を切り拓く自分」を叶えてくれる気もする。それって結局誰でも情報発信できるというWEBの特性に依ってるだけで、書かなければ関係を切り拓くことができない「作家」とはまた別の、有象無象の存在である。掬われることも抜けることもなく、情報の海のなかにあって、ただ、書くことでしか関係をつくれない(あるいは身を立てることができない)自分を一時的にでも仮構できる。それ自体は否定しない。してはいけない気がする。でも、あんまりそこに無自覚に依りかかりすぎると、アイデンティティかなにかが不貞腐れて来て、自我が煮崩れて自堕落してしまうこともあるような気がする。慣れてしまうのである。常連であるかのような錯覚に陥ってしまう。

復活パターン、時間配分、依存

ネットというのは復活パターンを増やした。昔なら詰んでたり、部屋で悶々とするしかなかったのに、とりあえず思考(情報)だけは外部に出せるようになった。

人間追い詰められると「打って出なければ」と思いがちになる。「発表しなくてもいい状況」というのは、装わなくてもいいような、打って出る必要もないくらい、めっちゃいい場所にたどりついたことの一番の所作であり報告だといえる。ある意味断酒に近いものがある。もうここには来ません!もう書きません!と言って、また、違う名前ででています。そういう人は断酒失敗である。それぐらい「書くということ」には嗜癖性や中毒性、依存性がある(人にはある)のである。

書かなくてよくなった。ばんざーい。書かなくてよくなったってことは、アイデンティティが揺らがなくなったの。あきらめたの。生き方が定まったの? それはいいことなのー おーぃ

いうて書かなくなることで、書くことに費やしていた時間が浮くし、生活への時間配分もがらりと変わる。習慣・環境・関係が、より現実寄り?のものに置換・還元され、リアルガチな社会へと貢献していく。まあこれは自慢したくなる。自慢するやつは大抵くそだが。あ、言っちゃった(浜辺に上がる人を侮辱する人)んー、やっぱりやってしまうか…。もうしわけない。

書くことを支えていた周囲(あるいは自身へ)の身体的・経済的負担も、本来の比率に戻るだろう、みんなが幸せになるだろうという推測のもと「現実にかえれ!」と詩で叱咤したり啓蒙したりする人もいる。そういう人はいい人なんだろうけど、才能とか、採算性とか、芽が出るか出ないかでしかものごとを捉えていないような気もするし、逆に、そんなふうに言われてしまうような人も脇が甘いというか、言われるまえにもう少し健全な時間の使い道とか自己管理とかコミュニケーションのとりようがあったのではないか?という気もする。

お互いが「そういうのは、ぜんぶわかったうえでやっている」という気分やオーラをまとってはいるが、お互いにふかく踏み込むことはないので、どちらも直撃弾が当たることはなく、躱すように「自分は該当しない」とうまく避けながら生きる。

祝祭、ネット詩、HTML

ネット詩が時と場所を限定された刹那の産物だから。それは一閃の光芒のように流れ去って忘れられる。アーカイブとして放置しておいてもやがてサイトの閉鎖やサービスの終了で消滅する。それでよい。それゆえにこそ自由で潔い祝祭の場なのだ。

(みつべえ『そろもん詩抄』七月堂 あとがきより)

祝祭。詩にまつわるイベントやムーブメントはいつも祝祭の側面があるといいなとおもう。ガチガチの、のっぴきならない側面と、とはいえ言葉だけのやりとりだから、祝祭の側面が常にあって、のど自慢で鬼束ちひろの月光を歌っても、親族や眷属の横断幕があって、出演者全員が「アイアムガッチャイルドこの腐敗した世界に」で笑顔で揺れててほしいようなところがある。

先鋭化した芸術的な人と、作業所に通い人と、主婦と学生と、東京のすみっこの人とか、きこりとか、ホームレス、ふつうにすりへって消費してしまった人の詩が一緒にあって別に困らないというか、互助でも自助でもアートでもなんでもいいじゃないかという、あとはサイトポリシーで棲み分けて居心地のいいところにそれぞれ棲めばいいじゃないかとはおもう。

現フォのはみだし情報にみつべえさんの詩集が出たと書かれてて、検索したら本人のツイッターで古本屋に平積みされてるとあったので、さっそく買ってきた。帯に「ネット詩」へのオマージュと書かれていた。索引付きの本格的な詩集。索引付きの詩集、憧れるよね…。なんかこう、ぱらぱらめくって目にとまるのを読んで、さらにその前後をよんでみたり、索引でえいやっと開いてみたり、いろいろできる。なんか青春っぽいのがよかったな。あまずっぺえのすき。

みつべえさんという名前をみると、わたしの記憶のひきだしには山田せばすちゃんさん…仲程さん…といったハンドルネームとならんでいる。山田三平とかいう人もいたかな? 今つくっちゃった? なんというか、社会人をしている、すこしおとなな詩人といったイメージのひきだしにあった。今でいうと、はだいろさんや湯煙さんなんかもそこに加わっても良いのかもしれない。なんとなく、生活基盤というか、くらしが安定しているようにおもえる。

いやしかし、祝祭って言葉はいいですね。観客席との距離が離れてるからこそ言えることもあるよなっていうタイプの祝祭で、サービスの隆盛が過ぎ去ると、レリーフの欠けや風化(インターネットだと、情報の欠損、ポリゴンの欠け、ROM欠損?)を気にしない、こんなスピーディーに勃興しては古代化し、沈没する情報遺構群に二十年近く拘うことになった。祝祭のあとにはみんな生活にもどるのだが、もどれない人や今北産業は祝祭の痕跡を読み解いたりして自分の出自をさぐったりすることに熱中していった。

現在でもっとも倒錯したなと感じるのは「時と場所を限定された刹那の産物」の箇所で、これは、始まったときにはまったくの真逆の感覚だった。フロンティアじゃないが、地下の雨水を貯めるためのがらんどうみたいな空間と、辺境のテキサス(知らんけど)しかないような茫漠とした空間であって、そこで狂ったGIFが踊り、MIDIが鳴っていた。なんでか知らないけど、ああこれからはこういうのが全部きっちり残るんだと思っていた。だから、検索のノイズにならないようにキチッとしなきゃな、HTMLの理念を読み、論理構造を強調したりするためや参照するためのハイパーリンク…などと、えせモヒカン族になって、とほほのHTML講座や、趣味のWebデザインのトクホさんの厳密なHTMLを参考に、きっちりやろうとした時期もあった。

そして案の定、挫折した。いや、というか、ガワばっかりつくって、肝心の流し込むことがなにひとつなかった、といったほうが正確だった。そうやって、永遠に残るものだとおもって気合のHTMLとCSSをつくったら、もうそれで、とくに書くことがなかった。そのへんからいろいろわたしのプライベートそのものの雲行きが怪しくなり、インターネットから離れることになった。軽い軟禁生活のようなものがつづいて、どんどんインターネットは身近になって、でもだんだん欠けていっているのも気づいていた気がする。

今思えばジオシティーズが永遠なわけないよな。あの、ほとんどの人が流し込むなにがしかを見つけられないままページだけ作って工事中だらけの世界をつくり、容量ばかりくって、本人も飽きてIDもパスワードも忘れ、忘れたから新しく始めましたなんつって、XREAができたらそっちでつくり、はてなダイアリーができたらそっちにつくり、自鯖をやってみたり、そんなことやってるうちに自分は結局そんなことのガワばかりを、壊れたラジオ?レコード?みたいに繰り返し書く人になっていた。WebArchiveだっていつまでもつかわからない。

エヴァンゲリオンで、ゼーレのモノリスが順番に消失していくシーンがあるが、インターネットの別れはあれに近いものがある。さきに引用した、みつべえさんの詩集のあとがきの「それでよい」のキールロレンツ感は異常である。

そういや、インターネットは一枚また一枚と奥に分け入っていく感覚が昔はあったが、今はワンツー、ワンツーと検索と結果を得る場所になってしまった。あのころは若くて無駄に情報を掘っても時間があったし、夜遅くまで起きていられたから、それでかもしれないが、今は検索することもさしあたって困っている生活上の小さなトラブルやスマホの設定、買ったもののカスタマイズやアレンジの事例などで、それに答えるサイトもなんだかかるい(この表現がむずかしい…情報の濃さのガチ度のようなものがないというのか。専門家の小難しい話からこちらがいちいち読み解くのではなく、簡潔にまとめられ検索の上位に押し上げられたブログ記事とかSEOに操作されたような文体のインデックス付きのサイト。Web1.0の動的に生成されないHTMLのページを「重い」と思ってるのかもしれない。ファイルそのものの錨がおりているようなイメージ? 逆に今、そういったページが読めるだろうか)。このかるさがわたしはあんまり好きじゃない。

熱気、インゲン豆、列


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?