0710

あさ。エレン(仮)は朝から非常にテンションが高く、ケージの上のほうまで上がってきて、ケージが開くのが待ちきれないといったようす。ペレットを入れる容器を取り出そうとすると隙間から脱走しようとするので反対の手で抑えつつ…というようなことをずっとやりながら気づくと触られることの恐怖より外への好奇心のほうがまさっていて、溶けてきているのを感じる。まだ我にかえると「触られてる!やべぇ」みたいにぴゅーっと引き下がるが、そのうち部屋んぽを始めるとそのへんも溶け始めるだろう。なんか今日のテンションをみてると安心した。
というか、なつく/なつかないっていうのが自分のイメージしていたものと違うのがなんとなくわかってきたというか。恍惚の表情が見たくて触りたいのだが、触るための下地は、毎日好奇心と世話のせめぎ合いが自然と作ってくれている。そこに本で読んだ知識(耳をたたんでいるときは怖がっている、餌をゲットしたら背中を向けて食べる、など)を最低限覚えておいて、怖がらせない、無理しないような感じでやっていけばなんとかなるんだなと。まだわからないから、まあ暫定的な腹落ちだが。
体重は180→179g 運動し過ぎなのか、餌が少ない(とはいえ追いチモシー、追いバミューダしてるのだが)のか、とりあえずペレットをいつもより2粒多くしてみる。体重の5%だから、9gということだから、粒で数えるからよくないのか。
いや、今測ったら9gで53粒ぐらいになるから今までのやり方だとプロボクサー目指してるようなもんだったのか…すまんかった…というわけで今日から2回にわけて9gあげていきたいわけだが、2回にわけるための給餌機能付きペットカメラが欲しくなるわけだが、これはもう機能だけの人間で、ときどきむかつく上司ももうその必要部分だけ出社してくれればいいのに(ポコポコ脳容器とロボットアームとウルトラ横断クイズの○×のフダのみの存在になり、ピンポーン、ブッブーしか鳴らない上司)と思っていたが、自分がエレン(仮)に対し、そういう存在になる時が来るとは思いもしなかった。まあ朝と夜は会えるので、あまりナイーブにならず清濁あわせのむ気持ちでやっていきたいですね、可塑性に期待大
というかこの可塑性って言葉は人に使うときは可逆みたいな意味で使われて、ものに対してはなんかへっこんだらもどらない的な意味で使われたりする? 要は、人に対しての可塑性も、へこんだものが「もどる」という意味では使われてなくて、さらに進んでいくことで「取り戻す」というニュアンスを含んでいるということか〜。
わたしの脳内辞書では人や関係の可塑性というものは「三年峠的」な、1回転んじゃったらもうたくさん転んで寿命稼ぐしかないよね的なニュアンスに近づいてくる。わたしはそんなに三年峠してないほうで、三年できっちり死んだ枝のほうが多い人間だが、可塑性というものに対する漠とした信頼感はあったものの、さすがに40代ともなるとなんか体の変化に慌てて、こんなにさまざまなものが混濁していくものなのかと不安になってくる。
いきすぎたオートパイロットは身を滅ぼすというが(いわない)、オートパイロットのその先にある混濁に対し、まあなんとかなるやろ、と思いながら突っ込んでいけてしまうのも怖い。
というかあの犯人も41歳で、なんか元SPの人が「平日におっさんがいたら不審者と判断します」(大意)と言ってて、天才バカボン(のパパ)とかもよく考えたら不審者には違いないのかもしれない。
なんか全然関係ないけど1R、1Kのマンションというのはこれからもう少し減らして、もっと家賃の安い1LDKか1.5LDKぐらいの物件を増やしたほうがいいような気がした。
なんか選択肢が大学生の1R、1K→社会人の一軒家orマンション→管理費めっちゃ高いシニア向けマンション→老人ホーム→病院→墓
みたいな感じで、もう少し人道的な間取りと設備の部屋を適切な値段で選べるような状態にしないとなんかあんまりにもあんまりだなとおもった。
洋画のマンションとかはなんかすごいいい感じじゃないですか。
シェイプオブウォーターがパッと浮かんだけど、あれぐらいの部屋にふつうに単身者が住めるようにしてほしい。

家の間取り問題もそうだが、会社や転職の問題にしても、すべてのあいだに雨が降っている状態、関係の中は非常にアナログだが、その外は非常にデジタルというか、1Kかローン組んで3LDKかみたいな。わたしも最初はドラマの何食べみたいに築古の1LDK〜2LDK探したけど、結局手頃なやつは3LDKしかなくて、今も一部屋もてあましている。まあこれから、エレンの広すぎる部屋んぽ部屋となるのだろうが…。

つまりどっちかしか選べないような状態、フィールドを歩けずに、街と街を繋いで移動するタイプのRPGみたいな世の中はなんかどこでレベル稼ぐのかっていったらイベントで稼ぐしかなくなって、フィールドを往復してレベルためをするみたいなことができない世の中、それの横穴に気づける人と気付けない人の格差、飛び降りても下には暗渠が広がっているわけではないことを知っている人との格差、これは気のもちようと実際の感覚、また自分のアイデンティティというか、所与のものだと思い込んでいるものの破壊みたいな要素も入ってくるが、破壊されることもあれば、本人にもちょっとヒビが入ってるぐらいの時もあるのだし、とにかくいろいろ出会わないと厳しい。

41歳が(何かに)出会うというのはなかなかに厳しい。出会うことが難しくなっていくだけの、弁のように、吐いたら吸えない、一方通行的に出会うことだけがひたすら難しくなっていくような時代。子供とあいさつするのでも結構きびしい。ちょっとしたつまづきや詰みで、昔の適応の歴史で割り切れなかったもの(憎悪)が一気に繁茂してくる。わかってる人は最初から耕しているものだが、あとで気づく人だっている。そういうときに日本は詰みやすい。斎藤環さんがひきこもりは就労じゃなくて仲間ができるのがゴールってよくおっしゃるけど、まさしくそれで、これは依存症の文脈にもくっつけられる気もするが、薬物や飲酒をやめるのもやはり仲間というか、人との関係の中でそれが要らなくなる、という状態、そこを基底にして始めると、「詰み」にくくなるんじゃないかとは思う。わたしは犯人と同じ歳で、犯人が海自にいた時期にひきこもり、仲間ではなく就労で外に出て10年ぐらい酷い目にあったけど今はなんとか元気です(いつまでもつかわからないですが…)みたいな人間だが、なんか肩身が狭いというのか、厳しくなる一方だなと思う。緩むことなく、締め付けられる一方で、この締め付けはもう1995年ぐらいからず〜っと日本は(でかい主語きた)このテンションな気がする。

とはいえちょいちょいネットを活用しながら、仮構的にスクリーンから関係を吐いたり吸ったりしながら、自分のなかの所与の条件だと思っているものを打ち砕くためのヒビぐらいは入れられるんじゃないかとおもってる。
少し前に読んだ「精神分析の歩き方」に「信念は事実じゃない」みたいなことが載っていましたけど、まさにそんな感じで、凝り固まった信念みたいなものをわたしたちは事実だと思いがちで、41歳ともなるとその数たるや、恐ろしくて考えたくないので考えないわけですが、
やっぱりすぐ、所与のもの、信念を事実だと思って、つまり環境だと思って順応・適応したりして、すぐ変えるのをやめちゃう、あるいは変えようとしている人に押し付けるみたいな感じのことを、やりがちなわけですわれわれ

ですけれども、時々思うのは、江戸時代のときって、ここ、空中やったよな、みたいなことは工場でもよく思うわけですね。
そう考えると、工場でものの位置が決まってるとかちゃんちゃらおかしいわけですね。江戸時代に空中だった場所にセメント流し込んで今はものの位置が決まってて、それが絶対なわけがないわけで、あくまで一瞬の経営とかHACCPとか、なんかルールが要請してる仮のものであって、どう考えても所与の条件とかではないので、でも、こういう考えの方向が変な方向にいかないように、でも所与のものからできるだけ遠くにいけるように、そんなふうにはいつも考えている(つもり)なんですけど、エレン(仮)はちょっとうとうとしてますね、まどろんでます。
彼の回し車も餌箱もチモシーも全部所与のものじゃないわけですね。
彼らはガンガン齧って足場も齧るし、とにかく齧り倒して次の木はよ!みたいな感じで間寛平の止まったら死ぬんじゃじゃないですけど、伸び続ける歯のために、とにかく齧り続けることが生き続けることなわけで、まあそう考えると、特に結論はないですけど、まあかわいいですね。

あとどうでもいいけどチモシーとかバミューダって、なんかそのへんの河原に生えてるやつでもいけるのでは?なんかネコジャラシとかメヒシバみたいなやつを天日干ししたら無限チモシーできるのでは?と思ってるのだが、何が混ざってるかわからない昨今、いやしかし、昭和なら試す価値はあったが、令和にこうやってインターネットに書いていて、それを実行に移そうとすると、倫理的なものが歯止めをかけてくるというのか、こう、何が混ざってるかわからないそのへんの草を干してかわいいペットにあげるなんてかわいそう!みたいな気持ちが出てきて、ちゃんとしたところの一番刈りチモシーをあげるのが当たり前、愛ゆえに!みたいな感じになるけど、このチモシーがどれぐらい管理されてるか、もしかしたらなんか金髪の俺みたいなやつが河原で草刈ってるんと変わらへんやん、という可能性もなきにしもあらず。
昭和なら、とりあえずちょっとずつ混ぜてあげてみよう(こんなきれいな言葉じゃない、実際はええねんええねんぐらい)、これでいける!無限チモシー!
というノリがあった気がする。そして、このあとには2ルートあって、変なものが混じっていて、死んでしまうか、そのまま健康にすくすく生きるかである。
昔はこの前者の死ぬルートに対する考え方がとにかくゆんるゆるだった。
だから怖かったし、とにかくサバイブ空間であり、とにかくストレスを受けると誰かにぶつける、自浄作用ゼロな人がたくさんいて、もう毎日学校でお腹が痛くて仕方がなかったし、頻尿だった。正露丸とビオフェルミンは欠かせなかった。

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