メモ

2023/04/29
コロナが明けて
と迂闊に書けないのが
また人とすれ違うことが増えた

すれ違うの苦手だ
この苦手さは
遠距離、中距離、近距離、すべてに対応してる

最適解がわからず
いつも失敗してしまったという絶望と落胆を味わっている
「すれ違う瞬間、あのふたりの会話が途切れたのは
 わたしが怪しすぎたからである」
目を落とした路傍の草の名前も覚えない
生産性皆無
自意識のドップラー効果、味わってる

死にたいというのは
こういう
期待はずれの降り積もりのことを指してる
大抵

おまえはもっとうまくやれると思ってたよ
残念だ
死んでくれ あー
って毎回思ってる

でも、そうやってもう
何十年と生きてきたので
わたしはわたしのこういうのが嫌いではないのかもしれない
などと
すぐ結論づけてはいけない。

あさ

ゼルダ(ブレワイ)久々にやってみた
セーブ画面には
なんかオルディン峡谷?のセーブデータとか
祠のデータとかが並んでて、とりあえず最新のデータから
始めてみた。

(ただし、それも2019年5月20日21時にセーブしたものだった)

リンクは祠の前でキャッチャーミットのようなものを被っていた
目の前を火の粉が舞っている
火山のとこだろう
昨日
うろ覚えで「火のところでやめてるんです」と
ひとに話したのは正解だったようだ

でもなぜかわからないがすぐ本筋からそれていって
カカリコ村でニワトリを10羽、柵の中に放り込む作業に没頭して
残りの1羽がどうしても見当たらず高台に登って見渡しているうちに
コログ集めになったり絵描きのじいさんと喋って
ウツシエ(ゼルダ世界のデジカメみたいなもん)で風景の写真を見て、いろんな祠にワープして
結局見つけられずに諦めて、ゴロンの根性ガケ(だったと思う)へ。
3分か2分半ぐらいの時間で、円柱状の崖をよじ登りながら、100ルピーをちまちま集めるミニゲームをやった。

うまくいかないので、祠攻略して即身仏からパワーをもらい、カカリコ村の女神像でがんばりゲージに換金したりして…

なんか急に壊れたガーディアンのねもとから古代のネジとか古代のバネを拾うことに没頭して…

ミニゲームは3回ぐらいミスった。一回チャレンジするのに20ルピーかかる。

そして、チャレンジ中に集めたルピーが100ルピーに満たない場合、全額没収される。

前回もたぶん、ここで嫌になってやめたこととかも思い出してきた。
でも、今回は、多少頭脳が明晰になっていたため、バンダナとか巻いて、山登りが速くなる装備に着替え、チャキチャキ青ルピー(5ルピー)赤ルピー(20ルピー)など取って、見事120ルピーぐらい集めてゴールした。

すると、祠の入り口の立つところに腰掛けていたゴロン族が起き上がり、祠に入ることができた。

なんかここからまた寄り道が始まってしまうのだが…
本筋だけ掻い摘むと、またわたしはゴロンの里に戻り、
長老に話しかけるとユン坊がどうこう言い出して、後ろに聳え立つ岩に、アメリカ歴代大統領の顔が刻まれてるように、
100年前戦った英傑ダルケルの顔が彫刻されていて、それを見たリンクが「…ッハ!」と思い出すシーンが出て、やっとストーリーが進んだ。

長老は再びぎっくり腰を起こし、「お前がユン坊に作戦中止を伝えろ」と頼まれ、その時点でもう4時間近くやってたから「もうこのへんでやめよう…」と思いとりあえずやめた。

やっぱゼルダはやばい。1回つけてしまうと黙々と3〜4時間は平気でやり続けてしまう。Apple Watchの立ちましょう!みたいな進言を2回ぐらい無視した。こんなことは私史上、滅多にない。

とりあえず22時前にはやめれて、それで部屋んぽしてごはん食べて
お風呂沸かして、ふるさと納税の寄付証明みたいなやつをみるために
自治体マイページに登録してpdf落として、
さっきAmazonの荷物が届いたところ。
今23時半
届いた内容物は、きき湯、スパイラルパーチ(軽く螺旋を描いた流木のようなもの。ケージのレイアウト用に買ってみた。)、ファンケルの40歳から飲むサプリセットみたいなやつ。これはふだん私が自分でルテイン(目にいい)とかノコギリヤシ&リコピン(なんかいい)のサプリなどを手作業で一包化しているのを、「40歳ならこれ飲んどけ」とひとまとめにしてある、ありがたいセット。これを30日分×3袋。1万ぐらいした。
試しに飲んでみる、時々。
あとはなんだったか(後ろを振り返る)、、あれである。餌のフィーダー。
牧草を挿しておける柵状のフィーダーである。
木でできているのでストレス解消で齧ることもできる。
以上。
とりあえずお風呂を沸かしてたので
きき湯使ってみようかなというところ。

そういやゼルダは操作をほとんど忘れていたけれど、やってるうちにまた思い出してきた。でも盾で攻撃を弾いたり、パラセールから弓矢打つ時とか、スローモーションになる技術はほぼ使えない状態。

水に沈んでるタコ(オクタロック)も、NTNの火薬の樽も、ふつうにクソエイム。
後ろから岩ガンガン吐かれながら走って逃げるのが常。
あとは、なんとか団?イーガ団? なんか仮面つけて消えたりする忍者みたいなやつにめちゃくちゃ手こずった。

昔、首領を殺った記憶があり、道端にいる人に話しかけたら「いい景色ですなぁ… これがお前のみる最後の景色だ!」とか言われて切りつけられて死にそうになったりしていた。
防御力だけガチガチにしてたからなんとか5分ぐらいかけて倒したけど、もうああいう速い敵には反応できない。

あとは(ゼルダの世界で)料理もかなりした。

あーとーはー、メロ?だったかな。おばあさんの梅園をめったぎりして朝になって敷地内に入ったら怒られて、なにかもらえるかなと思ったら「自分の命が…」みたいなことを言うだけだったので、申し訳なくなってしまった。

あとパーヤ久しぶりに見て、なんかエロいパーヤのファンアートとかないかなとふと思った。

次はおそらくユン坊のところへ行き、火山の神獣の中に潜入して最後のカースガノン(だったかな)を倒し、ハイラル城に4方向から光線が届いて、弱体化したガノンと戦う感じなのだろうけど、、、

その前にウツシエの記憶も全部解禁したいし、
祠ももう少し開けておきたい。砂漠のヌシみたいなやつも倒したい

以前やめたときに、もうかなり祠を開けた気でいたが、
マップを引いてみたとき、まだまだ疎な地方がかなりあることに気づいた。

コログもまだまだあるだろうし、ガーディアンを捌き切るテクニックも身につけたいし、まあまだまだかかるだろう。

たぶん、ブレワイクリアしてから、もう届いてる(5/12発売)のティアーズオブザキングダムをやることになるだろう。

まさかの新旧ゼルダ同時プレイにはならんだろう
こんなとこか。
とりあえず風呂入ろう。



2023/11/25
現況。ブレワイは火山のとこをクリアし、ガノンを残すのみ。
(思い出したけど、ダルケルのムービー泣いた…)
次は、なんとなく古代研究所に行くべきだとは思ってる。

ティアキンは最初の空島から飛び降りて、落下時に遊び過ぎて地面に叩きつけられた。その後、道端の木材等で走るヨットみたいなものを作って走らせているうちに疲れてやめてそれきり。

ワンダーは最初のワールドはクリアした気がする。

コロナとかはどうなんだろう。
昔より、みんな常にゴホゴホいってる世界線ではある。
それがふつうの風邪なのかインフルなのかコロナなのかはようわからん。

今日はちょっと寒い。
ブラックフライデーなのでAmazonで色々ポチった。
サプリや、ペット用の牧草など。
冬になると太陽がなかなか上がりきらないので
カーテンさえ開けていれば晴れている日は、
ひざしでずっとリビングがぬくぬくしている。
基本これを浴びながら、座椅子を倒して寝ころんでると、
それだけで幸せな気分に

最近読んでるのは『インフォメーション 情報技術の人類史』。もう半年ほど断続的に読み続けているが、やっと370ページとか、そのあたりである。
情報技術が熱力学(マクスウェルの悪魔)や遺伝子とかDNAのあたり(分子生物学?)とクロスしていく感じが面白い。話はとても難しいのだが、

この論は当然ながら、自分をロボットより優れていると考える有機体たちを立腹させた。

p372 ジェイムズ グリック(著)楡井 浩一(翻訳)『インフォメーション 情報技術の人類史』新潮社

こういう感じのくだりが結構あって、なんとか読み進められている。「語ってる」感じがちょうどいい。

リダンダンシーというのが冗長性という英語らしいのだが、情報は訂正されるために冗長性を確保するみたいな話を、詩に当てこむとどういうことが言えるかな、とか思ったりはする。特に(本の)最初にあったアフリカのトーキングドラムの詩的だと思われていた表現は、ドラムの抑揚のみだと、情報に複数の可能性が出てしまうのを、一意に絞り込むための冗長性だった。生返事で聞いてた話を前後の文脈で補うときも、同じようなことをしてる気がする。
同じ抑揚を持つ単語の前後に、その単語と紐づく表現を付加することで、誤解が生じないように冗長性を持たせていた。そして、その詩的で冗長な部分は、メッセージを伝える際には削ぎ落とされる。さらに中継点の場合だと、ドラムの打ち手によって、重要なメッセージ以外の表現(冗長性)は変えられる。

あと、Yahoo!ニュースで野田クリスタルのインタビューみたいなのが載ってて

初期の頃に「笑いとは内輪である」と思ったことがあったんです。「そのネタ内輪だ」と言われると「お前もだからな」と思っていました。お前もどこかしらの内輪に入っているのに、輪が大きすぎて気づいていないだけだからなと。
 なので僕は「内輪はできるだけ狭めた方が打点は高い(=笑いがとれる)」と思っています。その現場のこと、何を求めているかなどを深く理解する。そうやって究極に内輪に入っていったら、この内輪が好きなんだなと思ってもらえて、必要とされるようになる。

このあたりの話も、詩に置き換えるとどういうことになるだろうと思っていた。

投稿サイトの詩の内輪なものほど冗長性が高くなる気がするのだが、それはなぜだろう? など。それはつまり、素朴なものだと絞り込めないことを習性として知ってることと、冗漫さが癖になっちゃってることが理由なのだろうか。
何が絞り込めないのだろう?
私性か、作品性か。私が書いた、ということか。
トレーニングが不足していたり、過不足がわからなかったり、つまりメッセージの客観視とメタ視点のなかでこんがらがったまま、内輪化して、持ち味として評価されていってしまう。「しまう」って言い方が良いのかはおいといて、少ない言葉の素朴な詩だと、投稿サイト内では、それはもう出尽くした、トーキングドラムでいうところの、ごくありふれた抑揚の、誤解される単語のようなものでしかなく、そこにさらに自分独自の要素を付け足して、一意に特定されなければならない。

というか、時々感じるネットに浸ってそうな詩だとか、アカウントとしては一作目だけど、明らかに昔から書いてる人だよねって感じがなんとなく伝わるのも、冗長性とか、あるいはその逆の「端折り」みたいなものをなんとなく感じるからで、それは素朴さとは少し違う。

「端折り」というより、なんか一作目なのに、やけに「勝手知ったる」感じがする。電気ここですよね、ああわかりますハイ〜みたいな感じが言葉の端々から感じられる(という妄想)。

これは詩の「硬さ」とか、詩に対する思い入れが強かったり、自身が詩を書くなんて「畏れ多い」と感じてる人の詩でも同様。おずおずとしている。
ただ、それは今までみてきた「詩というもの」の崇高さに対する物怖じとか気後れの場合と、投稿する場(環境)に対する不慣れや勝手知らずなだけな場合とが内混ぜになってる。
この場合は、大抵詩に冗長性はなく、内輪でもない。外縁にいる人間として、冗長性によって自分だという情報を一意に感じさせる必要がなく、ただ詩を書いて投稿するという目的のみだから。
そういう、固い人の姿勢から砕けていくのと、最初からぐだぐだなのとでは、どっちが早道(?)なのだろうと思ったりもする。
ぐだぐだの人の頑なさもあれば、硬かった表情の人の柔軟さもある。
ついでに言えば、後者のほうが明らかに予後がいい気がする。
ぐだぐだの人の頑なさは、誰ももうほどきようがないし、手の施しようがない。レジ袋で包みすぎて足がめちゃくちゃでかくなってるホームレスの人とか見たときに、じゃあ私が助けるかといえば助けられない。なんでそういう事態になったのかもよくわからない。事情がよくわからない。
でもまあ最終自分の人生なので、良かったを目指すか、悪かったを目指すのも自由だし、人生そんなコントロール効くもんでもなし、なんなとやればいいとしか思えない。自分だってなんかやりたいし、ただ「こういうふうなのは嫌だ」ってのが多いだけで。

意外性というか、電気グルーヴの「虹」みたいな曲みたいな、冗長性の塊みたいな人が、時々ストレートな気持ちを綺麗にしたためようとし始めたら、なんかあったのかなと思ったり、ちゃんと書けんじゃんと思ったりする。
でもそれは内輪にいないとわからないことだし、どこまでいってもそれ(構造)は変わらない。ジャーナリズムとして機能する内輪があるか、つまり特定の世界(表現ジャンル?)に、相対的に大きな声をもつ内輪が存在するかどうかによって、ある媒体が権威主義的に見えたり、そのカウンターとしての運動が沸き起こったりするだけで。

冗長性に話を戻すと、結局内輪というのも、長いスパンでみれば、解体されてく運命にある。というか、人は死ぬし、気も変わるので、たとえ内輪自体は残っても、メンバーはどんどん入れ替わっていく。続いていることで、何か芯や共通点のようなものがあると思われがちになるだけで、実際そんなものはなかなか見出せない。ぼんやりとした傾向ぐらいは、思い浮かぶだろうけど。

その中で、残るもの。
冗長性は削ぎ落とされる。
というか削ぎ落とされたものしか残らない気がする。
逆に残らなくてもいいからこその冗長性とも言える。

投稿サイトにべったりな冗長な詩を、AIにかけても、思った通りの絵にはならないだろう。そんなことは初めからわかってる。そもそもが論理的思考の過程ではなく、時系列や個々人の癖や主観、思い込みを捩じ込んだ、ギリギリ伝わるかもというていで書いた、伝わらない文章なのだ。
何かに還元されたり、一意に特定されることを拒む(拒みたくて拒んでるわけではなく、結果的にそうなってることに気づきながら居直っている)ことで、他の情報との差別化を図っているのだ。
伝わらなければ伝わらないほどよく、冗長であれば冗長であるほどよい内輪の中で、その心境の振幅を観察し合う仲間と、その動きを喧伝・広報する媒体の影響力の多寡がものをいう。ただし、その影響力は、作品の良さと比例しているわけではない。特に詩はその傾向が強い気がする。

生きていることを肯定するのはつらい。有名どころはやっぱいい。そういうところに褒められたかった。走っていられるのは希望があるあいだだけ、陽の出てるあいだだけ。いや暗闇でも走ってるよって人はまだ気づいてないだけで、闇の深さとか霧の濃さとか、ずっとずっと、まだあったのか!って。私もまだまだもっと分からなくなってくのだろう。

意外性。なんか情報通信の人類史には、統計的にこの文字の次はこの文字が来やすいみたいなやつを「はずす」ことみたいに書かれてた気がする。
なんか「チンパンジーが殴り書きで偶然シェイクスピアの一節を書く確率」とかも書いてあった気がする。
「ウンウン、ですよね、こう来ますよね」っていうやつの「ウンウン、あー、そうきましたか。でも確かにそうですよね」バージョン。
これも誰かの受け売りというか、パクリみたいなものだが、
これは誰の文章だったか。宮前のんさんか誰かのような気もするし、違う気もする。思い出せない。それか、たみさんだったか。
要は意外性と納得感。お腹の片隅で思ってたけどいまだに一度も正確に言語化できていなかった概念や「感じ」。もし、お笑いと詩に共通点があるとすれば、こういう点だろう。
過去一度として誰も表現しておらず、かつドンピシャである。

じゃあドンピシャを狙うにはどうすればいいか。
レンジを狭くとるか広くとる。短くとるか長くとる。

自分に対して課す基準をゆるくするか厳しくする。
そのへんで趣味でずっと詩を書き続けようと思うとゆるくしていかないとなかなか続かない。というか、その時点で一旦やめたほうがいいのかもしれない。お尻の穴が出し過ぎでヒリヒリしてる状態である。鼻かみすぎで真っ赤になってる状態である。

超長期的な視点に立てば、未来永劫世界中の誰かにドンピシャであればOKっていう基準にすれば、何を書いてもいいのである。
ニーチェの永遠回帰?の概念とか、スーパーカミオカンデとかも、なんかそういう自分の基準をめちゃくちゃゆるめてなんでもOKにするために利用すべきである。要はニュートリノを観測するためにずっと構えている神岡の真空管の神殿みたいなところのように、いつか現れるドンピシャの存在を待ち続けているていで書くことである。
さすれば、なんでも詩である。

ただ、これはもうゆるゆる中のゆるゆるである。であるから、硬いところから来た人の、高いハードルを抱えてやってきた人には、こうなってほしくはないとは思う。島崎藤村からきました室生犀星朔太郎北原白秋ですぅ染め上げし〜です〜ハイ〜みたいな人は、そういうところで詩作したほうが絶対いいような気がする。

要は「時間軸をめちゃくちゃ長くとれば読者がゼロでドンピシャの人間がひとりも存在しない言葉など存在しない」のである。これはさっき書いたチンパンジーシェイクスピアの概念を逆手に取った希望の「型」である。それはある意味めっちゃ敗北であり、絶望でもあります。

実際問題、私たちが書く言葉は直近のそのへんの人(そのへん、の概念はSNSか自身が所属する団体や、発行される媒体に左右される)であり、そのへんの人たちはすぐ忘れるしすぐ死ぬし自分の詩もそんなにすごい耐久性(普遍性+時代性+作品性)があるわけじゃなし、すごい超有名アンソロジーに引かれ続けて生き残る確率もゼロでーす。だから、ほぼチンパンジーシェイクスピアの確率とほぼ同率で、私の詩は、いつかの誰かのドンピシャにはなり得ない。
発したほぼ直後に減衰し始めて、摩滅する運命である。
しかし、「逆に、そこを大事にするねんか」という発想が「負け」みたいに感じられる。つまり、これは、詩によって人と関わるということ。
合評とか、朗読会とか。自治体名+詩人会に所属するとか。
交流のために書くというやつである。
これはこれのよさもあり、これのさみしさもある。
生まれてきてくれてありがとう〜😊まあるいいのち〜😊みたいな雰囲気がある。

地道な活動による地道なエンゲージメント率向上。それは一番嫌なやり方である。最初からシーモンキー観察セットみたいに作品を書いて水を入れれば読者がわらわらわいてくるようなセット商品を思潮社は販売すべきである。ルュクスポエティカマグナムか、なんかよくわからない叢書シリーズ作ってる場合ではない。

で、自分の中を探る系の才能の持ち主も、もう別に言葉だけでなんとかする人の割合がすごく減ってる気がするー
AruFa? アフラ? なんかショート動画でいろんなアイデアを披露してる人とか、ぼく脳とか、SNSで時々見かける赤と青のコーラ缶のアイコンの人とか、バーバパパとか、なんかドラえもんのパクリみたいなやつで現代美術ディスり漫画みたいなやつ書いてる感じの人とか、鉛筆書きみたいな狂った漫画描いてる人とか、小林銅蟲もある意味そこに近い気がする、で、ある意味、そこに一番近いのは岩倉文也とかである。AIで画像生成してバズってる人とかも、別にのべつまくなしに投稿してるわけじゃなくて、意外性というか、ズレの出るプロンプトを思いつくところに才能があるわけで。みんな面白いとか、笑ってしまうという方向に向けて、意外性や納得感を発揮している。
あの、わけわからんこと(でもまだ誰もやってない、身近な、みんな見逃してる材料で叶うやつ)に命かけてる人たちが、ほぼ詩の領域は掘り尽くされてる感がある。意外性以外の領域も、音楽、漫画、アニメ、さまざまな媒体で、しっかり伝わる抒情性とか、繊細な機微や表現の難しいものの言語化なども非常に高いレベルで達成されている現在、わたしたちが書く詩が牙城というか根城にするのはもう自分しかない。
自分発だから、という根拠以外に、もういける要素がない。でも、それは容易に「おめでと〜😊まあるいいのち〜」的な祝福ムードに包まれて帰り道くそさみしい。人生もむなしいし、なんか適応したらそこそこ楽しめるし感謝感謝の気持ちを忘れないようにしよう!!!!(誓)とか思うのかもだけど、それって洗脳とどう違うのかが私にはよく分からない。

まあ、そうなってくると、詩と日記の違い、メモと詩の違いなど、さまざまな「私」が出ているテキスト群の「扱い」によって、作品性をどうやって立ち上げるのかが問題となってくる。
その際に、自身の属性や事件・トピックを立てずに作り上げるか、構造や趣向によって際立たせないか、いずれも行わない(つまり、属性や事件性の希少さに頼ったり、作品の構造や趣向に頼ってしまう)か。

できることならば、願わくは、まったくそのようなものを立てずに、人が、あるいは人の作品が十全に認められるような状況が小刻みにあって、誰もが少しずつ分け合うようにアイデンティファイできるような世界になっていってほしいなー、とは思う。
大学教授以外でも、製造工場のパートタイマーでもサバティカル取れるような世界観。その代わり、大学教授が工場で働いてもらう。いや、それはなしで。なんか怖い。怖い感じがする。単純に逆にするのは怖い。

でも自分に入ってしまっている感覚は、それも少し拒否している。その拒否反応みたいなものがある意味つらい。それは自分を生きにくくもしているし、ある種無駄なことをせずに済んでもいる。簡単にいえば、身の程を知っていて、いや、知っていないけれど、表面的には、社会的には抑制されているかのようにみえる。でも、本来、私はそうしたいわけではない。むしろ、早めにそっちをやっておけばよかったと思っているほうだ。

Youtubeのニュースに「こうならずに済んだ親に感謝します」みたいなコメント書く時間を過ごしてる人が充実してるわけがないと毎回思う。
なんか躾はうまくいったけど人生はうまくいってないからこういうコメント書くのだと思ってしまう。
今の私はその感じに極めて近いけど、「親に感謝します」とかわざわざコメント書くまでいってしまってはいけない、と思っている人間だけど、書かないだけで別に人生うまくいってるわけじゃない。
かといって書いてしまうほど人生充実してなくはない。
そういう「だからなんやねん」みたいなことを書くんであれば、そういう有象無象のところに書くんじゃなくて、詩というていにして、書き散らしたり、書き殴ったりしたい。動画やニュースという話題やトピックに対するぶら下がりはしたくない。
かといって、そういう、今起こってるSNSやニュースでちょっとバズってるだけのことを、まったく書かずに、ずっと、命とか水とか永遠とか風とか光とか言ってるのも、明らかに不自然だとは思う。
半年も経てば(早ければ数日で)忘れてしまう存在を入れ込んで敢えて詩を腐りやすくする(マフィン…)意味は特にない。意味があるとすれば、道具立てとして、同時代性を際立たせるとか、自分が今思ったということを強調するため、つまり内輪感を強め、すぐ失速することをあらかじめ想定して書くこと、また、今後書かれた言葉が風化しても、同時代を生きた人間には思い出される可能性を想定する場合など…が考えられる。
今なら私人逮捕とかコロアキとかだけど、書いてる今もう早くも風化してる。マフィンはちょっと長持ちしてるが、これもそろそろだろう。そういうのを詩に入れても、数年後には「ハァ?」となる。
発行が半年後になる本に、直近のネタを入れると、自分でも何を書いていたのか、意味が分からなくなってしまう。

じゃあ、だからといって、光と風と緑と、嘘ばっかりでいいのだろうか。小野十三郎とかがなんか工場っすわーとか言ってたのに(知らんけど)、なんでまた光と風と花なのか?
いや、嘘じゃないのかもしれないけれども、なんかそれはそれで、読者がチューニングというか、タイムスリップというか、ちょっと概念操作がいる気がする。
精神科医(今もそうなのか?)の斎藤環氏は、オタクの特徴は「フェティシズム」と「二重見当識」だと言ってた気がする。二重見当識というのは、なんかガンダムの歴史と現実の歴史と二重に時間軸を持ってるみたいなことだった気がする。
それと似たようなことを、作品によってやらなきゃいけない。それはめんどいことです。
本読みの人には簡単なことかもしれないが、ふだん読まない人には結構しんどいし、最初から超つくりもの感がするか、あるいは超古めかしい本か何かから引っ張ってきたような、ある種の硬さ(いい意味でいえばオーセンティックな雰囲気)を感じてしまう。
でも、投稿サイトのレイアウトで表示されるそれは、もう何度もみてきた、ある種のインターネットに不慣れな「型」にしかみえない可能性がある。(といって、無論、すぐに順応したり、用語を取り込んだりするだけでいいわけではない。それがうまく機能しなければ、やっぱりそれはうわついた言葉の群れでしかない。私が言いたいのは、ネットに飛び込め、アニメの言葉を入れ込め、利用せよ、という話ではない)

周りの今、ではなく、自分の今、をうまく捕まえたい。
ついでに、他者にも通じるような感じにしたい。そのままっぽくしたい。立派にしたい。はじめからあったっぽくしたい。イメージを塑像から彫り出したようにしたい。隙がないようにしたい。
いろいろあると思うのだが、オール邪念である。
でもそういうオール邪念を過ぎ去ったあとでも、言葉は常にロンダリングされたように存在している。言葉には何も染み込まない。
自分があれだけ思い入れたものも、漬け込んだ時間も意に介さず、ちっともしゅんでない。
最悪の具材である。この最悪の具材で、どうやって相手の心の中にダシのしゅんだほろっほろの大根とか卵とか入ってるおでんを作ることができるのだろうか。
やはり、できるだけ、届ける相手を想定して、地産地消でやっていくのが無難かもしれない。小難しい哲学用語を散りばめたり、映画監督や小説家の名前を散りばめたりしてる詩も、結局のところ、津々浦々に飛び去ったそれらの作品を読んだ人間たちに対する感傷と暗号の地産地消に過ぎない。
言葉によって、しゅんだおでんの感傷と暗号通信によって、ひととき一人じゃないと思えるときがある。
それはできるだけ、もうとうに死んだ昔の人が、本に書いた言葉であって欲しかったりする。それだけ連綿と残されてきた言葉が今の私に通じる。
今の誰かが書いた言葉が私に通じてもしゃあない。
だから、その経路や手段・方法には、なるべく意外性を求めたい。
サプライズを求めたい。
君もか、みたいな、映画名や小説家や俳優の直喩によって、彼の生き様を引いて、「君もか」みたいなやつ、私にはできない。
あれはあれで体力がいるというか、かなり早期にその方向に舵を切り、かつバイタリティが相応にある人間に限られている気がする。ああいう人らに対しては、毎回「サッカーしときはったらよかったのに…」と思う。たぶんなんだかんだで運動しといたほうがよかったのだと思う。そのバイタリティを文化の方向に舵を切られても、体がある程度長持ちするから相対的に残りやすいけど、いやでもサッカーしときはったらよかったのに、と思ってしまう。人の人生にヤイヤいいたないけど。
私にできることは限られているし、思いつくことも限られてる。なんといっても私は意外性にたどり着くまでの試行がめんどくさい。手っ取り早く注目浴びて承認欲求を満たしたいという気持ち。すぐスマホをふちふちいじってしまうし、すぐYoutubeみてしまう。
私は頑張らないし頑張れない。思いつけない。活動も行動もしなければ思考もしない。やばい。

なんの話かよくわからなくなってしまったが、まあ、詩の冗長性はネット上で私の符号であり、コードとしてトレンドを取り入れたりすればいいわけじゃないけど、適度に今を取り入れないと、繰り返されてきたオーセンティックな型に埋没してしまうこと。
じゃあどうすればいいのかという答えはない。文フリ出たりネットや雑誌に投稿したり人と会ったりDiscordでなんか入ってみたりとかして、最終的には、本とか漫画とかアニメとか映画とか見て旅行して寝て起きて会社行って会社辞めてなんか死んでいくのがいいんじゃないでしょうか。
自分が結局のところ何がしたいのか、まあ見失ってもいいけど、ねえ、なんか、あったほうがいいような気もするけど、気がするだけやし、急になんかなるときもあるし、ねえ、まああんまむずかし考えんと、あったこうしてねえや

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