メモ(ネットの話など)

定期的に考えを書いとかないと、ボケてしまいそうで不安になる。
今朝シャワーを浴びる前、なにかを考えていて
ギュッとしたら「遠隔運命変え者への憧憬」という、スマホのメモになっていた。

これをもう一度紐解いていくと、「遠隔」というのはネットのことを指しているのだが、別に本でもいい。でも、「運命変え」の箇所に至って、本とネットの違いは明確になるように思われ。
今を生きてる同年代が書いているとおぼしき文字情報の羅列が逐次増殖していく想像上の読者共同体のなかにあっては、その生き方の決定法が混線し、シャッフルされやすくなるように思い。それでいて、それゆえ固定化されやすいとも。
初期のネットにおけるシャッフルが呪術廻戦における東堂の両手での位置替えだとすると、今日日のネット、つまりSNSのタイムラインやアルゴリズム(サジェスト、リコメンド)におけるシャッフルの速さは、今日の東堂の位置替えに相当するように思う。
ここまで混線が常態化し、高速化すると、逆に何も変わらないことのほうが当たり前になる。それは虎杖のように、あれだけの位置替えが行われていても、寸分違わず0.00(桁数は忘れた)1秒のインパクトで呪力を当てれる集中力と不撓の精神の持ち主か、あるいはまったくその真逆の存在であるか。
ふと、これは、「夢を見にくい」と言ってもいいのかもしれない。
虎杖的にいえば、彼は自身の情報について、いまだ断片的な「夢」でしか見ることが出来ていない。彼が主人公ムーブをかますのはつねにほんの一瞬である。であれば、漫画の主人公でもないわれわれのような凡夫ともなると、夢などマジでどうでもいい話でしかない。だからわれわれ凡夫の夢は出来ではなくとりあえず自己実現や将来に向かう。ネット上には、自己実現や将来のための失敗事例は満ち溢れてる。先例の蓄積、いや蓄積を参照しなくとも、炎上事例には事欠かない。Youtubeの乏しい再生回数とサムネのようすをみてみてもいい。これは今まさに何かを始めている人であり、何かをけなげに続けている人だ。かけがえがない。でも、自分はそうしない。
じゃあ自分はどうするのか。インターネットにある自分が全部ではない。それはそう思う。飼っているペットの映像でマネタイズできればそれはそれでラッキーだが、本意ではない。炎上以前に、存在として突出することもないだろう。自分の投稿履歴を思い返すと黒歴史にしか思えない。いっそのこと消すか?とも思うが、衝動を無視してやりすごす。黒歴史の概念は一般化したか?、それとももう死語なのだろうか?
することとしないことのノウハウは常に溢れている。インプレゾンビはやる人たちだ。インプレゾンビの数人が蘇り、自身のリアルタイムエスノグラフィでインプレッションを稼ぎ始めるが、それもいずれ飽和するだろう。
自身の出自(有象無象のインプレゾンビ)から、実際に自分が生きている、身近な生活の活写がそれだけで興味をもたれ、逆説的に夢が叶ってしまうが、それにも運とタイミングと制限がある。

これ(上記のようなインターネットの諸相と、それへの対処法)は年代が下るにつれ、その環境に揺籃・馴致された者にとっては当然の世界となっていくわけで、そうみえるのはあくまで「私たちにとって」であることを忘れてはならない。
といっても、彼らの速さに関連するのは、インターフェースの操作方法や普及度であって、彼らが毎度の人生で覚えなければならないことがらはまた別である。積層される新規のことがらとは別に、捨て去られる旧弊なことがらもある。そのなかに、毎回やらなきゃいけない、いわゆる普遍的といわれるようなことがらが残る。このことがらへの対処法や乗り越え方は、人間との間に挟まる補助具の洗練と選択肢の増殖によって多様化し、それら選択肢たちの時代区分は、使い手にとっては、明瞭な仕切りをもたない。
偶然に、非常にレトロな送受信方法にたどりつき、その持ち味に感じいり、こだわりを持ち出したりすることも多々ある。
ローファイな音楽、チップチューン、ドットのキャラにレイトレーシングを使うような表現…。一眼レフ、中判カメラ…。わからん。そのような組み合わせ、手に取る感じ、そのような偶然もシャッフルの回数の増加も比例するだろう。そこで没頭して運命まで変えてしまう人間も増えはするのであろうが、諦めたり没したりする人間の量も比例して増えるだけで、それらの運命の変数は、多すぎてひとくちに言えるものじゃない。ただ、日本列島の総人口というのか、日本語話者の総人口というのか、私がぼんやりと抱いている「この国の人」は減り続けているそうなので、その意味において、分母は減り続けることになるのかもしれない。ただ、そこでものをいうのは出自であって、もしくは出自という隔壁を乗り越える偶然性やバイタリティである。この隔壁を乗り越える偶然性の一種が、かつてのインターネットであったと私は今更ながら思うのだ。
かつてのインターネットで名を伏せていたものが顔も名も出し記名記事を書いていたりすると、ああ、そういう出自だったのか、という白けのような感情もあった。そして潮が引くと、私には不相応のような、詩に対する執着だけが残された。私は人間関係がまずく、生活の引き潮に乗れず、砂浜に残された遺物のようになってしまった。それでいて私は今はこの生活を後悔していない。それは少し不思議。でもこれから後悔し始めるのかもしれず、それはわからない。

WEB1.0時代のサイトを時間をかけて読み耽っていた時代より、私のネットによる情報取得はヒット&アウェイ化してしまった。上位にあるサイトの広告の量や、HTML構造の不埒さに辟易としながら掻き分け、少しの必要情報を得れば、すぐに閉じてしまう。
WEB1.0の、アップロード者が背景色や文字色を操作した、素朴で静謐なHTMLの構造には、何かしらの個人の癖が見られた。装丁のようなものだった。個人の計画性や突貫っぷり、また飽きっぷりが見てとれた。
追記、むしろこの頃の方が、ビルダーで作った無茶なHTMLが多かったのかもとも思い出しはじめた。
画像も、互いの情報通信環境(回線の細さ)を考えると、おいそれと使ってよいものでもなかった。そんななかでも、ガリガリの二色のGIFでもセンスは感じ取れた。まるで本の裏表紙の真ん中にある出版社のマークみたいな、そんなことがしたいんだろうなというふうだった。画質云々ではなく、そういうのは意図として、なんとなくわかった。そして、今思えば、漠然とそういうものに憧れていた気がする。そういうものが自然と出てくる生き方に憧れていたのか。

書いていて、つまり今の私は構造的に自分を変えられない場所にいるのだと感じている。ボケそうになる、というのも、そういうことなのだと思う。
まるで
私の「すべてを手放して再生したい」という気持ちを汲んで、
読み始めた「ナンセンス詩人の肖像」には
再生の活力を汲むためにナンセンスな言葉は昔の祭儀のように、カオスを呼び込むのだと書かれていた。



(元は5月初旬に書いたきがする。そして5月27、28と断続的に書き足したりした)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?