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あさ。昨日は木漏れ日の下で精神分析の歩き方を読んでいた。「世界へ! an agitation」冒頭の楡の木に背をもたせて詩集読むティーン↑みたいな気持ちで読んでました。ありがとうございます。
なんか木漏れ日で本読んでると北斗の拳のエンディング思い出すんだよな。愛より今日より愛がほし〜ぃ、すべてがぁ〜みたいな、なんかクリキンの声が脳内再生されるんよな。
これですね。どこやねんみたいな風景が延々続くのですが、これは記憶ですね。逆に言えば、どこにもいないということになる。まあいたんですけど。
ついでにOPも見てみたらすごいいいですね。なんか動画のFPSみたいなのがところどころ効果的に細かいところがあって、記憶に残りやすいというか、難民が砂埃とともに歩いているシーンに「おーれとの」を持ってきてなおかつパンするスピードもかなり速いし、リンの涙の雫が光るところは背景黒くなるし、なんかすごいきめ細やかにできていて、音楽に合わせながら過不足なく世界観とストーリーを伝えている。本編に出てこない大きくてでかいやつはアウトロのためだけにでてきてるようなもんだが、イントロもどこかのスタジオでケンシロウがスキャンみたいな光を浴びてるシーンがあり、イントロとアウトロは世界観より雰囲気重視、つまり音だけのところはイメージ重視ということになってるのかなと思う。
声(歌詞)のあるところはそっち重視。
あと煙の色ですが、モヒカン族のバイクの起こす砂煙と、難民の砂煙は表現がまったく違う。
あとは雷の色が青と黄色が使われていて、ケンシロウのオーラはオレンジ(赤?)、シンのオーラは紫と、透過光の色も使い分けがなされている。赤はまぁ、今だと絶対放送できないだろうなというシーンに使われていますね。というか当時もよくこれよく放送できてましたね。わたしはたぶん再放送で見てる世代ですが。
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ネット初期の、原理主義的な人のことをモヒカン族とか言ってましたね。融通が効かないというか。要はネットやるときのひとつのモード、作法として、そういう型があったということ。
で、これも検索のノイズになる、とかいう言い方があったように、綺麗に議論を積み上げて遺していきたいっていう理念みたいなものがあって、そこに世俗の上下、あるいは情緒を持ち込むと、ノイズになっちゃったり話が横道にそれたりして、後世が読む時に困るだろう、という、めちゃ長いスパンに対する配慮があってのことであったのであろうであろう(あれ、なんか文章おかしい? まあずっとおかしいからいいか…)
というわけで配慮するスパンによって場に求める態度というのはバイアスがかかるというわけで、今は色々ともう守れないその笑顔、というか、モヒカン族が守ろうとしていた綺麗で整然と殺伐としたインターネットはもうどこにもない。
だからみんなこの汚くてごちゃついて和気藹々と揉めまくるインターネットで、非常に短いスパンだけを見通しながらネットでは過ごすしかないことになってしまった。
それがわりぃかいいことかは措くとして、自分は、その当時のBBSの後ろでこっそり養分吸ってたような人間だったなぁ…と。
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ネット上で人は平等、情報になる、あるいは情報の積み上げに寄与する存在に成り代わるという考え方。いや無理だろう、という考え方。止揚する、撚り上げる、発展する、という考え方。蓄積する非同期の言語情報のやりとりによって、人類の財産が増えていくという考え方。
統計学。十人並みとか一山いくらといった世俗的な測り方、秤量、表現。世俗的統計学、体感的統計学。パチンコ的統計学(体感的確率)。
ヒミズの第一話「大海の一滴」
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