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あさ。189→192。キッチンの囲い方について閃いたので、冷蔵庫周りだけを囲って、他をエレン(仮)に解放した。といってもエレン(仮)的には特に何もない場所である。時々冷蔵庫に近づこうとして腰骨を落として三角のチョコデニッシュみたいになりながらじりじり歩いている。それか黒糖の三角に切った蒸しパンみたいなやつ。とにかくやわらかい三角のなにかになっている。そのまま状態を解かずにしばらくそのへんをほっつき歩くのが不良というかヤンキーみたいで おもしろい。ボンタン履いたヤンキーっぽい感じがある。気づけば尻筋もでかくなってる。保険証の時の写真と見比べてみると明らかに幼さが抜けている。

ちょっと前まで朝にもさもさしてると「病気か?」と思ってたが、今はもう朝の起き抜けは基本ぼっさ〜ぬっす〜としているのがふつうなのだと悟った。

以下はインターネットやインターネット上の詩についてのメモ

最近はまた「勤労青年」の教養文化史を読んでいる。
統計学的な平均人と、何か契機が揃って人が集まる場合の群像というのはどう違うのかみたいなことを考えながら読んでるような気もする。
若者組→青年団→青年学級という流れから、金の卵的な移動が起こり、そこでおそらくこの次に読む人生雑誌的なものや新宗教的なものへの流れも起こり、、、みたいに勝手に思ってるだけだが、そこからインターネット、そしてインターネットの詩、というふうに繋げていく道筋というか、流れのようなものをずっと考えつつ、
「また、人生雑誌はあくまで雑誌メディアであったがゆえに、定時制や青年団のように人々が実際に集う場を必要としなかったわけだが(p8)」といった文章の「雑誌メディア」を「インターネット」に置き換えたとき、「人が実際に集う場を必要としない」ということはいったいどういうこと(になる)のか?など。
つまりふつうに歴史はくりかえしていて、個人的な妄想だと、ある契機で人が揃ってその端境期にさしかかり、そこから新しいメディアや集団を得て、利活用の方法を検討するとき、集団組織の過去からの参照、あるいは個人のもつ自己実現目標的なものから引っ張ってくる。
インターネットの詩の場合は文芸活動というか文学運動というか、なんかそのあたりのくすぶりというか、個々人が内面にもつ期限、うちなる奨励会的なものによって社会人としていったんは世に出たわけだが、これがインターネットという集う場を必要としない個人メディアの出現、またCGIによる掲示板といったシステムによって利活用方法の模索の中で、かつての雑誌投稿的なかたちで詩が投稿されるようになり、、、
みたいな、なんとなくそういう流れのようなものをぼんやりと考えている。
だが、ここで問題となるのはパソコン通信というものをどう位置付けるか。
ここでもう既に先に書いたようなことは一度は達成されているはずである。
それらとインターネットとの違いはなにか、また、そのパソコン通信とインターネットを両方行いながら過ごしてきた人間にとってのインターネットとは、いったいどういうものだったのか。
趣味の人間から、それ以外、つまり目的志向ではなく、ただなんとなく接続して、そこから詩にたどりつく人間の増加?それだけだろうか?
また、「集う場を必要としない場」をつくった人たちの人生史、それらがインターネットによってどう変わり、またどう変えられたのか。
業余の時間をどのように充てることになったのか。
現在、投稿サイトという文化?そのものは(かつてにくらべて)衰退したかのようにみえるが、それはSNS普及によるものか、あるいは個人の出版機会の増加によるものか。

つまり、技術的制約や経済的にこなれていなかった自費出版的なものによって、文字情報だけのインターネットがもっとも手段として適切で妥当だったと思われる時期と、そこからSNS(SS名刺メーカー的なものを使用した発表媒体として、また文学フリマ等の告知として、またつながりとして)、文学フリマ、あるいはコンビニでの印刷、ePUB、ZINE、フリマサイトなど、そういったものへの分散?化、業余をまた電子的なものに還元するしかなかった時代から、さらに再フィジカル化というか、もう一度本来やりたかった方向へと、技術による枷がとかれ、そちらに人が流れていくことを、自分がすこし寂しくみているようなことについて。これはなぜか。
これはコミュニケーション能力によるものだろうか。
つまり、もしかして道を誤ったのではないか、という発想。
もう少し待てば、といった考え方など。
新しいものに飛び込むということ。

場づくりも、SNSという個人を軸にした基点のようなもの、そこにまた場のようで場でない場所が始まっている。そこと差別化する意味での物理的な空間の策定。それによるマネタイズあるいはマネタイズしない方向性。

ネットからの出版が一大事のようであり、かつ思い出作りのようであった頃。反旗のようであった頃。記念的にしか動けなかったころ。

当たり前になったあとでも、そこから片足を引き抜いて、リフレーミングしtて再度足を突っ込むということができなくなっているということについて。
つまり一旦生活にもどり、またそこからSNSに入り直し、そこでの作法を身につけてハイブリッドにインターネットを暮らすということが「できない」ことについて。

しごと




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