0627

あさ。精神分析の歩き方を読んでる。精神分析的心理療法と精神分析と力動的心理療法というのが出てきて、もうすでに飽和しかかっているのだが、すごい乱暴に分類すると、わたしたちがいつも受けているやつは「精神分析的心理療法」か「力動的心理療法」か、あるいは、単にカウンセリングか世間話、といってもいいものかもしれない。
精神分析ガチ勢はたぶんアメリカの映画でめちゃくちゃ仕事のできるビジネスマンが実は受けてるやつみたいなイメージのやつかなーと思う。
寝椅子で目をとじて枕元でお医者さんが自由連想で…あとめっちゃ厳しくて…みたいなイメージ。
というかそもそもがフロイトの顧客層のヒステリーの人のやつというイメージもあるから、これを日本にもってくるときに週一にしたから「精神分析的」になっちゃったのは致し方ないが、この「的」に違うニュアンスも入ってきて、「精神分析的とは何か?」みたいな感じになってくるのが「現代詩とは何か?」みたいな混乱っぷりで面白いなぁというのが読んでての感想。
あとアムステルダムショックという、「日本の精神分析、実は週一でっせ」と誰かが世界精神分析学会に密告するという事件があったらしく、これを詩に置き換えると、日本の(口語自由)詩、実は韻律むちゃくちゃでっせ、と世界のポエトリーリーディング大会で密告されて「ああ、なんかそんな気はしてた」みたいな感じになるような感じだろうか、と。
そして、そのとき世界大会が行われている場所の地名がついて、「どこどこショック」となる。

わたしからみて、スポークンワーズとポエトリーリーディングとスラムとオープンマイクとラップとサイファーとフリースタイルと朗読はどこでどう区切るか、みたいな感じは、よくわからない。ラップでも総金歯の人がやってるやつと、なんかドタマとかパンピーみたいな人がやってるやつがあって、同じやつなのか?とか。なんの文脈をどこまで踏まえるのかとか。

ポエトリースラムというのもあるな。うーむ。これはこれで肝っ玉母ちゃんみたいな人が強いみたいになってきて、おそらく初期の数回が真打で、あとはなんか形骸化していくような気もしなくもない。この初期が理念的にも、枠組みに対する決壊も起こり、真打で、あとは決壊後の場に人間力が浸透し駆逐していくような状況というのはどこにでも起こりうる話で、ここに政治が入ってきて、政治になってからが勝負なのかもしれない。

村田活彦さんによるポエトリーリーディングの見聞録。
ここに確か「best poet …(最高の詩人は存在しない)」?的な意味の文言が出てきてた気がして、ザッと読み返していたのだが、ちょっと見つからない。

話がそれた。
一応領収書に書いているものはなんたら療法と書いている気がするが、これも何分以下かで区切ってあって、やはり時間と頻度の問題は出てくるがこれは行政の医療費の保険適用側からの区分であり、サービスや治療を受けるわたしたち側からすればそのへんの区分は、安ければ安いほどいいし、効けば効くほどいいということになる。
高いから効く、多いから効く、長いから効くっていう人もいるだろうし、それを否定するわけじゃないが、それは資本と業余のある人のものになる。

熱意、生存率、ブルーオーシャン、人口

なんとなく書いてみたが、海外の概念を習得し伝播しようとする熱意、それに耐えうる体力と資金力(これらを簡単にいうと「場所」とか「位置関係」ということになるが)にいた人、そこからなんらかの理由でこぼれた人。
生存率のふるいにかけられる。
そして新しく始めること。ここに膾炙するためのじゅうぶんな人口がある。かなりニッチな部分にも潤沢な資金と人が投入される。
ここを「熱意」というか、志そのもののことを熱意といってるか、みたいな問題はずっとあるような気がしていて、これは裏返すと若者に覇気がないみたいな話や少子化の問題ともつながってくる。熱を伝えるパイ、膾炙するための人口やニッチな部分にあった潤沢な資金や人や無駄がとれなくなる。
ただ、生存率は上がり、ひとつのことに根詰めなくてもよくなる。
以前熱意と呼ばれていたものは暗数や暗渠を前提としていた。
古代ギリシャかローマの奴隷制の上に民主主義が成り立っていたのと同じようなことが、戦後の日本の社会や文化にも散りばめられていたといえる。
現代ではこの不可視化されてきた部分が使えるのかと思ったらあんがいどうしようもなかったという側面や、「熱意」そのものを下支えしてきた構造を暴いて相対化してさらに適度に無視する姿勢をとる、歴史としての取捨選択の姿勢を、かなり近い世代の人間にも、まだ生きている人間にも取り始めた。熱意ではなく生存率であり、熱意ではなくブルーオーシャンであり、熱意ではなく単に人口であった。
おそらく、直接的に連綿とした関係をもたない分野にたいしてはこう言える。そして、わたしたちはひとつのことをしなくてもよくなったことによって、こう言えなくなる可能性をもつことができる。
簡単にいえば、やることによって、バカにできなくなり、より直接的に先人の達成や熱意に打ちひしがれることができる。
これらを掛け持ちすることで、都度プライドやアイデンティティを向うに避けておくことで、こうもりのように温存し、生きないか、あるいは常にそれと帯同し、傷つきながらどちらも持つことができるか。
ここの動かし方によっての格差、というものも存在してくる。
そしてわたしは、この、暫定的に「誠実さ」とでも呼び習わしているこれを常に置いて移動してきた。その意味においてわたしは貧しい。
しかし、そのわたしの貧しさというものの表現を受け入れる、つまり膾炙する人口もすでにあるとも思えるのだ。
ダメさをダメなまま、それはもう詩や表現のていをなさないものであっても、それをいちいち屈折した地点まで読み込みあって理解しあうという作法によって、味わうという、難消化性の、生煮えの何かとして噛む文化、その余剰をすでに育んでいるとおもえるのだ。

それらはZINEなのか、人生雑誌なのか、個人誌なのか、ポエトリースラムなのか、ネット詩なのか、NPO法人なのか、結婚なのか、パートナーなのか、なんなのかはわからない。ただ、わたしがわずかなバイタリティによって渉猟できた範囲内で、わたしが決めるしかない。ただ、今、もうひとつしか選べないという時代ではない。いくつ選んだっていい。わたしの熱意をどこにどう振り向けるか。それによってどのような関係が始まるのか。

(こう思わないと、わたしはこの先の暗闇(暗渠)に飛ぶことができないし、暗数になる覚悟を決められない)

話がそれた。

じゃあわたしが月一で受けている、10分くらいのしゃべってるやつはなんなんですか?みたいな問いが出てくる。一応処方がついてくる以上、なんか医療というか治療なんだろうが、何をみて、何を判断して、これらが出されているのかといえば、ほぼほぼわたしの一ヶ月の主観精神史をざっくりまとめた「感じ」であり、それを話す瞬間の感情によってもさらにクセがついていて、そこから先生がこのクセを透徹し、さらにわたしの一ヶ月の精神状態の起伏を読み解きさらに処方に介入するなんてことはまず不可能だなんてことはわたしにもわかる。なので、世間話なのである。
こちら的にもなんか「ややこしい人」ではなく、かといって従順な人でもないように、三年峠で二回転んだ人みたいな、中途半端で雑駁で半可通でスノッブな、とはいえ、みんな何かに対していききるなんてことができるだろうか。暫定的な役目、お給金をもらっている職業がある、というところで枠を仮定することで、「決壊」せず、中途半端にならず生きることができている。

単純に、わたしにはもう喋る場所が、クリニックと、散髪屋(いわゆる床屋談義)と、職場しかないのである。
これを最近増やそうという計画が持ち上がっているが、これは非常に坂本慎太郎の「君はそう決めた」みたいな世界観で、「ひとりで」「突然に」みたいなところがあるが、わたしはいつの間にこんなディティールの削ぎ落とされた「みんなのうた」みたいな人生を、極めて忠実に送るようになってしまったのだろう…

やっと気づいて、遅きに失しているかもしれないが、異物を取り込もうとしているのだ。
だが、やはりそうさせる「世間」のなんとなくの追い込みのようなもの、おどしのようなものについても、しっかりと罰を与えてほしい、という感情も奥のほうに残っている。
これは多分、学校とか教育、あるいは親に対するもの。
とりあえず、ここでは措いて、先に進める。

喋る場所、喋る内容、いくつかの場所。分人的なものの、シンプルな区分。

ここに精神分析や精神分析的、という言葉の論争は届いてこない。口語自由詩や現代詩の始まりや定義について、同じようなものを感じるぐらいで、まあ自分の人生をさしあたりできるだけ楽に乗り切りたいのと、実是(実事求是)したいのは切り分けて考えてる。

たぶん、歴史、詩、精神分析、なんかこのへんのぐるぐるして、いつから始まったのかとかその定義とはなにかみたいなやつはおそらくまとまらない。
こういうことがあって、こういう経緯で今こういう考えや分かれ方になっている、ぐらいまでがせいぜい。

そもそもやはりわたし自身に置き換えたとき、とりあえず今効くやつが野良(あるいは在野)のものであるか、それとも「プロ」達が策定した枠内のある理論や治療法であるかどうかはわからないのだ。

現代詩のアンソロジーで「これはプロが選んだいい詩」ですよ、といかに言われても、まあこの選んでる人じたいがもともと現代詩手帖の編集やってた人だったりとかあるいは1960年代に「うおー凶区まじすげー」みたいになってた人だったら、まあ鈴木志郎康さんが「ふつうの詩」を書き出したら「これは事件だ!」ってなるし、あとは谷川俊太郎が「わたしは詩人ではない」みたいなことを詩に書いたら「これは事件だ!」みたいになって、すぐに「今、詩に何ができるか」とかってシンポジウム組みまくるんだろうけど、これはすごく小さい内輪の話で、そういうのとまったく関係なく、まあずっと日本中、世界中ずっと常に詩は書かれていて、今生きている自分にとって一番「効く」、あるいは「しゅむ」詩がどれなのか?ということは分からないのである。
それは、荒川洋治が言ったような「言論の舵は渡さない」と言ったようなものに人は助けられるかもしれないし、それこそすぐ消されたり、投げやりになったりするような、つまり短期間にスクリーンを明滅するような、責任感のない「繰り返される不安定な詩作(阿部かしょう)」によってかもしれないし、「境界がつくれない場所(瀬尾)」によってかもしれない。
というか、逆に、彼らのいる「足場」のようなものの小ささ、とるにたらなさのほうを、わたしたちは尊重してあげなければならない。
貴重な生き物を保護でもするかのように、尊重して、話に耳を傾けてあげなければならない。そして耳に留め、決していうことまでそのまま聞いてはいけない。わたしたちの人生は短い。
つまり内面化して、足を止めるようなことはあってはならない。
もし足を止めるようなことがあったとして、それは耳に留めておいた彼らの言葉そのものではなく、彼らの言葉を思い出した自らの判断においてなされた、と考えること。まちがっても、彼らのことを絶対的なものだと思いこんだり、てなづけられたり、従ったりしないこと。そして「尊重」は忘れないこと。併存すること。

また話がそれた。
少し遡る感じになるが、
逆に、「いい詩」があるとか、いい治療者、いい治療法がどこかにあって、それが絶対的なものであるという発想のほうが危ない。

「よい詩というのは現代の人がどう読むか、ではなくて、その詩自体がよいのだ」と言う人が当然いると思います。
しかし、これは、一番危険な意見です。「詩自体」が「よい」、その「詩」の中に「評価されるべき当然の要素」が内包されている、というのは、一見正当に見えますが、よーく考えると、「詩」というのは「読まれないと存在しない」という事実を忘れ、一歩間違うと「詩」をあたかも絶対的な神のようにあがめる思想でしょう。だいたい「その詩自体がよいのだ」と言っているのは「あなた」じゃないですか。それを忘れ、あたかも「詩」に評価が内在化されているかのような信仰を表明することによって他の人の意見を全く聞かない、「詩自体がよいんだから、他の人がなんと言おうと関係ない」「詩自体を読んでください、そうすればわかります」、こういう事を言うのは、それはそう言う人自身が、自分も評価されている、ということを忘れている、あるいは隠している証拠です。

「よい詩人」とは何でしょう。 / ななひと - 現代詩フォーラム
https://po-m.com/forum/showdoc.php?did=110710

モラウが言ってたが、念能力者同士の戦いに絶対はないのである。CのピークがAの最悪の日にぶつかれば、勝つこともある。団長の手刀を見逃さなかった人も、調子が悪ければ手刀を見逃したかもしれない。
それは、詩と読者であったり、治療者とクライアントの関係の場合においても同じことが言える。
たぶん「精神分析」だと、このへんを常に一定に揃えるためにムスッとしなきゃならないみたいなところがあって、今にして思えばなんだよそれみたいな感じだが、ある意味では、黒子に徹するというのか、徹子に徹するというのか、患者の精神状態を無闇に…いじってるよねぇ、あれ?
なんかこう、変に患者の精神に介入しないようにムスッとする感じがするが、なんかめちゃくちゃ介入してるような気もする。
むしろ俺の精神分析のために我慢しやがれこんちくしょーまである。
俺の渾身の精神分析をくらいやがれー!
もう精神分析が使えなくなってもいい、ありったけを…



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