0902

201→201
あさ。今日は動きが速い。すばしっこい。

◆わたししか使ってないデグー用語

サブロー…ボサボサになってること。「あんたサブローになってるから、砂浴びしてきんしゃい」

クイックマン…片手をあげて脇を掻くこと。なんかこのポーズをみると「チモシー食ってる場合じゃねえ!」みたいなコラ画像(コラ画像?)作れないかなと思ったりする

ひとやま当てたいね…時々話しかける言葉。当然きょとんとされる。

チモる…チモシーを与える、またはケージ内に盛ること。時々ボリュームアップを図るため、スパゲッティみたいにねじって盛ってみたこともあったが効果はなかった。

チモらねばならない…チモシーをあげたいのはやまやまだが、さしあたっての用事を済ませなければ手が空かないときなどに使う。

やなの…あごを撫でようとしてぷいっとされたときに訊く言葉。

ちょっと待ってくださいね〜…帰宅直後、部屋んぽ前のドア閉めをしながら漫然とつぶやく言葉。すでにケージの前で全裸待機されてるので。

受け身…フローリングの特定の場所で転ぶこと。砂浴びの延長のようである(砂壺で纏った砂をその場所に擦り付けてうっすら砂が引いてあるような場所を作り、そこで受け身をとる)

くしくし…両手を前に押し出すようにして鼻先を掻くしぐさ。最初は単発だが、そのうちスイッチが入り、くしくしくしくし…と止まらなくなる。この時の顔はめちゃくちゃかわいい。このあとは毛繕いの煉獄(喧嘩稼業)が始まる。

血盛る血盛る…チモシーのネテロ会長版

最近台風で2018年の台風の映像がでてるが、なんか5年前だと思ってしまう。

あと、あぐらで餌をあげてて思うのは、パパイヤの葉っぱとかのすぐ食べ終わるやつは手のひらや腕の上で食べるけど、時間がかかるペレットなどだと、咥えてから、いったん腕や膝から降りて、距離をとってラグの上や、部屋の隅まで行って食べる。
(千葉雅也さんの勉強の哲学読んでて)なんかこれも「勉強」と重なる気がした。要は、すぐ食べ終わるものはノリのいいもので、硬いものや食べるのに時間がかかるものはノリの悪いものだということだ。
そこに國分功一郎さんの愛と暇…じゃなかった(いつもまちがう)愛と暇(じゃない)暇と退屈の倫理学にあった「消費」と「浪費」をみることもできるような気がする。

なんとなく、このころ(このころ?というのはわたしにとって2010年代?)の人文系の本の読まないでいこうと思ったけど、やっぱり読みたい!ってなって読んでるわけだが、このころのやつは東浩紀さんの観光客の哲学、國分さんの暇と退屈の倫理学、千葉雅也さんの勉強の哲学…
と思ったんだけど、ここは「動きすぎてはいけない」だったのではないか?と今、ふと思った。

先に「ライティングの哲学」のほうを読んでいて、そこから「勉強」を読んでるので、なんとなく、4章あたりからは地続き感が出てくる。
目次の最後のほうではアウトライナーともみえていたので、やはりわたしの最終目標は勉強というか、積み立てるというか、執筆というのか、正確に、使われた言葉の場所と文言をストックして整理して適宜呼び出してそれにたいしてある程度おとなしくそこから言えることをちゃんと言う、みたいなことをしていかなきゃならないのではないか?というようなことを考えたりした。

ここでふと、府立図書館を思い出す。府立図書館はもともと今は使われていない石の階段を上がっていくのだった。
子供の頃はよくそこに上がって、確かフェリーの雑魚寝できるとこみたいな感じになってて、その周りを低い本棚が囲んでるようなコーナーがあって、そこで絵本的なものを読んでた記憶がある。あとは誰かが一年延滞して返しに行ったら「ちょっと遅かったね」と怒られたという逸話が残されている。
今の府立は地下に降りていく。
螺旋階段を降りていくと、まさしく「勉強」している人たちの頭が見えてくる。ここにわたしみたいな半端な人間が入っていっていいのだろうか、という感覚を毎回味わう。そして、それのふりをして自分も席につくが、明らかに「違うのだろう」という自覚だけはありつづけてきた。
なんか、その感覚を少しでも埋めようと思ったから「勉強の哲学」を読んでるのかなぁ、とおもった。遅々として進まないし、ブレーカーが落ちることもあるけども、少しでも漸進的に、ストックして纏めることのできる人間になれればいいなと思う。というか、そういう、ちゃんと読める文章で書くことのできる機会はたった一度でいい。そこに向けて読んでる。


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