わいの平成詩史9

今日は短めに。
最近、書くために色々と思い出しているが、思い出せば出すほどに「何もしていないし、何も見ていないし、知りもしてない、ほんと、なんにも知らないな」と気づくばかり。でも書く。

昔、レントさんという人がいて、今もいるのだが、確か苗字は小林で、小林レントさんか、単にレントさんという名前だった。

その人は「恍惚の宿木」という投稿掲示板にいた。いたっていう言い方が適切かどうかはわからない。
わたしの主観の話だと割り切って聞いてほしい。いた。

れっつらさんという人がいて、今もいるのだが、こちらはどこにいるというのでもなかった。

れっつらさんが、どこかの掲示板か日記かで、レントさんの「パゴダ印象」という詩について「なぜあんなものが書けるのかわからない…凄すぎる」的なことを書いていた。
それを見た私は「そんなにすごいのか…」と思って見に行った。
すると、本当に凄かった。
時間が止まった(圧縮された)感覚だった。

重量からそそり立った黒いやまなみは
お地蔵サンへのさいごのサヨナラの音(ネ、
その声さえ、モウ、越えたはやさで
(手、ルビを振るなら光がイイナ、
わたしの水晶へ這イッて
来る(モウ、キテ、イタ。

小林レント「パゴダ印象」部分 いがいが p32



(この箇所のもう少し前の、ゆーゆーゆーゆーゆーがくれ、のところも好きなのだが、今回は泣く泣く割愛)

わたしはとにかく暗示にかかりやすい人だったし、今もそう。
すぐ人が「やばい」「すごい」と言ってるのを聞きつけては「ほんとだ、やすごいやばい」ってなるところがある。

じゃあ「パゴダ印象」が凄くなかったのか? といえば、凄かったのだが、凄いし、好き。急いで付け加えるが、凄いから好きってわけじゃない。ただ今は、わたしのほうが詩から締め出されていて、昔のように読むことはできない。

もともと、読書も詩もまったく興味がなく、ゲームボーイばっかりしてて、たまたまインターネットで詩のクラスタを見つけて、引き寄せられてやってきただけの人間(であるわたし)。

若いから感受性にちょっとバフがかかっていたから読めたようなものの、今ではもう完全に、完全に、なんなんでしょうね…。
わかんないすけど。
若さのバフと暗示によって、かろうじて詩を感じれてた気がする。

のち、レントさんの詩集は、ミッドナイトプレスという出版社(発行:ミッドナイトプレス 発売:星雲社)から「いがいが」というタイトルで

出された(なんかしまりのない書き方ですみません。出版された、のほうがいいのかな)。

***

T.Tさんという人がいて、たぶん今もいるのだが、どこかでレントさんの「いがいが」と、同じくミッドナイトプレスの叢書(midnight press Original Poems)として出版されていた、久谷雉さんの「昼も夜も」を読んだ感想を書いていた。

「書き続けられる人と続けられない人の差を感じた」というように書いていた。

直感的に、それは合っているような気がした。

書き続けられる書き方じゃないという感じはあった。それは心身ともに。じゃあ久谷さんが手を抜いているのかといえば、もちろんそういうわけじゃなくて、なんというか、たとえば、ゲームで、回復のターンと攻撃のターンを分けるように、自分を維持する方向で書き続けるか、全滅してもいいから攻撃だけするのかみたいな、言葉から垣間見える雰囲気の差みたいなことなんだろうと思う。詩の雰囲気から、なんか回復をしなさそうな人と、回復しながら攻撃もしていく人との違いみたいなものをT.Tさんは感じたのかなと思った。
少なくともわたしはそう理解した。

付け加えるとすると、どこで読んだか忘れてしまったが(蘭の会のおてがみコーナーかなと思ったけど、違った)、レントさんが自身の詩の書き方を書いていて、「まず2日間ぐらい断食します。するとだんだん見えてきて…(うろ覚えだが、飲まず食わずで仰臥する的なことは書いてた気がする)」みたいなのを読んで、ああ、わたしには無理だと思った記憶もある。

T.Tさんの書き込みと、レントさんの詩の書き方を合わせると、なんか「書き続けられない」ということについて考えることになる。

それは、人生のライフステージがとか、出会いがとか、生活リズムの変化や忙しさやタイミングでそうなるわけじゃなく、もっと生死というか、攻撃と防御というか、ひとりの人間の生命力みたいなものの収支、出入りの問題によって早晩マイナスに振れてしまうのではないかという危うさによって、「書き続けられない」のだということ。
わたしはそこまでこんつめて何かを書く人間じゃないので、生命の危険、社会的な危険性を感じると、するっと抜けてしまう。
圧力をかけられると、すぐにするっと横に逃げていってしまう。
でも、圧力をかけられても、ずっとそこに留まり続けてしまうことで、壊れそうになることで、ある意味正確に、ビビッドにものごとを捉えたり書いたりできる人もいるということなのだろうとも思う。

書かなくなった人たちのことをたまにぼんやりと思い出したりもしますが、基本的にドライなのか、「彼らはウェブ上で発表しなくてもいい状況になったんだろうなあ」って思うだけです。

嘉村奈緒(コペンハーゲンの舌に巻かれて https://deraroll.hatenadiary.org/entry/20061023/1161541283)

ときどき思い出す言葉のひとつ。

ネットでは、「しなくてもいい状況」が、死なのか、幸福なのかわからないし、考えたところで知りようがないということを時々思う。

つまり、この流れでいうと、「あなたがある圧力(書け、という圧力か、書かせていた圧力)から逃げた、あるいは潰れた」かが「書かなくなった」という状況だけではまったくわからないということ。

だから、それまでに、気になる人とは手を繋いでおく必要があった。
でも、わたしはそれをしなかった。


今もふと、あのときのT.Tさんの「書き続ける人とそうじゃない人の差」っていう言葉は思い出すことがある。

でも、レントさんは今もいるし、詩も書いている。だから、結果的にはT.Tさんの発言は「間違ってた」。
しかし、それはちょっとエモい意味になってしまっているのだと思う。

わたしは、ちょっとエモい意味になってしまった人生を生きてしまうことについて、あまり想定をしてこなかった。
ちょっとエモい意味になってしまった人生は慎ましさに包まれている。
だから逆に、ひっくり返せば、みんなそうなのだ。
常時その想像力があれば、人に対して悪いことはできないのだけど、人間はそうじゃない時もしょっちゅうある。
特に自分が大変なときは、「みんなそうなのだ」まで行ってはいけないときがある。

なんか最近の音楽、特にボーカロイドからの流れを汲んでいるようなものの歌詞は、なんとなく、そういう「みんなそうなのだ」の形で、社会の道理や想像力のようなものを先取りして、気や息の詰まる思いをする、というような詞が多い気がしてる。
それはちょっと自身の悩みに対して、広くを吸い込み過ぎちゃってるんじゃないかい? と思わなくもない。そういう時は、もう身の回りの話と道理だけでいいじゃない、と思ってしまう。

「みんなそうなのだ」と自分自身を言いくるめてしまうと、攻撃性は自分に向いてしまう。でも「自分だけだ」と思ってる時だって、攻撃性は自分に向いている。なんかそういう歌を聴くと、もっと深く自分のことに拘うほうが楽になれるんじゃないかと思う。
「みんなそうなのだ」と思ってるときもそうだけど、「自分だけだ」と思ってるときでさえ、全然ライトに(軽く)考えてるときが往々にしてある。
あとから見れば「全然考えてなかった」ってことがしょっちゅうある。
自分をみんなのように考えて悩んだり、みんなを自分のように考えて悩んだり、わたしに限って言えば、コントロールできる範囲を見定めずに悩み始めることしかない。

なんか話がずれてきている。もどそう。



昔、たみさんという人がいて、たぶん今もいるのだが、「本なんて読まない」という詩を書いていた。そこには「(本って)後ろのほうが前のほうより正しいっていうふうになっていくのが嫌なんだ」というようなことが書かれていた。
本(ここでは物語を指すのだと思うが)って確かにそういうとこ、あるよね。

無理やり結論めいたことを書くとすると、書き続けられないとか書き続けられるというのは人の人生においては結構どうでもいい話だが、もし書き続けられたとすると、それはちょっとエモい意味を生きることになる。ただし、ちょっとエモい意味は後世を照らすための深夜高速のオレンジ灯になり、慎ましくなる。彼らは時々バフがかかってて、アクセルを踏み抜き、剥き出しのエモさで全力で駆け抜けていく。
つまりわたしたちはインフラになって黙ってちょっとエモい感じのまま慎ましく生きる雰囲気になる。
それは「あのときの自分」からみると、なんかオイオイ、みたいなところもあるかもしれないけど、それはそれでオッケー、みたいなところもある。
書物と人間だと確定させられる事項が少し違うのかもしれない。
そして書物とネットも。

人間(人生)に、さっき書いた「本なんて読まない」の話を当てはめると、「(人生の)後ろのほうが前のほうより正しいっていうふうになっていくのが嫌なんだ」って話になる。

本と人だと、じゃあ、そこで死ぬかどうかみたいな議論になるので、結構違う話になる。

自分を「前(今)のほうが正しい」といって、厳密に打ち切ろうとすると、死ぬっぽい状態になる。
でも、人間は、後ろのほうが前のほうを裏切ってなんぼなところもある。

まあ、死ぬまで生きることはできても、生きるまで死ぬことはできないので、なんかそのへんで どうしてもちょっとエモい意味にならざるをえない局面は発生する。

なんだかよくわからなくなってきたので、このへんで。

そのときそこにその光はたしかに訪れたのだと、黙りこくって示してる言語たち。
 この詩たちを、わたしはなんどだって、読むことができる。もういちど詩を書いていた瞬間を呼ぶことができる。言葉になにか力があるなら、それはいつだって過去のうたをうたえる力だ。

小林レント「いがいが」ミッドナイトプレス あとがき p80




(つづく)









ちなみに、最初にパゴダ印象を読んだのはネットで、当時は200X年(わからない)。そして、詩集として手にとったのは昨年か一昨年(つまり2020年〜2021年)。

わたしはネットに接続して詩のクラスタに行って、ご多分にもれず人生が忙しくなって詩から離れ、また落ち着いてきて戻ってきて、それからネットで書かれていた本や場所に出向くようになった。
そのときにはほとんどのことは終わっていた。
以前、田中修子さんが「跡を見て回っている」というようなことを書いていた。彼女も同じように、「あいだが抜けている」感覚があったのだと思う。
これをより正確にいえば「何かがあった頃にその場(その場というか、過去のさまざまな場所や時間に書き込まれたテキストの連なりの中)にいなかった」悔しい感覚と、それをあとからでもいいから辿ってみたいという感覚。
これを田中さんは「冒険」と呼んでいた(ただし、田中さんはネットの詩だけじゃなくて、もっと視野が広かったと思う)。
わたしは、もう少し、ネットの跡や、あのときチラッと読んだ詩が収録されている詩集を集めたり、詳しく調べる熱意が、もう少し長く続くものだと予感していた。
けれども、それも案外早くに尽きた。
2013年〜遅くとも2021年、つまり去年あたりには、わたしのインターネットの詩に対する気持ちというのは、老いもあるのかもしれないが、ほとんどついえてしまったように思う。

だからこそ、こうやって最後に書きつけているのかもしれない。

最後であって、最期じゃない。それに、本当の最後かもわからない。自分としては、死ぬ予定も、今のところない。





もうひとつ。

なにか、書くことに対して、思い出や記憶を書く範囲に対して、厳しい意見を持つ人、つまり、抱えるという姿勢をつらぬく人に、わたしはどうしてもなれない。
それは会えていないからなのかもしれない。
また、そういう人が読んだら怒ったり、いやな気分になったりするのかもな、と思いながら、どうしても書いたりすることをやめられない。
ただ、書くことで、お叱りを受けるほどの(つまり読み切れるほどの)雰囲気をたたえた文体ではないから、おそらくはなにもいってこないであろうと踏んでしまっているところもある。つまり 甘えだ。





恍惚の宿木について。
枯淡なイメージ。
かなり後になってその存在を知ったはず。詩投稿サイトとしては静かなイメージがあって(木があるからかな)、機能としては詩投稿サイトと呼べるのかもしれないが、他サイトのような、自治というのか、動きのようなものが見て取れないところがあった。つまり、詩の投稿以外(サイト構成や機能、サイトのこれから的なこととか、雑談)をするような箇所がなかったのかもしれない。
いや、今確認しにいったら雑談用の掲示板はありましたね。
でも、長く続けるって、ずっとあり続けることで、運動というか、活動をしてしまうと、やはりそのサイトの終わりを早めてしまうのかもしれないなとも思ったり。
息を長く、薄くすることで、代謝を抑えることで生き延びる。そんな感じ。勝手なイメージですが。

今パパッと見た感じでは自鯖っぽい感じである。あとサーバーの維持費で奥さんに怒られるので広告を置いたとか書いてあるから、大変だなと思いました。そういえば、2000年前後のサイトは結構自鯖的なもので個人が管理しているものが多いので、それらがこれからどうなっていくのか
…いや、ふつうに消えていくのかもしれないが(そして、参照のされ具合によってWebArchiveに残ったり残らなかったりして、虫食い状態になっていくのかもしれないが)。
○年問題とかよく言うけど、サーバーを管理している人が維持できなくなってめちゃくちゃ古いサイトが消えていく問題は非常にひっそりとしている。

どこかの業者がエレベーターみたいなやつにお墓を入れる永代供養みたいな形で永代管理してくれたりしないものだろうか。

となると、ここで、やはり「いや、もうここで終わるのがいいんだ」「ここで消えるのが自然の摂理なのです」という気持ちがまさってくる。

その人が老い、ドメインが更新できなくなり、サイトが消え、サーバーがなくなり、家がなくなり、更地になり、また家が建ち、そこに住んだ人が自鯖を設置し、ドメインを取得し、投稿サイトをアップし、その人がだんだん老い… というのを繰り返すのが「歴史」である。



法人化…

いや、やめておきましょうこの話は!







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