0525
あさ。小谷美紗子のOff you goを聴いていて、ふとどういう意味かと思って検索した。
行っていいよとかあっち行ってという意味にもなるし、なんかほかにもあるらしい。知恵袋的なものには出ていけ!とも書かれてる。イメージとしてはガキ使でココリコ田中が発してた「行けー!」みたいな感じだろうか。
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Off you go / Take care of yourself / up to you
なんとなくyouのやつを並べてみた。
いっこめは今しらべたやつ。
二個目は旧エヴァの最後のほうの副題がこれだった気がする。
これも昔「どうぞお好きに。」「どうぞごかってに。」「どうぞお気をつけて。」みたいなファンを突き放したニュアンスだと読んだ記憶があるのだが、シンエヴァの終わった今にしてみれば、さよならの別バージョン、ちょっとキレ気味というか、通り越してもう開き直って皮肉みたいになってるような感じのさよならみたいな感じだろうか。こっちが勝手に「どうぞ」って付けてるからかもしれないが。
このへんも、その当時はそういう意図があったんじゃないか?と思ってみてたけど、後からかんがえるともっとプロフェッショナルな考え方で、つまり仕事としていろいろなことが決められてたことに気づいたりすることが多い。ようはひとりでやってるわけじゃないというのか。(でも細い管を通って、かなりおおっぴらに、どストレートにひとりが届いているかのようにもおもえてくる…そこが不思議である。おおいなる誤解の元凶。興行というか、広報というか、配給というか、複製というか、たくさんの人に届けるとそうなっちゃうのだろうか)
仕事と「お仕事」は多分違う。
3つ目は19の最後のアルバムだった気がする。白い、額縁みたいなジャケットだった気がする。
あなた次第、という意味らしい。当時は岩瀬敬吾さんの「絵にし手にし上に」とup to youのupをなぜか重ね合わせていた。
今思えば、「ビジョンにしてゲットして更に上を目指すんだ」みたいな上昇志向をハナモゲラ語に起こしてから呪文のように歌うとああいうふうになるのかなと思わなくもないが、up to you〜ソロアルバムの2作目あたりまではなんかこう鬱屈というのか、好きにしたいけど、言いたいこともあるけどなかなか言えない感じのニュアンスが詰まってるというか、そういう感じがとてもいい。
3作目のノイため(ノイズとため息)からの感じも好きではあるし、あのアルバムが出た当時の少し時間をおいての再出発というか、再始動感もあって、なんかおー!って快哉を心の中で叫んでるようだった。
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ときどきおもうのが、アーティストの主に歌詞において、だんだん「自分」が尽きていって「だれか」とか、それまでに「自分」を歌うことでついてきた人たちの層を想定し「だれかを応援する」ように歌うようになっていく、ということがあり、だんだんそれが入り混じって、どうでもよくなっていく。するとそもそも歌ってた理由って何? 歌い続ける理由は?
逆に「だれか」が尽きて「わたし」を歌わざるを得なくなる場合もある。パッと今ぼんやり今思うのは、チャットモンチーとかってわたしの中では、そういうイメージがある。ずっと「わたし」と「だれか」のバランスがうまくとれていた気もするが「いたちごっこ」とかのあたりになってくるとなんか「わたし」のほうが多いようにも思えてくる。
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とはいえである。どっちにしても「プロ」で、もう商品としてこれでいくというか、成立させて売ってやってることであって、知らないあいだに売られてたとかではないのであって、わたしたちが想定できる範囲内での「循環」というか、こう思われてこうなって…みたいなぐるぐるに関しては断ち切ってるというか、原理的に断ち切られざるを得ないのだから、まあ手放してるわけである。
手放してるから、その当時の情念というか、どろどろした個人的な事情というのは、基本的には受け手の勝手な想像(水分、雨)によって賦活されてどろどろしたものだと受け止められてるだけであって、本人が実際そうかはわからない。
太宰治の女学生か女生徒か忘れたけど、そういうのもそうだと思う。
案外ちゃんとしてるし、してないかもしれない。
でも思ってるよりは意外とちゃんとしてるし、「やばかった時期」みたいなものはそんなに反映されてはいるものの、ちゃんと作品内に収まる以上、もともとそこまで再現できるものではない気がする。
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「わたし」がなくなって「だれか」になる、ということは、自分の中の「ストック」とか「ネタ」が切れる、ということでもある。
というか、果樹のようなものかもしれない。「わたし」からもぎ取ったら、次は「だれか」のほうをもぐ。するとまた「わたし」のほうに実が成ってる。そんな感じかもしれない。
時々、人のふりをして書いたり、手紙のように宛てたりすると、文章がすいーっと進むのも、それに近いのかもしれない。
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出会った時の年齢も関係がある気がする。わたしはエヴァが14歳とかで、19が20とかだった気がする。
そもそも、解散とか、最終2話がパイプ椅子だとか、なってくるとやっぱり「なんかあったんじゃないか」とはおもうわけで、でもその思いに対して出てくるものは「作品」であって、そこの齟齬、作者は周りのゴタゴタなどもないまぜにしながらもあくまで作品を仕上げようとするし、受け手はそのそういう作品を仕上げるに至った諸事情と知りたがるし、知ったら知ったでそれを作品と結びつけたくなる。あとは、自分とも結びつけたくなる。「こういう気持ち、なったことあるわぁ〜」とか思って、当然「彼らもわたしと同じ状況なんだろうなぁ〜」と思って過ごしてたら、後日談みたいなことで「いや、プロとしての仕事ですよ」と言われて、なんか梯子はずされたなーみたいな。
それが20代〜30代で、
40代になると、また一周回ってきて、ああ、そうかと。
あのとき(20代)からあの人はやっぱりプロとして仕事をしてたのだなと。そこに自分はなんか勝手にいろいろ仮託して、申し訳なかったなと、フラットに?見れるようになってきた気がする。
要は、歌詞がすごい沁むとか思ってたけど、本人は音韻的にハマるものを探してただけであったり、音にこだわってたり、映像がグロいからすごい残酷な気持ちで制作したのかと思ったら、そういうストーリーだからそうしたまでですとか。
まあほんとのところはわからないけれども、一応はそっちを信用しようってなってくるのが40代なのかなと思って、なんか離れていってしまうのがさびしいなと思います。
フィクションをフィクションだと割り切る、とかという問題とはちょっと違って、フィクションは昔からフィクションだと割り切ってはいたけれども、それを取り巻いている状況みたいなものを想像してわくわくするような心をなくしたっていうことなのだ。
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商業的になってしまった。全部お金を介して解さなきゃならなくなった。みたいなさみしさがある。つまり、その人がなぜ歌っているか、何を歌っているのかを抜きにして、度外視して、ライブに行ったりするようになった。
応援する、という気持ちで見に行くようになったり、買ったりするようになったり、懐かしむような姿勢になってしまった。
切実な動機を不問にしてしまった。
もうとうに「わたし」をなくしてしまって「だれか」のことばかり歌っているけれども、そのことも含めて応援するようになってしまったし、だからこそ「そもそも、あのときからずっと彼らは「わたし」のことなんて歌ったことはなかったのだ」プロだったのだ、と思おうとしているのかもしれない。
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そういやチャットモンチーの橙の歌詞の英語はなんだったかなとおもって、そういやあれカタカナじゃないかと思って検索して
なんか、今の気分にぴったりだなーと。
気分といえば、庵野監督も昔「気分をフィルムに定着させる」みたいな言い方をしていて、これが気分なのかーと思ったりもしたが、そういう意味では一貫してるなと思う。
ただ、わたしたちが思ってる「気分」と、モノになった「気分」から同じものが還元されるとは限らないということを、若いから、なんかあんまりわかってなかったよね、っていう、そんな話。散歩。
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