もうつかれ

あさ。さっき税のやつ疲れた、
税をもどさない気概みたいなやつ(紙)とたたかってた
なんとしても税を軽くしてやる
その一心で立ち向かいました
ありがとうございます
日記文化から近代日本を問うという本を読もうと思ったがどっから読んだものかと思い
まずうしろにのってる対談から読んでみようかとおもって
そこにガスの検針の紙を挟んでから
幾星霜
なぜ人はこんな書いてのこすんかぁゆうてやらせてもろてます

もともと最初はWatch Impress
Impress Watchですね
ここでチャーリーさん(鈴木謙介さん)が書いてた

これ、今、なんか埋め込みが作動しましたけど
社会学って言葉が今どうなってるかはビミョーなとこですけど

ネットが出てきて書くってことが「わっ」てなってきて、余計こんがらがってる昨今ですし、そのせいでなんか浮かばれない気分にもなって沈みがちになる昨今でもありますが、個人的な興味の変遷としては以下のように

ネット→詩→日記(enpitu、はてな、ヤプース、スペース借りてHTML直打ちなど)→同人誌→詩集→個人誌→ZINE→チャップブック→イギリスの絵本→日本の絵本→日本の日記文化→コンテンツ文化史

個人的な興味をばーって書いていくとこういう感じのながれになってる。ここに哲学とかも並走している。哲学もはてなでギレイテキムカンシンとかディシプリンがどうとかなんか色々当時書いてあった気がするけど、なんか怖いから避けてた。
けど最近千葉雅也さんがそういう人向けっぽい本書いてくれて、書いてる動機じたいもめっちゃなんかそういうネットで哲学とかあるっぽいのを横目でチラ見してきた人のための本っぽいというか、自分にも他者にも「もういいじゃん」みたいな、なんか先輩後輩みたいなノリとかタメからの解放宣言みたいなとこがあってなんかいーなーって思った。
あとしらんけど精神分析とか精神病理学とか病跡学とかもなんかどっかで走ってて、そういうのもチラ見しながらふつうに仕事してきたわけだが、今はなにもかもが河口に行き着いたかのように思える。
レギュレーションがなくなって弛緩したが、なんかそれこそ逃げるは恥だが役に立つみたいな感じでなんか今まで要らん縛りあったよなーっていうのを今の四十代前後の人たちが要らんかったよな宣言し始めてる景色がみえるというのか。そういう景色がみえる。
いや、要るのは要るけど。もうちょっとラフに使っていいし潜ってもいいっていう。好きにしなよっていう、なんか言う向きが変わったって言うか。前は上にいうようの言葉でガチガチしてたけど、今は横にいう用の言葉でいえるようになったというか。
ある意味損得でとるようになってそれらが猖獗しまくってるともいえるのだが。とはいえ昔は検索のノイズになるとか半年ROMれとかよく言ったもんだが、まさしくああいうのですね。ああいうのは要らなかった。ああいうのはひじょうにモヒカンだった。で、ガチっぽい学問の中に占めるああいうのの割合も意外とけっこうあったって話なのだと思う。そういう呪縛から抜けましたっていう話を最近よく耳にしているような気がしてる。いろんなところ、いろんなふしぶしからそういうのが伝えもれでている気がするし、こっちもこっちで勝手にそういうふうに解釈して生きやすくなってる。

ネット→詩→日記(enpitu、はてな、ヤプース、スペース借りてHTML直打ちなど)→同人誌→詩集→個人誌→ZINE→チャップブック→イギリスの絵本→日本の絵本→日本の日記文化→コンテンツ文化史

これのやっぱり歴史の流れとネット上の詩の流れって、ある程度状況論とかが被るんじゃないかと思ってて、全然関係ないけど自分がLINE漫画の絵柄がなんかいやだなーって思ってて、Youtubeの広告とかで25人殺したやつが記憶をなくして…って言われても、なんかこれ読んでもあんまり得しないなーって感じのする絵柄で、というかそもそも広告の漫画は「そこがピークなのでは…」と思うことがあり、できれば広告という形で出会いたくなかったっていう漫画も世の中にはたくさんあるのかもしれないが、まあとにかくなんだ、なんかLINE漫画の絵柄ののぺっとした、嗜癖や文脈の感じられない公共的な万人のための漫画みたいなもののもってる快楽って次がないように感じられ、それはそれで結局は昔のチャップブックとかだってそういうひとときの娯楽みたいなやつだったのであって、個人が刷れる時代までいくとパーソナルZINEなどをやりだし、リソグラフなども出てきて、フィジカル発表する楽しみが出てくる。なんとなくこれはほぼ日手帳を「作る」ようなのと近いのかもしれない。で、インターネットとなってくると、フィジカル的なものではなく、みんなが白光する画面で読むもので、かつ個人の表現が綴られてそれが対価をとったりとらなかったりする。LINE漫画的なものと、作家的な漫画を隔ててるものっていうのがあるのかないのか、それ自体がなんか拘りなのだろうか。そこに金つっこみたくない幻想みたいものが自分にある。というかそもそも私がLINEをやってない。

日記は隠す時と公開する時でスタンスがかなり変わる。ブログと日記もかなり違う気がする。読者を想定するかしないか、半分想定し、半分想定しない。書けないことを書かないし、書きたくないことも書かない。じゃあ何を書くのかって話になり、書きたいことを書くってことになる。それはそれでどうかと思う。毎日よかったことだけ書く習慣もそうだが、それと日記とは切り分けたほうがよくて、日記は常に両論併記というか、よかれあしかれおもったこととあったことを全部つけるか自分で復帰できるように指し示すなどしておくのがよいように思う。
日記とそれ以外、いや日記で会っている研究団体もあるにしろ、表現という意味でいうと、会うか会わないかでも変わってくる気がする。会わない表現なのか、会う表現なのか。配る表現なのか、配らない表現なのか。読む、ということだけは共通している。日記は「読まれる」を想定していない場合がある。
ログは元々海に落として距離を測る丸太からきてる。測定とか観測としての日記。自分が日記を公開しないのは結局観測するためには削ぎ落とさないといけないことが多すぎるから引っ込めておいたほうがいいと思って。でも、イニシャルにして公開、ということはできるはず。
それをしないのは、自分が公共的に生きてない部分も全部併記したいからで、寝た起きた食った吐いた切った殴った盗んだオナニーしたうんこでた/でない誰と会った会社でこんなことがあった…なども全部併記するには非公開が最も適している。ぶっちゃけみんなうんこしてから会社きているけどうんこした会社行った友達を会ったセックスしたと書いてしまうとかなり厳しい。かなり厳しいけど残しておきたい場合、人間はこっそりつけておく。

それとはまったく独立した体系として毅然とした表現があることになってるかというと、実際そんなこともなく、時間に棹をさして作品や論文を仕上げていくっていう、執筆っていうやり方も人間は出来るのだろうが、私は全部書いても一日で日記にペーストして流してしまう。
結局作品というのは時間を超えよう超えようとしてくるのでむかつくというか、射程距離や射程範囲を人間ごときが推定して言葉をごにょごにょするっていうのがなんとなくよくないことに思えるし、もう完全にその役目を終えているものもたくさんあるが、学者視点や深掘り視点でみればまだ全然おもしろいってこともあるのかもしれないけれども、ふつうに生きてる人からすればそれは全然終わってるけど、もし暇があってそこに興味を持てばそれについて詳しくなることもやぶさかではないっていう感じの世の中にはなりつつあって、自分自身がその中でどのへんに位置するのかっていう把握がしづらいし、しても無駄っていうのが現状なので、みんな個々に
というかやっぱ僥倖を待ってなかった頃の人間にもどりたいっすわ〜

雨。散歩にいいっすね
長々しすぎたので
お昼たべて散歩いってきます みなさんもいい一日を

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