めも

岩瀬敬吾さんの詞の魅力はどこにあるのだろうかということで今回やっていこうと思うわけですが

やはり岩瀬敬吾さんの詞を語る上で19(ジューク)時代は外せません。
いや、外しましょう。
そこまでいくと話がややこしなるというか、まあその頃から詞は独特だし、かなりこっちから歩み寄らなければ"コッツウォルズ"の詞の意味などわかるわけないわけで、まあなんか単純に今はソロになってからの詞について書きたい気分だからそうしてきたいとおもいます

でも昔exciteかなんかのインタビュー記事で歌詞はハナモゲラ語(英語風に歌ってから日本語を当ててく感じの方法)でやってるって読んだ記憶がある。
そして、"憂鬱なロザンナ"の最後を思い出す。

言葉と音の関係でいうと、「ここに「あ」の音がほしい…」みたいなのがあり、そこでいい案が出るまで悩むか、もうちゅちゅっと意味に寄っていってしまうかの葛藤がある気がする。
ふつうに歌を聴いていると、考えられてる歌と、妥協したなあとかそもそもそんなこと考えてないような歌とかが色々あって、でも妥協したからといって即ダメーではなく別に全然それでいい曲もあって。
それでいい歌というのは、私がその人の経緯を追っててなんとなく許してたり、全然知らないけど全然許さないみたいなことがある。
私は昔車のラジオで聞いた「誰でも最初は初心者で」みたいな歌はいまだに許してない。なんか、歌でいちいち言わんくていいと思った。別にいいんだけど、心の中では絶対に許さない。なぜならストレスが溜まる。忘れるのが一番じゃないか。そうかもしらん。
あと全然話変わるけど同じ曲好きすぎて聴きすぎるとめちゃ早く終わるのがつらい。"ノイズとため息"聞いてたらすぐ気が逸れて我に返るともう終わってたとか。あと携帯の着信にしてて、着信音で人を分ける設定もしてなくて、嫌な奴もそれだったから、一時期は聞こえるだけでビクッとする時期もあった。
だから私の"ノイため"は、死ぬほど聞いた時期と、聞こえるだけでビクッとして鳴りやむまで息を潜める時期(そして鳴り止んでから部屋を見渡すと、自分の部屋のものがすべてしらけてみえて悲しかった。これは、「自分の生命の危機に比べると、部屋にある好きなものなんかゴミである」と電話の着信一本でしてやれる奴に対する殺意とか、あと、好きなものがぜんぜん自分を助けてくれない(当たり前なんだけど)ことと、あと、そうやって簡単にしらけて寝返る翻る自分にも嫌気が差して…と、まあ、とにかくよくなかったね。あの頃は、全体的に…)と、

まあそんな感じである。
今はもう浄化されていて(というか、全てが通り過ぎていって)、今は懐かしい好きな曲として聴けてる。
そういや携帯ストラップのbright dayの小さい黄色いクッションみたいなやつ、今でも引き出しに入ってる。かなり煤けてるけど。

昔彼女がたまたま岩瀬敬吾さん好きで同じノートパソコン持っててそれで意気投合したのだった。あれはiBookがMacbookという呼び名に変わった直後ぐらいのことだ。birght dayのやつも彼女がくれた気がする。

個人的には「その場じゃ毅然と耳痛んで」といった詞が好きだ。
身に覚えがある気がするし、ちょっと出てきそうで出てこないし、意味をちゃんと追うと若干ずれてるけど「わかる」し。
なんといっても「毅然と」の使い方の妙。
本来の「毅然」とはちょっと違う(かなり違う?)使い方なのに、なぜかわかる。それは前後の言葉によって推測が効くことと、意味がずれていても、少し崩すと繋がるような雰囲気があるからだと思う。

英語の意味を調べたら、日本語のときは全然繋がってないような意味も一緒に出て来て、「ああ、でも確かに元々そういう意味ですもんね」みたいな妙な納得感を生むことがあり、それに近い感覚である(伝われ)

(伝わらないか…)

本来の「毅然」は、「毅然とした態度」とかで使うのであって、それはなんというか、一貫した姿勢で頑とした感じで物事に臨むような雰囲気の言葉であるが、これを少し崩すと「ちゃんとする」ぐらいの意味になる。

歌の中で「毅然と」は音程がキュッと上がるところ。
なんか歌の用語で、そういう箇所を指し示すものがあるのかもしれないが、バカだから知らん。

あと、なんかここの一節は、ビートルズじゃないけど、少し古いというのか、昔の曲で聴くようなコードの流れのように感じる。

勝手に超訳してしまうと「(人に厳しく)言われてるときだけちゃんと聞いて胸が痛んでるかのようになるだけ」みたいなことと解釈できる。

さらに言えば、異性に不誠実に接した末路のようなものも感じる。
なんか一時期、今でもそうなのかもしれないけど、回想シーンで「あなたは人の気持ちがわからないのね」的なことを女性が言って、そういうシーンを見るたびに「お前はわかるんかい!」みたいな苛立ちを覚えていたのだが、ああでもこれ美味しんぼの奉書紙の回だ。
でもまあ漫画でもドラマでもそういうの多かった記憶がある。今だとコンプラ的にアウトで二度とできない展開だが
いやそうでもないか。でも個人的には令和にもなってやるような展開ではないと思う。もう少し相対化していこうぜとは思う。「私の気持ち」が世間一般、人間全般に適用されると思ってるような
なんかだんだんアンチフェミ界隈のアカウントみたいなことを言い出してる気がするので引き返そう。
そもそもこの曲の舞台もかなり曖昧である。MVが気合い入ってていつも頭の中で是枝監督と間違う行定監督による原曲4分ぐらいなのに6分ぐらいあるMVである。岩瀬敬吾さんは怪しい掃除夫として出演している。

このMVの解釈・世界観と、原曲は結構違うだろうな〜、とは思う。でも真っ先にベッドが出てくるのは「なんかそうだよな」って思う。おじさんがぼやきだすのはなんか違う気がするけど。罪悪感ってそういうのとちゃうやろて思う。もっと全般的な罪悪感、日常的に「やらかしてる」ものの総体への罪悪感であって、なんかそういう賢者モード限定で感じる原罪とかではないように思う。まあMVなのでそのへんはあくまでイメージである。
行定監督の解釈というか、表現ではこうなる、という。

曲を聞いていてぼんやりとわかるのは、なんらかのアプローチの手段とか思い出とか断片で、サビはそことは切り離されて、どっちかというと概念とか決意?を広めに歌ってるように思える。
でもサビは前段のアプローチや投げかけられた言葉を受けての思いでもあるし、さらに、そこからどうなっていくかという話でもある。でもその先もあまり明るいとは思えない(難しく感じる。矛盾を感じるから)。

ここで出てくる「くらすごとにくだって」「逃げることにくだって」というのも、「毅然」と同じく、普通の使い方ではない。
「〜することにくだる」という言い方は、普通しない。
「くだる」と言えば「軍門に降る」か、「くだらない」と言われたときの返し「くだるわ!」ぐらいである。ああ、あと当然ながら「下る」もある。

「くだって」の解釈として、一番ストレートに考えれば全部入りである。全部であり、どれでもいい。軍門33%、くだらない→くだるわ!33%、下る33%。残り1パーは不明。おつりぐらいに考えとくべきである。

でも「くだらない→くだるわ!」はもう少し下げてもよいかもしれない。
「軍門」的な使い方と、実際の体感としての「下る」の比率を少し高めてみる。概念上の坂を、自転車か何かで実際に下っていく。時間経過による、老化というにはまだ早い、人として、大人としての「疲れ」とか「負け」に馴染みにいこうとするかのような、そういう「くだり」について歌っているように思える。いや、むしろ振り切ろうとしているのか。
歌い振りは振り切ろうとしているのに、けっこう厳しそうに感じるのは私だけだろうか。

あとはラスサビの「まいてく」と「まいってく」。この世には、これをやって許せる人と許されない人がいる。くるりのHOW TO GOの「待ったり」と「まったり」は許せるのと同じ原理である。

というか、もう「まいてく」だけで三種類あるのか。
最初のサビの「まいてく」「まいてゆく」
ラスサビの「まいってく」

こういう言葉の重複?というかちょっとしたズレは随所にみられ、しかも表記ずれというわけではなく確実に意味が変わってるけど、音からみるとほとんど同じという、なんでこんなことになってるの?みたいな感じである。

くらすごとにまいてく
ゴミの様な大人自体をまいてゆく
くらす事にまいってく
ゴミの様な大人時代を

くらすごとにまいてく
ゴミの様な大人自体をまいてく



さて、どこから手をつけようか…
「くらす」を「暮らす」と取るか、もっと音として取るか。
要は、もっと生活としての「暮らす」よりも「暮れる」寄りで考えるか。
その場合、自動詞?の「暮れる」を、「暮らす≒暮れさせる」ことになる。当たり前だけど、「お前らの空を暮らすぞ」みたいなことは叶わない。だから、これは自分の中で起こることに限られる。

次に「ごと」と「こと」。
まず「ごと」。
「毎」と取るか、「自分ごと」「ひとごと」のように「事」が濁ったものと取るか。
前が「くらす」だから、「事」であれば、「こと」で足りるので、まぁ、「ごと」であれば「毎」かな〜ってなる感じ。
じゃあ「暮らす毎に」。
少し飛ばせば「少しずつ」とか「ちょっとずつ」という解釈になろうが、そこは元の言葉に立ち返って素直に「暮らす毎に」→「くらすごとに」との違いを精査する必要があろう。
暮らす以上は毎日と生活が必要である。実際は毎日と生活が必要なのではなくて、人間が眠くなったり、社会が時間で色々刻んでいるからそうなってるだけで、本来別にそうなってるとかではない。たまたま歴史的な経緯とか生き物としての交々を擦り合わせた結果、今みたいな感じになってて、そこに「暮らす」という状況が発生しているわけである。それをする毎に、「ゴミのような大人時代」をまいていきたいわけである。

ここで「まいてゆく」「まいてく」についても考えなければいけない。
なんとなく勝手に、追っ手を振り切る意味での「撒く」をイメージしていたけれども、本当にそうだろうか。「ゴミのような大人時代」を撒くのだろうか。
逆に、「巻く」「蒔く」だとどうなるのか。
まず「蒔く」だと、ゴミのような大人時代を振りまくなんて…。
なんだか悪徳テレビディレクターみたいである。知らんけど。なんかプロデューサーとかディレクターとか広告代理店とか、なんかそういうイメージである。かさねがさね知らんけど。
「巻く」の場合はどうか。なんかゴミのような大人時代が平べったい。ブルーシートか何かでしょうか。それともカーペット?
巻いて、ゴミのような大人時代を片付けるのでしょうか。
それならちょっと筋は通りそうにも思えますが、この「ゴミのような大人時代」ってえやつは、物理的に巻けそうなシロモノでしょうか。
むしろ自分の周り、あるいは自分の中に巣食ってるもんじゃあありませんか?

…みたいな処理がかなり瞬時に行われることによって、人は「まいてく」を「撒いていくということだな」と感じるのです。たぶん。
あとは先に言ったハナモゲラの影響も確実にあるとは思うのです。やはり思いと響きのバランスであって、思いと響きの結節点が言葉ということになるのだと私は考えます。
その観点から言えば、「まいてく」「まいてゆく」「まいってく」も、響きのほうから生まれたのかもしれません。というか、そのほうが自然な気がする。「大人時代」「大人自体」もそう。「くらすごと」「くらす事」も。
響きから生まれた言葉が、思い(や構成?)によって、少しずつずらされているかのような印象を私は受けます。

シチュエーションが続く歌は「なんで聴いてるの」って、たまに自分でも思います。それは何度も解釈ができるからかもしれません。当然歌として感じ入ったり、心地よいのはもちろん、詞から得られるその時々の考察タイムも気に入ってて、それで何回も聴いてるってのもあります。

「シチュエーションが続く歌」というのは、みんなの心情に訴えかけたり、頭の中にその光景が浮かぶように組み立てていこうとしない歌、と言ったほうがいいかもしれない。
"世界でひとつだけの花"であれば、ずっと花屋の話をしてサビでそれはそれぞれあなたたちなんですよということです。
端的にいえば、"世界でひとつだけの花"の逆、ずっと何かの話をしてて、サビでもずっと何かのことを言ってる気がする、というのが私の好きな歌です。
だからスン…となったとき(冷静に考えると)、なんで私はこの曲を聴いているのか、まったく説明がつかない。
無駄しかないような気もしてきて、じゃあメロディだけ摂取してるのかといえば、それも違う気がして…

さらにこれを逆からいうと、だいたい意味がわかり、だいたいの人に通じる曲に、いったいなんの意味があるのか? という話になります。それで、それを聴いて一体何をしようというのか? 元気をもらう? しみじみする? がんばる? 泣く? 励まされる?

わかるからこそ効果があるし、歌いたいとも思うし、人や金も動くのだと思うのですが、やっぱりそれでいいのか、とか、それだとしんどいというか、なんか直射日光みたいで厳しいみたいな感じのこともあり、むしろ「それってあなたの感想ですよね?」みたいな、ずっと内側から語ってるかのような曲のほうが地味に生きれる界隈もいる、という話です。まあ、なんでこれでなんとなく伝わるんだ!っていう感心とか、それを日々ふとした瞬間に探求することに楽しみをおぼえる層みたいのも、たぶん居たりしてですね…たぶん、たぶんですよ? でもほんと、そういう人間がいるのも確かなんです。
(2/17 夜)

起きましたので、続きを書きます。
最初から歌詞をみていきましょう。

「認めまいとする本位と」いきなり結構文語?というのか、文語ちっくな入りです。一時期よく「文学的な歌詞」とか、アーティストを評するときにそんな言い方する記事がみられたものですが、たぶんこの曲もそういうふうなところがあるように思います。
他にも、この曲には、「ひかれど」「現に」など、ちょいちょい文語ちっくな言い回しが出てきますが、これらはおそらく音に寄った選語がなされており、かつ、意味のほうも順次回していくとなると、どうしてもこういった感じで、言葉のカーブを曲がらざるを得ないからだと考えます。
そういや他の曲でも「宴」とかちょいちょい出てきますね。
でも、不思議と「平安か!」とは思わんのですね。

あと「本位」っていう、なんかこう唇がひっつかないというか、ふがふがした音がくるのが、じゃっかん引っかかるんですが、これは、ねむねむ感というか、起き抜けとか意識の不明瞭さを表現するための技法だというふうに捉えます私は。
音の面ではそうですが、意味の面ではどうでしょうか。
日常において「本位」を単品で使うことはまあまずないのではないでしょうか。そうでしょう、そうですとも。
「本位」というのはもうほぼ「自分本位」とか「品質本位」とか、である。
言ってしまえば
ひとつは「自分」と結合する本位。「わがまま」「自分勝手」に近いもの。
もうひとつは「品質」「顧客」とか、企業が提供する価値や立ち返る原点としての熟語と結合する本位。
こう考えると、少なくともこの曲では、前者が選ばれているように思えるのだが、かといって後者のときに使われている「本位」にも少し目を向けてみる。つまり、ここの「品質本位」「顧客本位」というのは、企業が本質を見失い、人のことを考えなくなることを暗に戒めているから。これはこの曲に少し通底しているように思う。
そもそも「本位」という言葉を芋づる式に紐解いていけばそのようなところに行き着くのであって、そうやって考えていくと、"くり返すは口ぐせと罪悪感"というタイトル回収は、いきなり冒頭から行われていると考えることも可能である。
「認めまいとする本位」という言葉そのものがすでに「くり返す」や「口ぐせ」、ここで少し拡大解釈すれば「言いわけ」のようなものの発生する内心を告白しているからである。

続いて、「真裏のなにもないストーリー」。正直ここはわからん。だって「なにもないストーリー」かどうかは、この曲の話者しか分からないからである。でも自分に引き付けてあえて言ってしまえば、「ごちゃごちゃ考えたり言い訳する割にはペラい」という自己認識、ということになろうか。
あと、楽曲そのものの音で言えば、まず伴奏がない。
いきなり歌い出しで、かつコードもふわふわしてるし、空間音響的にもふわふわしてる気がする! ふわふわ決定!
確かギターしか鳴ってないし、リズム隊も入ってこない。
まあアバンみたいな感じの曲の入りである。

…といった感じですごくふわふわしてる。

「それはなんだか小さいタブレット」。いきなり、冒頭の「自己認識」が、モノとして集約された。これはすごいことですよ。これが言葉の力というものです。しらんけど。
なんか書いててすぐちょけるなぁ、自分って、書いてて嫌になってきた。
死んだろかな。という、今5時半だが、いやもう40も過ぎて、なんか、うーん、歌詞に戻ろう。
で、えーと「小さいタブレット」。一応確認しておくと、この曲はたしか2000年代初頭の曲である。当時はまだ多分、そこまでメジャーなタブレット端末なんかなかったはずである。iPadが出るのが2010年とかのはずなので、この頃タブレットと言えるのはどっちかというと錠剤の小瓶を考えるか、お薬のシートとかを考えるのがいいのかもしれない。
ここでまた、小瓶で考えるか、一錠で考えるかという問題が出てくる。
「小さい」にかかるとするならば、お薬のシートもギリOKだが、どっちかといえば、一錠の小さな錠剤(タブレット)か、錠剤(タブレット)の入った小さな瓶か、といったふうになる。
あとの「手をのばす事は無いようにした」を考えると、ざっくり手をのばして掴み取れるようなものであれば、どっちかといえば、瓶のほうが掴みやすいであろうというイメージは可能である。枕元のメガネとか、そういう小物サイズとしての瓶。たぶん一錠だけだと「つまむ事は無いようにした」になるから。つまむとかダサすぎるので却下である。いや、ダサくはないけど。

あとタブレットが端末かどうかだけど、じゃあここは何か? チェーンの飲食店か? みたいな事になる。ファミレスとか回転寿司とか焼肉屋とかカラオケボックスとか? そんなとこで「認めまい」とか思うか?
いや、思わないだろう(反語)。
でも、無理やり繋ごうとすると、焼肉屋とかカラオケボックスはなんかちょっとセックスに近いような気もしなくないから、その意味で0.01%ぐらいはあり得るというか、無理筋だけどギリ通せるみたいなとこもある。
ただ、時代背景が2000年代初頭なので、その頃のタブレットは焼肉屋にはないだろう。カラオケに白黒のタブレットみたいな予約端末はあったけど、あれをタブレットと呼んでいたかどうかである。というかふつう曲でそんなカラオケの予約機のことをタブレットとかいって登場させるかふつう? といった問題が発生する。

次にこの「タブレット」の性質というか、成分である。
ここはふた通りあるように(私には)思える。
すなわち
毒物か麻薬である。

「起きたらめちゃ喉痛いから龍角散のタブレット飲むかどうかで悩んでたけど、やっぱやめた」「起き抜けの口臭がきつそうなのでブレスケア飲むかどうか悩んでたけど、やっぱやめた」
この説は先に却下しておく。理由は現実的過ぎるからである。

個人的には毒物…
と書いてて思ったけど、3択か。
毒物、麻薬、睡眠薬。

歌詞にある「大人」を邪推して考えると麻薬とか覚醒剤とかになるのかもだが、もう少しドラマとして考えるのならば、毒物か睡眠薬である。
それらに「手をのばす」意味合いについて。
前者「覚醒剤」の場合は「誘惑」であり、後者「毒物か睡眠薬」の場合は「死」である。

結局「手をのばす事は無いようにした」とあるから、それらを飲むことはなかった。もう少し細かくみると、
「無いようにした」
手をのばす事「を」無いようにした
と、みることもできる。
錠剤を捨てたか、
手をのばすような原因を取り除いたか、
最後に当然、錠剤はそこにあるけれども、自分の意思で取りやめたか。

あと、全体のシチュエーションであるが、これは行定監督のMVでもそうだけど、やはり少なくとも、ベッドがあるような雰囲気はする。
これは音のまどろんだような雰囲気もそうだし、「手をのばす」あたりから感じ取れるイメージというか、ぼんやりとした推測とか憶測である。

個人的には、行定監督MVのように年の離れた男女がいるようには思えない。男がひとりで考えてる、というイメージ。でも、隣で女が寝ている場合、つまり実質男がひとりで考えているのであれば、それも通る。
ただ横の女も起きているのであれば、何かしら介入してくる部分が出てくるはずで、自問自答とか決断に支障をきたすから、なんかひとりなのかな、とは思う。でもその前の時間には女がいた(関係した)かもしれないことは十分考えられる。

あとMVのおじさん、若い頃の成分をずいぶん残しているなと思ってしまう。もうあれぐらいの歳になれば溶けてるかわざわざ言わないだろうとも思うのだが、かなり高学歴でナイーブで感覚的なガタイのいいおじさんなのかもしれない(そんな人いるかよと思ってしまう。そんな人おったら、勝ち目ないやん! 別に勝たんでええか)。

続いて、Aメロというのか、Verse1というのか、なんかそんな感じのとこへと突き進んでいこう。

ここもとてもいいですね。「それとなく会えそうなので目をそらす事で促した」。
さまざまなものが凝縮されているように思います。

まずはやはり「会えそう」と「目をそらす」ですね。
そもそも、目をそらせられるならば(きせずして、かまいたちのネタを想起させるような言い回しになってしまった…)、もう会ってるわけです。
会ってないと目をそらして促すことはできないわけで。
もしかして、ZOOMとかですか? ZOOMで会わずに目を逸らして相手の気ぃ惹こうとしてはるんですか? 何してはるんですか?
当時はそんなもの存在しない。

まあ、「会えそう」という言葉には、違う意味が含まれてそうです。もう「会ってる」けど、そこから抜け出して逢い引きする、いや、なんか逢い引き出来そう感が漂ってるっていうか、充満して満ち満ちている雰囲気ですので、気があるのを目を逸らす事であっちの「その気」を醸成しようとしました、すいません。
いや、すいません成分が含まれてるのかは知らんが、なんとなくこういう意味だろうみたいなのを意訳してしまった。ネタバレ回避の人はブラウザバック推奨。私の勝手な妄想だけど、読んでイメージが変わってしまうのがムカつくという心情もわかるけど、私はそれでも人の解釈が読みたい。だからこそ書いている。

まあそんな感じである。私は素で視線恐怖なので、この目を逸らすのはもっぱら気を惹くためではなく、回避行動であったり、視線がもし胸のほうにいったらもうこの社会で生きていけへんどすえー! みたいな危機感によってもう何も見られない…生きていかれへんどすえ…といった苦悩を抱えながらのサラリーマン生活、苦節20年。なんだかんだで生きていけるもんですね。無理ゲーだと思ってたし、今でもたぶん勘違いされてキモがられてる気もしますけど、もうええねん、どうでもええねん。どうでもってことはないけど、まあ今までやってこれたからこれからもやっていけるでしょう、ハートは傷つきまくってますが、もう死にたみの常時接続でだいぶ麻痺ってきましたのでー!

といった感じで、隙自語もちょいちょいしていきましょう。そのほうがお互いのためです。文章なんかノリで書くのが一番楽しいわけで。
ええと話を元に戻しましょう。「促した」いいっすねぇ。
「促した」歌詞で「促す」って、あんまみないっすよな? な?
まあ確かに促したんでしょうけれども。
いやー、やっぱ歌詞に動詞があると興奮するし、しかも読み仮名が3文字も入るタイプの動詞ですからね。
「うなが」す
ですからね。これはすごい。興奮する。歌詞に出てくるところが興奮する。テレビであんま見ない表示が出てきたときぐらい興奮する。

やっぱり「ない」「ある」「いう」「いる」「思ってる」「考えてる」って、なんか、動詞史上最弱じゃないですか。結局なんもしてへんやん、みたいな。ああ、あと店員さん。「信じてる」「愛してる」「祈ってる」も追加でー。かしこまりー
こういう言葉を歌詞に使ってる人間(作詞者)もそうだし、歌詞の中の登場人物の行動履歴としても、「結局何もしとらんがな」っていう、どっちも怠けてるような感じがプンプン臭ってきて、最低な気分になる。←この「なる」も「陥る」とかにすると、読み仮名3になるわけで。あと、「行動履歴」も「行い」にしたら、読み仮名3を獲得できますね。
そうやってちょくちょくお野菜を摂取していきませう。1階ぐらいなら階段でいきませう。
なんだ読み仮名3て。
でもなんか読み仮名3を繰り出せると、なんかちっちゃい黒閃(呪術廻戦参照)出せたようなちっちゃな快感を伴う…(きたー!)

だから、歌詞を考える人は、もっともーっと頭を捻って、音と意味と日本語をこれでもかってぐらい絶妙に繋いで、いい歌を作ってほしいと思いまーす! しらんけどー

うちな、なんか、羊文学とか好きやけどな、二番の歌詞でちょっと怠けてるんちゃう?って、ほんまちょっと、ちょっとだけやで? ほんまにちょっとだけ、思ってまうときあんねん…

あとついでに言わしてもらうとな、きのこ帝国のラプスとかもな、「誰かを信じたい それだけなのに」っていう「それだけ」っていうのが傲慢に思えて、なんで「誰かを信じる」ってことが、「それだけ」ってみくびられてんのか、わけわからんねん… 歌はいいねん、けどそこだけ引っかかんねんか…
勝手に引っかかっとけって? 理解

話を戻そう。
次、「エンドロールまでも追いかける」
やっぱり「ドロールまでも追い」のところの舌の動きの輪廻っぽいところが気持ちいいのではないでしょうか。そのための「エン」であり、「かける」である。そして意味の側面から見ても、これはもうウザかったらとことんウザいやつである。

たぶんだけど、映画館じゃないと思う。家でDVDかビデオかなんかを一緒に見てて、最後の最後まで見て、帰れなくなりたがっている感じ?
「いつになく腰も重たそうに」も含めて考えると。
まだ帰りたくない。脈はあるはず。
というか一行でかなり関係が進んでるように思われますが、いかがでしょうか。ダイジェスト版かなんかでしょうか。

あと「腰も重たそ」の「お」の発音の連発もすごいですね。ちょっと言いにくい。
「こ」「も」「おも」「そ」ほとんど「お」になってます。「ももたそ」と歌ったほうが楽になれそうです。

Bメロです。「椅子の色には今のシャツとつながってる様にと」

なるほど、わからん。

ここは正直お手上げですが、こここそが噛めば噛むほど味が出てくるゾーンですぞ! これを捨てるなんてもったいない!

その次も出してみましょうか。

「椅子の色には今のシャツとつながってる様にと
 いてもいないと いなくていいと
 言われたもとになってる」

ふぅうぅぅー、ちょっと一旦、落ち着きましょうか。

(朝食後)

はい、落ち着きましたでしょうか。では続きを始めましょう。

「椅子の色には今のシャツとつながってる様にと
 いてもいないと いなくていいと
 言われたもとになってる」

どうする?

何からする?

まず「もと」から、いきましょうか?
「言われたもと」だから、原因って感じでしょうか。
そして「言われた」は「いてもいない」「いなくていい」に
係ってるように思われます。たぶん絶対そうです!
でも、「あなた、いてもいないよ」と言う人はまず存在しないでしょうから、この台詞は、話者による改ざん又は省略が行われていると推測できるでせう。要約、大意ですね。もっと細々した諍いによる長々しい口論はあったのでしょうし、もしかしたら一方的に言われまくったのかもしれませんが、AIで要約すると「いてもいない」「いなくていい」との結論が出たわけですね。

まあ「いなくていい」は分かるけど、「いてもいない」って何ー?

これはあれですね、心ここにあらずな人とかが言われそうなやつですね。「あなたここにいても、いつも別の人のこと考えてるのよ!」みたいな系統のやつですね。もうそういうことにしましょう。

次、「もと」です。
この「もと」はどこに係っているでしょうか。
ええ、そうです。
「椅子の色には今のシャツとつながってる様にと」です。

もう単純に、ここまでくると当事者しかわからんだろうレベルな気がしますね。
おぼろげながら、かつ無理やり解釈していくとするならば、こうはどうでしょう。
まず、椅子の色と同じ色のシャツを着てる(気がする)。
つながってる様にと。
「様にと」もかなりの難関です。ここには願望が含まれてるように思えるからです。

もし仮に、これがすべて話者の目線だとすれば、椅子の色に因んだシャツを着て繋がっていようとしたけれど、逆にそれは「あなたは要らない」と言われた原因にもなっている。
みたいな感じになるんですけど、いかがでしょうか。でも、これはふつうに考えて、ちょっとおかしい。
椅子の色と今のシャツを自分と相手に伝わる符号にした(けど、何かがあって)、「いなくていい」と言われた原因になってる。けど、言われたもとが、椅子なのか、シャツなのか、それらを符号させたことなのか、という部分や、「もと」の程度、つまり、それきっかけでちょっとずつギクシャクしはじめたのか、そのこと自体が決定打だったのかも不明である。
もっと自由に大胆に拡大解釈すれば、今でいうところの「匂わせ」をやってしまったのかもしれないですね。
でも、どれもしっくりとはこない。先に書いたように、かなりパーツが抜けてるし、二、三、文脈自体も捻れてるような気がして、すわりが悪い。
文脈を補う必要があるように思いますが、曲はもうこのようになっていますから、もうこのある言葉の中で考えていくしかありません。
この補い方の候補を頭の中で挙げて、何度も考えるのが楽しいって、言っていいのかわかりませんが、いつまで経っても解けないのがいいんですね。

だから、もう一度書きながら考え直してみましょう。
「椅子の色には」何色なんでしょうね。何製の椅子でしょうか。ダイニングの椅子かな。
私は、白、木、リビングかダイニング。
「今の」ここで、椅子は今より前、昔に買ったことがわかります。どれぐらい昔かは知りませんけど、めっちゃ昔ってことはないのかなって感じ。
「今の」「シャツと」
ここですけど、「シャツの色」とは言ってないんですね。あくまで「今のシャツ」です。椅子の色には言及してますけど、その色には言及してない。今のシャツとは言ってるけど、シャツの色には言及してない。
でもおそらく、椅子の色と今のシャツは、なんかしら関係してる。
椅子とシャツが必ずしも同じ色である必要はないが、つながってると思えるための共通点を見出すとすれば、色、買ったタイミングぐらいしか思いつかん。

「椅子の色には」
「今のシャツと」
「つながってる様にと」
でも、これは話者側の都合というか、願望である。
そこにピシャッと、投げつけられた言葉の要約がくる
「いてもいない」と
「いなくていい」と
そして、また話者の視点
「言われたもとになってる」に戻ってくる。

このあいだの時間経過は正直わからない。全部終わった話であるのはうすうす感じる。
時系列としては、タブレットに手をのばさなかったときから一旦遡って、出会いの経緯から語り出し、急に別れの原因までとんでいるように思える。
そして、この関係の期間とか、別れの原因や、別れがいつ訪れたのかといったことは、まっっったくわからない。

道に迷う人はランドマークの目の付け方というか覚え方が間違ってるみたいな話を聞いたことがあるが、この歌詞にも、ある意味そんなところがある。

けれども、そんな覚え方のほうが寧ろ細部が鮮明になることもあるのが、言葉の面白いところなのだと思う。意味がわかればそれでいいってわけじゃないし、わからなくても全然いい、むしろそっちが残ることが不思議だし魅力的であることさえある、それが言葉のいいところであって、目的さえなければ、道を間違えるということがない。

というか、そもそも「別れた」なんて、どこにも書いてないのである。「別れた」はものすごくディティールを省いた末の結論であって、それはたくさんの人が行き着く言葉の集約地点だから、「別れ」を言葉として書いちゃえば、たくさんの「別れ」を経験した人を囲い込めるわけだ。
でも、それでいいのかって話。そのために捨てたもののほうがよほどいいやつだし、別れという音で処理してしまうと、他の部分もその解像度で書かなきゃいけなくなるから、結局、全体がたくさんの人に引っ張られて、ものすごく真ん中の歌になってしまう。
時々、所得の平均値・中央値といった言葉を聞くけど、真ん中の歌詞は、どっちだろうか?
個別具体的な所得を語る方角からやって来て、なぜか普遍的なものにたどり着いているかのような歌のほうが、私は好き。

話を戻すと、Bメロの歌詞はやはり最終的には「わからない」わけです。でも、「いてもいない」「いなくていい」と言われて、まだ関係が続いてるとは思わんわけですよ。そこに「別れ」を感じはするけど、そこには何色かもわからない椅子とか、着ている人しかわからない今のシャツとかが挟まれていて、さらに話者の願望「つながってる様にと」までも差し挟まれていて、もう他人が口出しできる状況じゃないわけです。だから、いつの話なのかも、どういうことなのかもわからない。漠然と感じとることができるだけです。
「(自分には)関係ない話じゃん」「わかんない」と、突き放してもいいのかもしれません。
じゃあ逆に今、中身がみっちり詰まってると思ってる歌詞思い浮かべてそれをいっこいっこ冷静にあらためてみてください。ちゃんとありますか?

いや、こういうことをしてはいけないのかもしれない。
かもしれないが、あえてやる。
上記リンク先から、歌い出しだけを拾い読みしていってほしい。

私にはこれは耐えられない。この世界では生きていけないと思う。厳しい。

じゃあ、これはこれで、逆に「どういうことやねん」と思わなくもない。
全体的に江戸を感じるのはなぜだろう。

いや、でも、みてくださいよ! "プライベート"の歌い出しとか!
「緑で覆いた床が頬に光」っ…! これだけでもうっ…! なんか、イメージというか、なんか、わかるじゃないっすか!
しかも「覆いた」って何ー!?
聞いたら全然ちゃんと聞こえないし、なんて言ってるの? これはいったいどういうことなのだろうか?
いやいや待て、"プライベート"の白眉はむしろ歌詞ではなく、敬吾さんのいぇ〜いではないのか!?という異論はさておき。

じゃあそろそろサビにいこうか。ちなみにBメロの「〜もとになってる」の"u"と、サビ頭の「旨いTomorrow」の"u"は、聴いてる限りほとんど繋がってる。

「旨いTomorrow」

田原総一朗 AA

「旨いTomorrow」とは何か? かなり絶妙なニュアンスである。まあ音からいってる感じはすごいするけど、意味からみてもかなりおもしろい。単純な気もするけど、なかなかない。全然知らんけどmihimaruGTとかのDJパートで出て来そうなワードな感じ。
「旨い」は、みなさんどんな感じだろうか? ジューシーな肉なイメージ? 要領のいい生き方? マネー? 気持ちいいことばかりが続くような感じ?
「Tomorrow」は、もう、明日っすよね… アニーと岡本真夜しか思いつかない。まあけど今日とか昨日に対する偏見がすごいよね人間て。
まあ確かに明日はまだきてないから色々託せるんだけど。もうちょっと昨日と今日を上げて、Tomorrowを下げるような歌があってもいい気がしますね、ぼくは。
Yesterday Once moreとかはそうなんですかね。ああいう、どストレートな過去賛美曲を政策としてもっと増やしていかねばならない気はしています。

「現に今でも」 …なんか、意味被ってない?と一瞬思うけど、さらに
「灰のどこかにあって」ときます。
「旨いTomorrow」が「現に今でも灰のどこかにあって」と歌ってるわけです。
「現に今でも」と言いつつ、「どこか」なんかいっ! とツッコミたくなる気持ちを抑えましょう。
「現に今でも」「どこかにあって」なんすけどー
「鳴ってる」んだもんで、
「旨いTomorrow」が、どこらへんから鳴ってるかが、よくわかんないすよねー
ということである。

じゃあこの、「旨いTomorrow」が鳴ってるという「灰」は、なんなんでしょう。タバコの灰とかでしょうか? じゃあ灰皿にある灰の中で「旨いTomorrow」がなんか鳴ってるんでしょうか?
鳴るって、どういう感じで鳴ってるんでしょうか。灰皿でタバコの灰がリーンと鳴ってるんでしょうか。

なんか全然違う感じがしますね。もっとイメージな感じがします。
比喩っていう感じもしますね。
特に「灰」や「鳴ってる」とかは。
まあ「灰? 灰は鳴らないよ?」と素で返してもいいのだけど、もう少し置き換えて考えてみると、灰というのは終わったというか、燃えた後のものです。そこから鳴ってるというのは、なんか聞こえるわけです。
炭(灰なんだけど)がいこってくすぶってるようなときの、少し爆ぜる感じなのかもしれませんし、
あるいはもっと抽象的なのかも。
個人的にはスタジオとか楽屋の灰皿みたいなとこをイメージしちゃったんですけど、そうとも言い切れない理由として、岩瀬敬吾さんん歌詞って結構アウトドア派であり、それでいて抽象的な「草原」「土」が時々出てくるので、どっちともつかない部分があります。
まあとにかく、何がとは言ってませんけど、まあ文脈的に「旨いTomorrow」への糸口が、灰のどっかしらで、今も目の前で鳴ってるっぽい、という感じですね。

岩瀬敬吾さんの歌詞ではよく咲いたり鳴ったり開いたりします。動詞の豊かさに触れることができます。

次が、
「くらすごとにまいてく」。
ここは、歌の流れで言うと「…鳴(っ)てる/くらすごとに…」と続く感じになってます。
全部ひらがなキタ。「暮らす」「クラス」「くらす」…
「暗す」…は無理あるか。
なんとなく「クラス」も違うかなーってことで「暮らす」だろうと。
「ごと」。「毎」だろうか。
「クラス」「事」で、「クラス行事」と読み替えることも可能だけど、めちゃくちゃ無理あるだろう。
やっぱり灰のどこかで旨いTomorrowチャンスが鳴ってるんだから、自然な流れだと「暮らす毎に撒いてく」かな?ってなる。
でも、「まいてく」は怪しいというか、
後ろにある「ゴミの様な大人時代をまいてゆく」とセットで考えると「撒く」のが自然かなという程度で、確信はもてない。
結局、最終的には原文(ひらがな)に戻すしかないのだが。

あとは単純にハナモゲラ語で作っていて
"Uh My Tomorrow … My take"というくだりに意味を当てこんでいったということも考えられる。その場合でも、歌詞の前後と曲全体のイメージと齟齬をきたさないように選語されるので、極力、音を崩さずに語を選ぶとこのようになるのかな、という見方も可能かもしれない。

そういや思い出したし、ソースも不確かなんだけど、レコーディング中、敬吾さんがこの歌を歌いながら「いい歌だなぁ…」って呟いたっていうのが、まことしやかにネットに流れてて(それ信じちゃいけないやつじゃん!)、まあそういう不確かな情報もありますよって余談。あれはなんだったんだろう、雑誌とかの情報なのかな?

話を戻して、ここから間奏に入り、Cメロ?っていうのかな。詳しくないから知らんけど。
「くり返すは口ぐせと罪悪感
 その場じゃ毅然と耳痛んで」

まずはタイトル回収。なんか、個人的には「ノイズとため息」と対になってるように思う。罪悪感の「ざいあっ(く)かん」のとこで音が跳ね上がるというか、裏声?になる。
じゃあこの「くり返すは口ぐせと罪悪感」について考えてみよう。

くり返すは口ぐせと罪悪感
その場じゃ毅然と耳痛んで

これは全人類共通なんじゃないでしょうか。

ダメだ…疲れた。ここで一旦筆を置く
(2/18朝)

続き。

そういえば、最初のほうで「それはなんだか」に触れてなかった気がして、一旦そこに戻ろう。
「それはなんだか小さいタブレット」の「それはなんだか」である。
この場合の「それ」は前文を受けてのそれである。
問題は「なんだか」である。そこ(手をのばせば届く範囲)にあるということは、自分でわかってるはずだ。寝ぼけてるんですか?
寝ぼけてて、かつ、前文の「本位」と「ストーリー」の2点を自己認識した結果が「なんだか」(よくわかんないけど)小さいタブレットになってるっぽいすね〜、といった感じだろうか。まあ自分の心をモノに置換するのだから、多少のズレは生じるのだろう。

さて、ここからラスサビである。一旦ドラムがなくなったサビのあと、転調して、そのままなんか坂道を転げ落ちていくような感覚のアウトロとともに「くだって」いくわけだが、疲れてきた。一旦並べてみよう。

旨いTomorrow 現実にひかれど灰のどこかにあって
鳴ってる くらす事にまいってく
ゴミの様な大人時代を

(転調して…)

旨いTomorrow 現に今でも灰のどこかにあって
鳴ってる くらすごとにまいてく
ゴミの様な大人自体をまいてく

くらすごとにくだって
逃げることにくだって

くらすごとにくだって
逃げることにくだって

逃げることにくだって

(アウトロ)

こんな感じになってるわけだが、いかがだろうか? ってなんですか。

いやしかし読めば読むほどわからない。いやわかる気もするしわからない気もする。けどゴミのような大人時代ってよく言えるなぁっていう強さは感じる。
やっぱり大人時代ってかなり広いですよ範囲が。前半以降全部みたいなとこありますからね。いや前半じゃないか。1/5? 1/4? しらんけど、そんぐらい。あと残りの4/5とか3/4は全部ゴミです、と。いや、ゴミの様だと。
相当辛辣ですね。New Standardの時もかなりキツい言葉が並んでた記憶もありますが。
もう「ゴミの様な」が一番気持ちが乗ってるかのような歌い方ですからね、そういうふうに、つまりそこが気持ちよくなるように、声も気持ちもノるように作ってあるんだと思うんですけど。特に転調してからのゴミのくだり、相当に感情入ってるような気がするんですけどいかがですか。

旨いTomorrow 現実にひかれど灰のどこかにあって
鳴ってる くらす事にまいってく
ゴミの様な大人時代を

旨いTomorrow 現に今でも灰のどこかにあって
鳴ってる くらすごとにまいてく
ゴミの様な大人自体をまいてく

転調前と転調後のサビを並べてみた。
違うとこは
「現実にひかれど」→「現に今でも」
「くらす事にまいってく/ゴミの様な大人時代を」→「くらすごとにまいてく/ゴミの様な大人自体をまいてく」

まずは「現実にひかれど」からだろうか。「ひかれど」は全編ひらがなである。私が真っ先にあてた漢字は「惹かれど」だが、
それ以外にも「ひかれど」候補はたくさんある。引かれど、光れど、轢かれど、弾かれど、退かれど、魅かれど、曳かれど…

なんか「轢かれど」はちょっとギャグっぽくなるから困るが、それ以外はそんな悪くないような気もする。
最も「現実にひかれど」ポイントが高いのはどれだろうか。
これは古語っぽい気がする。検索したら、已然形の「れ」に逆接確定の接続助詞「ど」がくっついてるみたいなYahoo!知恵袋を読んだ。已然形で検索すると「すで(已)に然る形」という意味らしい。
じゃあこの場合は、「現実にひかれてもうてるけど」といった意味になろうか。続く「灰のどこかにあって/鳴ってる」のは、前を受けた場合、「現実ではないもの」ということになる。ただ、それは単純に「夢」だろうか。
夢という言葉はここには一切使われていない。ただ、現実にはひかれてしまうけど、「それとは違うもの」が、灰のどこかにあって鳴ってることを示唆しているだけだ。
「くらす事にまいってく」。ここは、「現実」に繋がるかもしれない。でも、「くらす」も「まいってく」も、ひらがなである。
いや、でもここはもう「暮らす」と「参ってく」でしょう、とも思う。
ざっくり言えば「生活にくたびれていく」「日々に過ごすたびに、妥協して諦めてく」みたいなニュアンスを、私は勝手に感じ取ってしまう。
別サビにあるはずの「ごと」が、こっちのサビの解釈にも影響してくる。というか、「くらす」に係る「事」や「ごと」は、ほぼほぼ似たニュアンスになる気もする。どちらも、日々の生活のこと、毎日のことと捉えても、差し支えないようにも。でも、そこを変えてるのは、やはり(意味か音か、どっちの要請かは分からないけれども)理由があるのだと思う。
「ゴミの様な大人時代を」ここで一拍? 空く感じになって転調するわけだけど、ここ動詞がないので、
「ゴミの様な大人時代を。」で止まってもいいし、ちょっとだけおかしくなるけど、「ゴミの様な大人時代を/くらすごとにまいってく」の倒置法でもいける。
そういや「ゴミの様な大人時代」になった理由は、特にこの歌の中では聴いてないである。
正直AメロBメロCメロの中に、サビに繋がる部分があったかと言われると、よくわかんない。あくまで気分で繋がってる気はする。「ぶっちゃけもううんざり」みたいな感じ。
でも曲の終わりはなんか明けてくような感じがする。毎回不思議な曲だなーと思う。

「くらすごとにまいてく」「ゴミの様な大人自体をまいてく」になると、もう、そういったゴミごと振り解いていこうとしている。だが、一気にとか、一発で、という感じではない。「くらすごとに」であるから、あくまで生活で、日々の中で、撒いていかないといけない。一発逆転とかはないのである。なんか難しい話だなーと思うけど、現実的ではあるけど、現に今でも灰のどこかで鳴ってるわけなので、それを信じて撒くわけである。

そして最後アウトロに向かう。いや、アウトロって言ってるけどあまり意味が分かってない。歌っててもアウトロなのかとか不安なまま書いてる

くらすごとにくだって
逃げることにくだって

くらすごとにくだって
逃げることにくだって

逃げることにくだって

ここもかなり難関です。
さっき「くらすごと」はある程度、勝手に解明した気になってた私ですが、「くらすごと」と「くだって」のコラボに至ると、また一気にわからなくなってきます。
そもそも「くだる」は言うけど、くだるの前に「ごとに」とか「ことに」って付く文章を私はあまりっていうか、ほとんど見たことがない。詩で時々、そういう系の言葉には出会うけど。
「名詞」+「する」のパターン。これは、感覚的に、何かイメージが静止したような、また感覚を繋ぎ変えるような効果を生む気がする。

原口昇平さんの殺戮の時代にある

骨のまるみを殺した
球形の女の小鳥がする

であるとか、鈴木志郎康さんの月にある

(ごめんなさい、これは主語と助詞が変なパターンでした。あと手淫とか出てくるからやめとこうかなと思ってしまいました)

といった感じである。岩瀬敬吾さんの歌詞にはちょいちょい助詞それでいいのか、それとそれを繋ぐのかといった不思議な日本語が出てくるけど、独自の説得力とゆるされ力をもってしてそれを歌に定着させてるし、それが魅力にもなっている。ふつうはなかなか出てこないやつである。

ここを「(軍門に)くだる(降る)」と取るか、普通に「下る」と取るか。
あれ、このくだり、俺、一回やってないか?

まあいいか。

軍門でも、下るでも、どっちでも、まあいいのかもしれない。
精神的な降伏であっても、位置の移動でも。
くだるということは、どっちにしろ、今より変わるということに変わりはない。なんとなく、離していく意欲のようなもの、ふんぎりのようなものは感じる。漠然と。

あとは、余談というか、カップリング曲の"ラウンド"についても考えてみる(てか、勝手に思いつくまま書いていく)。
ラウンドにも、「宙に浮かんだりして」とか「つらくない登りはくそだ」といった、位置関係の話が出てくる。
ドライブカーでもそうだけど、なんか「泳がずに浮かぶ事の練習」とか、なんか、「なんかのこと言ってますよね」っていう詞が多い。
そして、それがあまりふつうの歌ではお見かけしない熟語とか動詞で語られるのがとても面白いし、なんか身にちょっとだけつまされるシチュのようにも思えるし、岩瀬敬吾さんが置かれた境遇に重ねることもできるような気がして、そういうところにずっと惹かれてるわけですね。

特に1stはなんか明らかに自身の状況を歌ってるように感じる詞も多いわけですね。"耳鳴りがした日"とか。あと、ついでに言えば、岩瀬敬吾さんの使う比喩での位置の上下や移動というのは、だいたい「音楽業界」とか「売れる/売れない」みたいなものの、相対的な位置付けのように読めることがあって、"口ぐせ…"も、そういったものを振り切るための「まく」であったり「くだって」である、というふうに読むことも可能かと思います。

さいごに

いやー、こんな適当に書いてるうちにもう2万字超えてて、読んだ人すみませんね大したこと書いてなくて。時間無駄にしたとかいって怒らないでくださいね。それぞれに解釈とか、音楽の聞き方とかあると思うので、それぞれで書いてほしいなぁというのが私の率直な気持ちです。もう疲れてしんどいので、そろそろ終わりにします。読んでいただきありがとうございました。

(2/18昼過ぎ)



追記。ふと、なぜ私はこの歌を男女関係の歌だと思ってるんだろう、という点について。全体をみてみると、そういう感じの部分と、それとは関係ない部分があるように思います。
曲の前半とCメロは男女のように思え、サビは全然関係ないというか、もっと大きな括りの話のような感じがします。
すごいざっくり言ってますが。
じゃあなんで前半が男女なんだろう、どこでそう思ったのだろう?

やっぱりAメロの、目をそらして促したり、エンドロールまで見て帰りたくなさそう(どっちが? これは男でしょ)みたいな偏見で読んでるからですね。
でも、もしかしてこれがバンドとかデュオの結成とか解散の話で、相手男の人で…っていうふうに、置き換えれる気がしなくもないわけですね。でも、そこまで近づけてしまうとなんか違うかなって気はするわけですよ。
あ、あとエンドロールを家で見てるのか映画館で見てるのか。
私は家派ですけど、映画館もあるかもしれないですし。
でもあとの椅子が出てくるところでやっぱりシャツの色と繋げれるのは家だからこそだと思うんですけど、まあ家じゃない可能性もなくはない。
というかそもそも誰の家やねんて話でもある。

最初の歌い出しのところもホテルかどっかのベッドのサイドテーブルとかにありそうな距離感じゃないっすか、小さいタブレット。

まあこんなこと書いても真相はわからないわけですけれども。別に真相を探るわけじゃないですね。できる範囲で、ちょっと越えつつも、いろんな解釈で組み替えてみて、こうもいけるなとか、もしかしてこういうことでは!?みたいな感じで聞き入りつつ考えつつみたいなのが好きなんです、私は!

以上!


しゅーりょー


もうこれ以上 書かへんでー





(以下、その他メモ断片)
晴れた午後の住宅街の坂道、下り坂で、逆から撮ると電柱とかがよく見えるようなそんな場所のイメージ。そこを自転車、な感じ。でもそれは現実のイメージではなくて、心象というか、あくまで概念のような
そんな感じ

転調すると、眠そうだった全体がアウトロで輝きだす感じ。

そういえば「好きだなぁ…」だったかな。「いい曲だなぁ…」だったかな。レコーディング中の敬吾さんのひとこと。



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