ブルーレイへの道のり2

今日も仕事から帰ってさっそくBDレコーダーをいじったり取説のPDF見たり価格ドットコムの口コミとか公式サイトのチャットボットに訴えかけたりしてみた。
しかし、わたしが困ってる問題を解決してくれることはなく、最終的に「電源ボタン長押し」という、古典的な方法で内部的なリンク状態を強制的に解除することで、22時すぎ、やっとブルーレイを見ることができるようになった。人生初BDである。Coccoのカウントダウン音でかっ!
音量17でサビでびっくりして慌てて音量を下げた、14とか? そのへんまで
それでそのまま雲路の果てあたりまで聞いて、もう23時ごろなので寝ようとなって寝た。

ここでまた問題が発生し、スマホでテレビが見れる機能のほうが使えなくなった。アプリを消してみてまた入れたら使えなくなった。
これもなんかサーバーを再起動すると直るっぽいのだが、もうええわってなって寝た。

1/18
あさ。今日はペットの動きが倍速なのでなんだろうなと思いつつ膝に乗ってきたのを撫でながら「タイパ意識してるのぉ〜」「意識高いの〜」とか言ってる。Z世代かとも思ったが、去年の3月生まれなので、Excelの列で言えばAA世代とかAJ世代とかになるのかもしれない。
とにかくペットと話すときは語尾が伸びる。「君みたいなやつはもうハウスや」と言ってるときは西川のりお、「そうなの〜」「ハウスしようぜ〜」とか言ってるときは彼女と昔しゃべってたときの口調とか彼女のお母さんが猫と喋ってるときの口調が入ってる。
彼女のお母さんがこたつで猫を撫でながら「そうなの〜」「にゃぁなの〜」とか言ってるのを聞きながらこたつに入ってるときはお母さんとわたしのハブが彼女になるので、彼女が風呂に入ってくるとか自由に動いてるときは内心(おい!)と思いつつ、お母さんとふたりでこたつでテレビ見てた。猫が甘えたでよくお母さんの膝下にいて撫でてもらってた。そのときの口調で今ペットとしゃべってる。「そうなの〜」は彼女も実家で猫いじってるときはよく言ってた。だからわたしもペット撫でるときは何も言ってなくても「そうなの〜」と言ってしまう。
「ハウスしようぜ〜」は、元は「エッチしようぜ〜」である。そういえばムーディーになんとなく気分が高まってキスしてまさぐって、っていう、なんかドラマとかで見るようなセックスはなかった。帰ってきたらどっちかが「エッチしようぜ〜」と宣言し、いつものように過ごし、夜になったらするという感じだった。実際する段になって、どちらかが「今日は無理〜」と言えばその日はない。あとでよくなったり、OKしてもあとで無理になったりというのもあった。

そういや毎週日曜朝はラジオを聴いていて、確かAMで、音楽をランキング形式で紹介していく番組だった。そのあとに三宅裕司のラジオもあって、続けて聴くのが日曜の午前中のルーティーンだった。
たぶん、7時ぐらいは所さんのメガテン的なものを見て、8時ぐらいから6チャンでアニメ見て、9時ぐらいからラジオ聴いて11時になって…っていうのが基本の流れだった気がする。
で、母は8時ぐらいから掃除機をかけてブラインドから差し込む光で埃がチンダル現象みたいにキラキラしてるなかでたるるーとくんとかを見てた気がする。掃除機うるさかったけどうるさいとか言ったことはなかった。なんか思ったことを言った記憶がない。今にして思えば、そういう発想自体が当時はなかった。ほしいとかうるさいとか、思ったことが言えるのはむしろ弟だった。それで母のMっ気が刺激され弟ばかり願いが叶うことに「なんなんだろうこの家族は…」とおもってた記憶がある。つまりわたしは小さい頃に見ていた母のどんより具合が身に沁みていて、何かを要求したり本心で訴えたりすると倒れて死ぬんじゃないかみたいな気持ちが強かったのかもしれない。
そういや今朝のニュースもラインナップで「母が子を殺した」と「子が母を殺した」が連続で流れてきて「あれ?」ってなる。

9時か10時ぐらいから聴いてたラジオのランキングでCoccoの雲路の果てのことを「うんろのはて」と読んでて、その次の週で「くもじのはてでしたスミマセン」みたいなお詫びがあったのを覚えている。
だから私も一週間ほど「うんろのはて」だと思ってたことがあった。

言ったら死ぬと思ってた母はぜんぜん死ななかった。彼女はしょっちゅう死ぬ死ぬ言ってた。別れたあともぜんぜん死ななかった。母も別れたあともぜんぜん死ななかった。実家は更地になった。
住んでた場所の更地を見ると、地元の昔の友達に「俺の家って、実はこうだったんですよ」と言ってる気になる。あとあんだけいたネズミやイタチはどこへ…というのも気になる。まあ明らかに周りの家に住処を求めて引っ越しされたのだと思いますが、まあ健康に過ごしてほしいものです。

そういや実家の記憶はほとんどないと書いてみて、よく考えたらさっきから実家の記憶をえんえん書いてるじゃないかと思う。
でもなんか今の感情と紐づかないというのか、それで何か今の感情が湧き立つようなことがない。
記憶としては書き出せるけど、情感をもった何かとして書き出すほど、登場人物に肩入れできないし、そうなるように人に説明したり、文章を組んだりする気も起きない。ただ思い出した順に思い出したことをつらつら書いていくということならできる。そこにまりちゃんさみしかったー!とか、感情はついてこない。
「こういうことだったんだろうな」というふうにしかでてこないし、実際当時はさびしいこともつらいこともなかったのだ。かといって嬉しいこともなかった。ただ当時は何か焦ってた記憶はある。
で、その「焦り」というのは、そのあと出てきた少年事件でたびたび聞く「広汎性発達障害」という言葉によって時々ひっかかるぐらいだった。自分ももう少し何か掛け違えがあればそうなっていたかもと思うことが多かった。そしてそれは単純に、あと1年遅く生まれていたらとか、あと2年遅く生まれていたら(事件を起こす子供になっていたかも)というふうに想定できた。

不感で焦っていた。焦りというか緊張か。精神的なものからくる頻尿(気のせい)でしょっちゅうトイレに行って、正露丸やビオフェルミン飲んで腹痛を抑えていたのが中学か。
小学校の頃は布団に潜って天井を見ると平衡感覚がなくなって天井がぐるぐる回り、ドーンという音とともに床が抜けて落ちる感覚が何回も続いた。あとは時々朝、急に息ができなくなって親と一緒に走って物干し台に行くと治るみたいな、外の空気を吸わないと過呼吸みたいになることもあったが、いまいち親も私も意味がわからなかったので放置というか、まあふつうに学校に行って、自分も不安や緊張や焦りを感じてるのもわかってなかったので、そのまま過ごしていたし、周りもなんか今思えばそういうふうに接してくれていたので、おそらく自分にとって幸いだった(正確に言えば、「幸い」ではなく、「少年事件にならなかった」のは)、親ではなく、周りがふつうに「おくれ」に対し、チューニングできていたからなのだと思う。それは地縁というか学区というか、幼稚園の頃から一緒の人間関係が中学までほぼそのまま続いたからで、幼稚園の頃から、
そういえば「変身すぐ泣くマン」っていう絵本?あったよね
ほんとに何きっかけかわからないことで泣いてたことがあったから、周りもなんとなく「こいつはちょっと変だぞ」となり、それが石を投げる方向ではなく「保護せねば」という対象になって、要は取説的に、小学校や中学校で少しずつわたしを知らない人が入ってきても、昔からの友人らが守ってくれたり、どう扱うのかそれとなくわかるようにしてくれていたのだと思う。
だからこそ私は高校で完全にバグってしまったのだろうとも思う。
高校になると進路が関わってきてこれからどうするかで選ばなくちゃなるのであって、当然わたしのバリアはなくなってしまう。わたしのソーシャル視力の低い家族はあてにならないし、周りはみんな進路に向けて別々の高校に行ってしまった。となると私はついに直面し、緊張が限界突破して頭から吹き出しが出てきて破瓜型みたいになり、まあそこからの人格のコーハイがゆるやかに今に至ってる、という見方もできる。
でも実際、これは一直線にすぎる。まあ、もう少し色々あった。色々あったけど、今にして思えば、こうなるのも既定路線だったような気がするのだ。

家族には恵まれなかった(と私には感じられる)が
地縁や人に恵まれ、少しだけ先に生まれ
ちょっとだけ薄まった広汎性発達障害の人間が薄まった破瓜型の精神分裂病の人格荒廃を緩やかに受け入れている人生、という見方。

「少しだけ先に生まれ」の補足というか、自分がどう思ってるか書いておくと、要は「めんどくさかった」ということである。なんか不良とか親戚とか祖母とか、ほっておかない人が多かったというか。なんかこれだと古き良きっぽいから、もう少し砕けた言い方にすると、よかれあしかれストレートにいく要素が低かったというか。
まあ悪いほうに転ぶ確率もあるとはいえ、パチンコで言えば釘が多いというのか、不確定に弾かれる要素が多めだったから、それより遅く生まれると、おそらくもう少し釘が減ってストレートにわたしは、のちにある種の少年犯罪を犯す「幼い人」みたいになってたんじゃないかと思う。だからひとごとと思えなかった。具体的には当時よく長崎で起こってた事件である。
ああいう事件を見るたびになんかストレートに行ってしまった人、と思ってた。といっても私も彼らより少し年上なだけで、たまたまいい人(周囲)がいて、マシ(家庭)だった。
今書いてみて思うのは、こういう場合、家庭はマシかどうかなのだと思う。
周りはいいかわるいかだが、家庭はいいかわるいかではなく、マシかどうか。
なんとなく、自分はそう書くんだなと思った。

まあそんなこんながあって結局今はただのおっさんとして仕事してるわけだが。家族も家庭も事切れて天涯孤独でやらせてもうてます。

あの頃おもたんとだいぶちゃいますけど、、、
あの頃おもてたんいうでも、ひきこもってたときは
家でれるんか、このまま家でれんと死ぬんちゃうかおもてましたけど
まあ結局家はでれましたけど結局家買って家いますからね
家でれるでれへん関係なく家おるやんと。
結局家におるんですね。
で、相変わらず今日も家でれへんかったとかぐじぐじおもてるわけなんですけど、まあ仕事あるからそれに合わせて家でるぐらいで、それ以外は昔と変わったことはほとんどないですわ

広汎性発達障害とかなんとかいう言葉があった(今もあるのだろうけど)
結局「おくれ」の話で、おくれによって、ものごとがそそりたつ壁のようなもの(しかもそれはとにかく漠然としていて、環境や、人間のあいだで交わされる関係性などに対し、ぼんやりと感じられ、焦りや不安や緊張を生じさせる)として認識され、さらに本人はそれに対し適切な対処の方法がわからないし、たどりつけないことがあり、気づいてもらえなかったり、気づいても根本的な本人が抱えている問題にまで届かず、本人が起こした問題のみについて(つまり発生原因と流出原因のようなもの?のうち、流出原因ばかりを叩く)焦点を合わせがちになり、当時の教職員というのも、もしかしたら今も地域によっては当時みたいな教職員しかいない場所もたくさんあるだろうけれども、とにかく視力というか解像度の低い人が多いと「おくれ」のある人は気づかれないし見過ごされる。見過ごされていても周囲のサポートがそれとなく自然発生的に形成されている場合はそこまで予後が悪くなることはないし、本人の苦しむことも少なくなる。
簡単にいえば、本人のいいところを伸ばしておくれているところも少しずつそれと一緒に伸ばせればいい、つまりシーツをつまみあげるようにして得意なところから他の分野も底上げしていけるような環境さえあればいいのであって、というか、いわゆる定型発達と言われるような人たちも、基本的にはそのような形をしているはずであって、ただその上がり方がこの社会で生きるにあたって相対的に年齢相応になっているかどうか、または本人が社会生活において困っているかどうかであって、当てはまらないのであればそれに越したことはないが、どこかで行き詰まる「予感」がするものについては、少し先を見据えたサポートも必要となるかもしれない。
このとき、おそらくこのような予感を見つけられるのは専門家か元当事者、あるいは、この専門性と当事者性も相対的なものであって、これは時間と距離によって、本人とより身近にいる人間であれば、専門性と当事者性を距離や付き合う時間によってカバーできることになる気がする。
癖とか、パターン、性格を理解する、という形で、それに合わせて動くということ。そして、また逆に、自分も(実は、少しでも、)そのようにされていることに気づくこと、




詩 「セミ」

子供の頃、神社の前の木に止まってる蝉を見上げていた
近くで休憩してたタクシー運転手がすっときて
木の前でヤッとジャンプして捕ってくれた
差し出された蝉は白い手袋の中でグジャグジャになっていた
あの気まずい空気から
どうやって生き延びたのか
思い出せない


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?