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0619

あさ。図書館に本を返しにいってきた。
新聞配達カブの黄色いタレみたいなものが目につき
配達者のいかった肩やラフな服を感じる
あとは散歩やジョガー

早朝の散歩するとき、時々思い出すのがこの鈴木志郎康さんの詩

ひきこもってる頃からこの詩はずっと好きで
路上のごみをみると「野菜屑」を探したりする

あと、この詩をあらためて読むと、その最後のほうから
ともちゃん9さいさんの詩「リビング」のイメージもつながってくる

どっちも好きな詩だが
やさしいというかむなしいというか
なんともいえない感じになる

やさしむなし師匠
やさむな師匠
やさしむなしぃ〜(蛙亭中野の声で)

駐輪場の地面にでかい蛾がいた。たぶん羽が片方破れたモモスズメみたいな感じ
邪魔というか、そのままだと轢くので、靴の先で「どくように」と蹴ったら、地面から剥がれないものの、ちょっとは動いた。もう飛べないけど意識はある感じ。思春期の息子とかを起こす時のうっせぇなぁみたいな感じにもみえる。腹の下から小さい蟻が2、3でてきた。蟻はじゃあ撤収はじめますね〜みたいなノリで解体準備を始めている。

共用廊下では足元ばかり見ているが、虫の変遷は、蛾とハナムグリのステージを既に終え、ヤスデや蟻のステージに突入している。
なんとなく分解者、解体者のステージという感じ。身重の小鳥も増えた気がしなくもない。ヤモリは相変わらず。毎朝蛾の羽だけが花びらみたいに落ちてるのもヤモリが昨晩いただきましたみたいなことかもしれないが、実際現場を押さえていないからわからない。
その点ハナムグリは食われもせず、ずっと仰向けで空を掻きむしり喘いでいて、なんか悲惨だなって感じはする。甲虫は悲惨。朦朧としながらうぼぁぁぁ…ってなってるのはなんか安楽死じゃないけど、なんかね。それでなんか、蛾のほうがいいなと思う。蛾ぁみたいに消えたい。でも最近は甲虫にも蟻がぐわっとたかるようになってきていて、撤収が早まってはきている。これが夏かと思う。死と腐敗と解体のスピードがまきになっていく。川も藻臭がしてきた。

自分の撤収、という話にならざるを得ないわけでもないが、ここも鈴木志郎康さんの詩に譲る

これが1999年で、今2022年だから、23年であってる? もう23年前の詩である。はやい。
鈴木志郎康さんは当時60いくつで、今もう80代後半なので、今どう考えているのかな、とは思う。現代詩手帖の表紙、ときどき葉ね文庫さんのTwitterで見て、鈴木志郎康さんの名前があれば図書館で読んでみる感じだけど、直近では今年、たしか詩が5篇掲載されていて、読んだけど、もう忘れて、なんかもう大野一雄が車椅子でやってる舞踏みたいなふうにみたらよいのか、ふつうにおじいちゃん…とおもってみればいいのか、いや、私はかなりの思い入れがあるから、あんまりそんなふうには見たくないのだが、直感的には、やはり、おじいちゃん…と思ってしまう。でも、一番自分の中で生きている、と思う人も、鈴木志郎康さんなのだ。
家族ではない。
だから、今の私は屑男そのものに近い。



この頃、鈴木志郎康さんはおそらく多摩美の教員をされていて、わたしは全然違う専門学校で映像の勉強をしていて、そこにイメージフォーラムフェスティバルのフライヤーというかチラシも置かれていた。
そこで初めて「極私的にEBIZUKA/鈴木志郎康」という字面(じづら)を見て、ギョッとした記憶がある。

A

このとき鈴木志郎康さんを知ったのが先か、祖母の家の文学全集で知ったのが先か、それとも夢の島少女の再放送をたまたまテレビで見たのが先か。インターネットが先ということはないと思うのだが、当時のYahoo!で詩を検索していった場合、まだロボット検索ではなくキュレーションでもないけど、登録制で、かなり厳選して載せられていた記憶があるから、検索で辿り着けなくもない範囲。
ともかく、この時期(わたしの体感で20前後)に一気に「鈴木志郎康」の文字をさまざまな媒体で目にして、気がついたらサイトを読み耽っていたことだけは確かだ。

さらに、おぼろげになるが、映像作家の鈴木志郎康と詩人の鈴木志郎康が最初は結びつかず、「イメージフォーラムのプログラムの人」「文学全集で一人だけ詩で個人的なことばかりやたらめったら書いてる変な人」みたいに分裂していて、途中で「あ、一緒の人なんだ」みたいなことはあったのだと思う。それを繋いだのが、本人サイトだったのかはよく覚えていない。

ただ、当時の人生の流れとして、ほとんど「降りる」ことができなかったわたしは、無理に高校から専門学校に進学して、対人恐怖でほとんど授業も受けられず、そのままひきこもり生活に突入。当時の日記の、引きこもり生活が始まった月には「専門学校生→どぼーん」と書いていた。
ここから何も肩書きがつかない時期が2〜3年つづいた。
そしてアルバイトを始めた月に「ざばーん→週2アルバイト」と書いた。

いまにして思えば「どぼーんもざばーんもないよね」というのが正直な気持ちだが、当時のわたしはやはり社会とひきこもりというのを水面として捉えていたし、社会生活上の進学を、降りられない空中ブランコのようなものだと捉えていて、やっと就職という段になって、いよいよ次は飛べないぞ、ということになって、非常に安堵したのを覚えている。
まあその次は家で煩悶しまくり、また超焦慮しまくるわけだが。
とにかく焦げまくる。
焦げながらテレホーダイでネットを徘徊しまくる。
対人恐怖、視線恐怖、ひきこもり、統合失調症、精神分析、なんか意味のありそうなものはずっとリンクを踏んで読み続ける。
そういうのは読めたけど、本はしんどくて読めなかった。
まだネットにエロもなく、そもそも電話回線で見れる画像なんかもたかがしれていたし、あったとしても、そこまで辿り着く技術がなかった。
私はとりあえず、祖母の家の「家庭の医学」の性のページを読んでしていた。
家庭の医学の性のページを猥談的にフル活用していた。
だいたい時間があるので一回に2時間〜3時間かけ、それで果ててから日本文学全集のところにいって、小説も性のやつばかり、3段組の文章の中から、素早くエロワードを探し、なるべく短いものを読んでいた。もう覚えていないが、大江健三郎のPTSDになった兵士の精管を通る精液の感覚…みたいな小説だけ覚えてる。

そんなことをやってるうちに、詩歌集にたどりついた。
まあ、文脈や予備知識のいるややこしいのはわからないので、とにかく濃い味の、読んでいて「ハァ?」ってなるやつか、平易な感じのやつを読んだ。

今にして思えば、ここでざっくりエリーティズムというのか、インテリ的なというか、大学の同人から頭角を現してきたとはいえお互い馴れ合いながら詩壇ジャーナリズムの俎上に乗ったような、わけのわからないものは感覚的に選り分けたように思う。自分にまでちゃんと届くものだけを選り分けた。政治的なもの、批評的な文脈でなんとなく居るような感じのを、感覚で排していったのだと思う。まぁおもしろいと思うやつだけ読んだということだ(それで自分がおもしろくなったのかといえば、まったくそうはならなかった)。
結局、2000年代の自分が今読んで今助けてくれる(生かしてくれる)ような感じのやつだけをこちらから直々に勅撰した、ということになる。

だからこのへんで省かれた人というのも、細かく見ていけば実はすごかったのかもしれないが、やはりひきこもっていて最小限の手数で、家にあるもの、また家からアクセスできる範囲内のものだけで自分を賦活しなければならない状況下において、ぶっちゃけ、ほとんどの詩はかなりきびしかった。
近代詩も俳句も短歌も無理だった。唯一現代詩だけが、ギリ届いた。
わたしは長すぎても無理ってなるが、短すぎても逆に無理ってなる鬱陶しい人格の人間だった。

そこで燦然と輝いていて、こんなくたびれ果てた詰んでる状況の自分でも、おもしろいほどするする読めるのは鈴木志郎康の詩だけだった(ちゃんと自分の欲していたエロワードもちゃんと散りばめられていた B)。



いそぎめで補足しておくと、現代詩手帖の卑語、罵倒語特集みたいなやつに鈴木志郎康さんについて書かれた論考みたいなのがあって、そこで、鈴木志郎康の詩は昔読んだときのエログロの衝撃の印象に比べれば実はかなり上品であった、むしろ同世代の無秩序の下品なエログロとかよりはかなり綺麗にまとまってるみたいなやつがあって、ああ、なるほどな、みたいに思ったことがあって、それは確かに、四谷シモンのおげれつオムレツぽえむみたいなわけわからんやつとかと比べるとかなり鈴木志郎康さんの詩というのは本人もおっしゃってるとおりかなり方法論的に一歩一歩踏みしめながら試行錯誤やってるようなところがあり、毎詩集ごとになんか行き先というか、次どうしようかみたいなことが書いてあったりして、なんかそういうのも途中からだんだんふわっとしてきたけど、まぁエロワードも当時の流行りやノリでむやみに濫用していたわけでもなく、濫用する方法論があってやってたみたいなところがあったようではある。
当時の二十歳のわたしはそんなことも考えず、え、男根!? やっば、えっろっみたいな感じで、そこも家庭の医学をエロ本として読んでいたからかもしれないが、もうワードだけでぴんこだちしてしまっていたから、とにかくいろんな意味で捗った。
だから私にとって、赤くて分厚い本というのはエロ本の印象が強い。古畑とさんまの裁判でも、ひとりだけ「エロ本です」とか言って墓穴掘りそうなタイプである。

話がそれた。



というか、今書いた理由はほとんど嘘で、むしろ今(B)で書いたエロワードの有無だけが自分のセンサーに響いたのかもしれない。

「こんなこと書いて、文学全集に載るのか…?」みたいな感じだった気はする。

あと、文学全集の作者の名前が書かれてある下に、短い経歴と詩の傾向みたいなのがちょちょっと書かれていて、それが「四次元殺法を得意とする…」みたいなノリで書かれていて、これが60年代の詩人にとくに顕著で「自己増殖する悪夢のような詩を…」とか「風俗現象と「極私的」モチーフを結合、独特の詩的世界を生みだす(これは鈴木志郎康さんの項)」とか書いてあって、ぱっと見キン肉マンの世界なのである。誰それがモストデンジャラスコンビで、誰それが2000万パワーズで…みたいな把握の仕方ができる世界観。

(で、おそらくここからがひきこもり生活とオールザッツ漫才的なもの、そしてリットン調査団的なものに繋がっていくのだと思うが…これは別稿にゆずる)

そうして、ひきこもりながら詩の世界にキン肉マンの世界があると思いながら、鈴木志郎康の詩を読み耽る20歳の若者がいた。
平日の昼下がり、明かりもつけず、本棚の前で足を崩してページを繰っていた。祖母すら働いているのに、わたしはひきこもって詩を読んでいた。静かだった。ビンビンだった。

文学全集はその後、35とか34あたり、あと気になる数冊だけを引き抜いて、私物とした。
自慰行為の台座(自慰行為の台座とは何か?とは訊かないでほしい)に使ったりしたこともあったが、今も時々読んだりはする。昔ほど食い入るように読むことはもはや不可能であるが、なんとなく自分はここから始まった…みたいな感慨、なくもない。
初めて読んだ時の感覚も、思い出したいけど、思い出せない。

ここ(文学全集)に載っているのは、第二詩集から3篇(月・私小説的キキの得意なお遊び・プアプアが私の三十一歳の誕生日を優しく)、見えない隣人から1篇(見えない隣人)、家族の日溜りから1篇(草多という名)、融点ノ探求から1篇(口に入れてうれしい)、虹飲み老から1篇(モーター)。

K

まんべんなく選ばれている。
この中の「月」という詩は、色々な語り口があるように思う。
ひとつは「象は鼻が長い問題」。
月の最終六行は以下のようになっている

私は人妻が手淫していた
私は老婆が手淫していた
私は女性重労働者が手淫していた
私は人妻が手淫していた
私は牛乳びんが手淫していた
私は時計が手淫していた

鈴木志郎康「月」結部

四角い枠線に囲まれた「叫び声があった」の次行から、急に詩の調子が変わって、唐突にこの6行で終わる。
なんとなく、人妻のところでサビを2回繰り返しているというか、
人妻1→女路線
人妻2→モノ路線
という感じで3行ずつ繰り返しているようにも思える。

これについて、鈴木志郎康さんは自身の解題(極私的自己批判)として

「月」という詩になると、その意識内のこととして成立している意味体系は文法へも侵入して行くのだ。「私は人妻が手淫していた」というのは、無理な分析を試みれば、(何故「無理な分析」かといえば、これはやはり一種の無意味な文以外ではないからなのだが、)「私は」は作者自身の現実的な存在を示し、「人妻が」は作者のイメージのありかであり、「手淫して」は孤独な生のあり方の暗示として置かれ、「いた」はこれらの意味が作者の意識内に現象したことを示しているのだ。このセンテンスを読んだものは、「私は手淫していた」と「人妻が手淫していた」の二様の意味の合体ととるか、又は「象は鼻が長い」式のセンテンスと同じものとして(中略)取るだろう。

極私的現代詩入門 p17

だが、ここでは作者にとっての現実の事象は、このセンテンスが現実に於いては無意味を意味するということ以外ではなく、その無意味として提出した内容が意識内に存在する意味体系のありかを示しているものとなっているに過ぎないのである。

同 p18

このように書いている。また、同作が収録されている第二詩集の覚書でも、「月」に関しては、

私の生命は辱められているという消極的な自覚の言語的表出。

鈴木志郎康「攻勢の姿勢 1957-1971」p351

私は(中略)あらゆる有意味を拒んでいく。そのために一度はやむを得ずに逃げ込んでいた言語映像をここでは自覚的に方法として使って行く。「月」では詩の中の私を手淫する少女に更に手淫する不幸な女たちに重ねて行くのだが、いずれも概念的に性の欲望に於いて疎外されているものとしてとらえられた人間に自分を移行させているわけである。しかし、彼女たちの手淫は極めて秘かに(原文ママ)に生命を充足させようとする瞬間なのである。それを私は言葉で暴いてしまう。このことによって、彼女たちは被害者の立場を取らされ…(以下略)

同p351-352

と書いており、「意味がない」あるいは「有意味を拒む」という言い方、また「まったく別の意味体系の創出」という言い方をしている。
作者の中にある、無意味な意味体系のありどころを指し示すためだけに、最後の6行は費やされている、ということになる。

ほかにも、別の詩においての解題では、活字(明朝7号)と恋に落ちたい、言葉をくぐり抜けてナンセンスに至りたい(のに処女が股に噛みついてくるので蹴飛ばす)、といった表現があり、正直なところ、わけがわからないのだが、個人的には、くるりのチアノーゼの「夕暮れ前の東向日駅梅田方面行きのホームが好きだ/本当に好きだ」と似たようなニュアンスを感じなくもないのだ。

鈴木志郎康における、無意味な意味体系のありどころを指し示すことと、リズムにうまくハマる歌詞をはめ込み、さらに念押しして、現実感を得ようとしている若者のように「みえる」ように構成しているチアノーゼの歌詞のニュアンス、個人的にはぼんやりと重なる部分もなくはないと思う。
ただ、得られる効果としては、前者が衝撃的な、発狂したかのような急転直下のような終わりを迎えるのに対し、後者はさっき述べたように、現実感の希薄な若者が自分の現実感覚を念押しするかのような印象を与えるように思うのである。方法論的には似た手つきだが、その無意味で指し示す先、着地点が違うとでもいうのか。

また、「月」前後の解題でやはり本人が「物神崇拝的な側面があることは認める」と書いていたり、「激しい恋愛」で、社食のテーブルにあった食卓塩の瓶に嫉妬の感情を抱いて、言語化できないので絵にして載せるという荒技を使ったりしている。

これは、美味しんぼのエピソード「ラーメン戦争」において、美食倶楽部主催の海原雄山が息子である山岡士郎にヒントを与えるため、調味料数種を瓶で送りつけたさい、化学調味料などといった下賤の調味料は美食倶楽部には置かないので、空の瓶の中に「化学調味料」と書いたメモを入れておく手法と同じニュアンスを感じる。

美食倶楽部にないものは紙に書いて説明する。
言葉で表現できないものは映像(絵)で描いて表現する。

とにかく鈴木志郎康の突き抜けたい気持ちは、わからないけど痛いほどよくわかる。でも、なんか最初から、かなり厳しい感じもしなくはない。言葉の通りに伝わるとか、それそのもの(現実や欲望)をその通りに表していると言われても、こちらにはなんのことかさっぱりわからないのだ。
ただ、さっぱりわからないなりに何かと格闘しているという雰囲気は伝わってきていて、なんとか人が本当の無駄、無意味によって去っていかないように、かろうじて繋ぎ止める仕掛けのようなものが常に動作している。というか普通にうまいというか、なんか、どこかのだれかの使ってた憧れのフレーズを使いたいがために書いているみたいな匂いがあまりしてこないところがある。英語圏や仏語圏の影響のみられる気取ったような詩が多いなかで、あくまで現実生活と自分と自分を取り巻く言葉のありように対する不甲斐なさのようなものと終始バトッたり、または落ちたりするような雰囲気が見てとれる。
ナイナイの矢部の言い方をすれば「何してはるんですか」であるが、当時の私も、今の私もこのなんか妙に読みやすいわけのわからないバトッてる詩が嫌いになれないし、やっぱなんか好きなのである。
昔、初読時〜第一次詩を読まなくなるまでは笑って読んでいたが、今はあんまり笑わなくなった。それは何に対しても、笑うことは減った。

月に関するもう一点は、漫画「ブラックジャックによろしく」において、精神分裂病の説明において、ネットからの剽窃があったとされた箇所と関わってくる。まずは、説明元は当時読みまくったサイコドクターあばれ旅の精神分裂病の項(ひきこもってた頃は、このサイトと、もうひとつ「無限回廊」という昭和〜平成の犯罪をまとめたサイトをよく読んでいた)。

もし、何かの拍子に、「自分」と「そうでないもの」の区別をつけられなくなってしまったとしたら、あなたはどんなふうに感じるだろうか。
 普通なら、「自分」と「そうでないもの」の区別というのは、考えるまでもないくらい当たり前のことのはず。
膜が破れて「自分」が漏れ出してしまったあなたにとっては、周りにあるすべてのものに「自分」が感じられる。そしてまた、すべての自分でないものが、膜の中に暴力的に侵入してきている。
 コップは私。机は私。ボールペンは私。パソコンは私。テレビは私。すべては私。でも私は……。私とはいったい何だろう。あなたにはわからない。

サイコドクターあばれ旅 私家版・精神医学用語辞典「精神分裂病(統合失調症)」の項より

次にブラックジャックによろしくの説明。

精神科医の多くはこの病気を「自我の保てなくなる病」と表現する(中略)私達は自分の手が自分の一部であり目の前のテレビが自分でない事を知っている/例えるなら私達の「自分」と「そうでないもの」は見えない膜のようなもので隔てられている/しかしこの病にかかるとその見えない膜に穴が開いてしまうのだ/膜に穴が開き「自分」が外に漏れ出してしまうと周りにあるすべてのものに自分が感じられる/そしてすべての自分以外のものが暴力的に膜の中へ侵入してくるようになるのだ

ブラックジャックによろしく13巻 第122話「ただ我を知る」
https://www.sukima.me/book/title/blackjackniyoroshiku/

あとはこのあたりを参照するとよいのかもしれない。なんか検索して出てくるサイトが往時はよく行き着くところだったのでなんだかとても懐かしくなった。昔のことを検索すると昔のことが出てくるのは当たり前だけど、この2000年すぎてちょっとしたころの、ネットのことがネットで循環し始める前の、その初期の頃みたいな雰囲気(後者は直近(2021年)のルックバックの表現修正の問題から「よろしく」について書かれているが)

また話がそれた。

ここにはモノや世界が自分に侵入してくる病気だというようなことが書かれている。この感覚が、「月」の詩行に図らずとも、そのような効果を持って使用されているようにも思えてくる。
つまり、当時から方法論に徹して、意識のありどころを示しながら書いていたはずの詩行が、結果的に、精神分裂病的な印象を読者に与えるような表現に偶然たどりついた、ということになる。鈴木志郎康さんの言によれば、そのまま入れ子的に私(作者)の存在の中にあるイメージの存在の孤独なありかたの暗示が確かに現象していること(=ナンセンス・無意味、またはその意味体系のありか)を示すことになっているが、これが逆に、世界が自分に流入するような文法になってしまっているということ。

これが本人の錯乱か、本人の狙いなのか、といえばやはり手段というか、方法のひとつなのであろう。ではあろうが、その狙いに行く精神じたいが健全かどうかでいうと、かなり微妙なものになるような気がする。なんかすごく情念というか執念じみているのは感じるのだが…。

また話がそれた。

もともと鈴木志郎康さんは、改行によって連を分けることをあまりしない。改行そのものによってドラスティックに場面を切り替えるのが非常に巧みであり、それは「月」以外にも「家庭的アイウエオを行う」などでもみてとれる。これもどこからどこまでと言われると微妙だが、手元の攻勢の姿勢でみるかぎりだと…いや、なんとも言えないですね。ただ、最初期の作品「青鰐達の饗宴」からすでに第三者的な(アナウンサー的な?キートン山田的な?)リフレインによって連を使わずに文脈を変えているというのか、これは変えていないのか? 問い詰めているような感じになっているというか、こう、追い詰める感じで冷たい丁寧語のような語調(に聞こえるように調整した)リフレインを繰り返したりして、なんかうまくハンドリングしきるような技術があって、それはしょっぱなからずっとあるような気がする。
木葉井悦子さんは「彼の最もいやらしいところは自分の姿を知らないのに自分自身の位置を正確に知っていることだ。(鈴木志郎康詩集 p156)」と書いていた。これは、彼の存在そのものについての言なのだが、言葉の使い方、詩についても同じことが言えるのではないかと思う。わたしの中での解釈としては、詩の仕上がりを常に冷静に見られる、といったような意味合いで捉えている。つまり他者から見た自分はまったく見えていないのに、他者から見た自分の言葉の位置関係に関してはかなりの精度で正確に捉え切る能力、自分を透かしみるような能力、谷川俊太郎がいうような、自分の中から他者をみつけるという手つきではなく、スクリーンに向き合う観客の真ん中に透明になって透過して立つことによって、他者がどう読むのかを正確に掴むような書き方とでもいうのか、なんかちょっと違うのである。

あと、H氏賞受賞後の鼎談で飯島耕一が鈴木志郎康の詩を評した箇所

鈴木 だけど、自分の詩が叫びではないと言いたいんですよ。暗いなかで「アーッ!」とか「怖い!」と叫んじゃえば、一瞬その暗いいやな気分から解放されますけど、叫ぶんじゃなくて手探りでも何でもいいから、自分がどこにいて、それが何であるかがわかればいい、そこなんですよ。その場合、叫ぶ詩があってもいいとは思うんですけど。
飯島 それはそうだね。その点ではプアプアの詩でも飛躍をやらない。ぼくはいつかプアプアの詩について、家のなかを引っぱってあるく電気掃除器にカメラをつけている感じだと言ったんだけど、常に飛躍はしないし、しかもカメラの位置が低いところにあって、じつに変った運動をしている。
入沢 これはうまい(笑)。一つの問題点はそうだろうと思うんですよ。完全に天井がある低さと輪郭のなかへ場を限るということ。その外へは飛躍しないことね。

現代詩手帖第11巻第5号(1968年5月号)p48 現場と至福への欲求《座談会》鈴木志郎康・飯島耕一・入沢康夫

このあたりを読むと、なんだか庵野秀明監督の「ラブ&ポップ」などを思い浮かべてしまうが、あまり連で行を開けないのも、飛躍しないという考えに近いのかもしれない。サレテムーシ紀行のような、自分のいないひたすら風景のみが描出された作品などは、ここで飯島が述べている作品そのままのイメージに近いかもしれない。
あと、今思ったのが、ここで言われている電気掃除器(機)がどんなものか、現在(2022年)においてはすでにイメージが変遷してしまっている可能性があるのでは?と思った。
冨樫義博「HUNTER×HUNTER」をご存知の方であれば、幻影旅団の一員シズクが使う念能力のデメちゃんを思い浮かべてもらえれば、それが飯島が言っている「電気掃除器」のイメージに近い。

掃除機

いらすとや、ほんと便利だな…堕落しそうだ。こういうやつにカメラをつけて、部屋を徘徊するような感じで詩を書くという、なんともまどろっこしいというか、ふつう「そういうのいいからさっさとやろーぜ」みたいなノリで詩なんか書き始めるものだと思ってるわたしからすれば、飛躍しないなら何のために詩を書くの?とは思う。ここで鈴木は「手探りで」「何でもいいから」「わかるため」と述べており、確かにこれは詩によって真理を追い求める的な発想い近いのかもしれないが、言葉そのものが相対的、あるいは流動的なものであって、捕まえたそばから逃げて行くようなところがあるので、これを打ち据えようとするのは不可能に近い気もするが、とにかく追い詰めるんだと。
ただ、この人は、この角度からこうやって見ろ!そしてそれ以外の一意の意味にとるな、解釈するな!みたいなウザ絡みはしないのである。そうではなく、自分がとにかくカメラとして移動して、そのような可能性を摘めるだけ摘んで、着実に、飛躍せずに、他者に言語映像としてある程度の普遍性が確保された状態において、まったく個人的なことを言い出すというあり方で詩を書くのである。めちゃくちゃ机の上を綺麗にしたあとで机の上に乗っかっておもむろにうんこするみたいな、見てて「え、えっ!?」となる感じのことかなぁ…とは思う。

また、余談だが、ここで鈴木の言う「暗闇」というものを時間だと捉え、叫び声を、普遍性を持たないような、独りよがりな詩だとすると、鈴木がなぜ何でもいいから手探りでわかろうとするのか分かるかもしれない。
鈴木は極めて個人的な事柄を詩篇に散りばめながら普遍的な場所へ潜り込もうとして弾き返される運動を何度も繰り返し続けている、浮力で浮く体をなんとか沈め込もうと体勢を立て直しては潜ろうとして失敗している。
その失敗のことを、無意味とかナンセンスと言うのかもしれない。
だが、これを決して偶然でやろうとしないのが鈴木志郎康の面白いところだ、みたいな感じだろうか。
要はやけくそになっててきとうに投げたり、てきとうに飛躍や跳躍を繰り返して偶発的に他者に届くことは目指さない。
それは実は、飛躍や跳躍に見えて、単に事実を虫食いにしてわからなくしているだけだから、鈴木の姿勢とは正反対となるわけである。
つまり世の中の詩群のほとんどは鈴木の姿勢とは真逆の、事実の虫食いによる隠喩や連によって作為的に自分を隠匿する文章のかたまりであって、それ以上でもそれ以下でもないということであって、本来であれば一行開いている箇所には、場面転換や展開、息継ぎなどを求めることによって隠れたり安らぐのではなく、そこをあえて事実によってさらに詰めていくことによって乗り切っていく、さらに突き詰めて個別具体的な内容にまで及び、伝わらないところまで書きつけていくが、読者を置いてけぼりにしないように格闘模様がわかるようなプアプアやキキ、妻といった「登場人物」によってサービスされていると考えた方がいいのかもしれない。
何でもかんでも本当のことを書けばいいわけではないし、本当のことがおもしろいかどうかも別の話ではあるし、事実の列挙が面白いのも書いている本人だけということもよくある話。とはいえ、逆に雰囲気しかない詩行に自分が生きているうえでの何が入っているのか説明できるかどうかを再度問い直すぐらいのことはしてもいいのかな、ということはよく思う。
ときどき、まったく何も考えていないし、あるいはガバガバで、人が何かを入れてくれればいいや〜ぐらいの感じの言葉の詰め方のものを読んだりすると、それが嫌いッ…!というよりは身の上を案じるというのか、自他ともに害であり罠のようにしか働かないように思い、なんかそういうものを好む自他というものの身というか、人生を案じる。
なんというか、簡単にいえば米津玄師のアイネクライネの歌詞における「誰にも言えない秘密があって嘘をついてしまうのだ」の中に、他者がどれだけ安易に「誰も言えない秘密」を設定して、嘘をつくことを自分に許したり、甘やかな気分に浸ったりしたことか。
あるいは、この方向でもいい。堂本剛のORIGINAL COLORの「溢した砂を掻き集めるような繊細な仕草が多くいるんだけど愛はやっぱいい」って何ー?っていう方向である。サビにしては、なんか色々ガバガバすぎやしないだろうか。あるいはYUKIの「大人になって」の歌詞「故郷は遠く しがらみに錆びて笑う」って何ー?である。
なんか途中でなにかを諦めていやしないか。いや、メロディがあるから、メロディは好きだし、歌としても大好きだけど、歌詞としてはなんか諦めていやしないかい?とは思うのだ。
米津の歌詞はいろんな人を甘やかす大きい落とし穴みたいなもので、そこに人がいろんな「言えない秘密」を放り込んで、だから嘘をついてしまうんだと自分に言い訳するだろう。ダイエットの本1万で買っちゃったけど、君には言えない秘密なんだ…とか、もうそれこそそんな程度かみたいなことがガンガン放り込まれてるのに違いない!間違いない!
…いや、深刻なものもあるのかもしれない。
反省。
なんか急に日常でのフラストレーションが暴発した。
すみません。
でもこれはいつも思ってることです。
けど、くるりも最近「働いたぶんだけ陽の光浴びればいい脳ミソは関係ない当たり前の愛を貫けよ」って何ー! 昔だったら絶対ふるい落としていたであろう歌詞のような気がするのはわたしだけだろうか。そもそもこの曲自体が「解凍」によって出てきたという経緯はなんとなく知ってはいるが、そのときこの歌詞も一緒に解凍されたとき、そのままGOしたというところに一抹のさみしさを感じた。なんか憲法改正案の24条の序文みたいなことを言ってるような感じがして、すっごいさみしかった。いや音楽はいい。でも歌詞がなぁ…。
時々こういうところあった気はするけど、ここまで前面的にでてきてしまったのは初めてなんじゃないかと思う。ファンですけど、なんかこれはちょっと寂しかったなぁ。

話がまたそれている。しかも詩じゃなくてえらそうに歌詞のダメ出しをしている。やばい。これはよくない。もうしわけない。



ともかく、言いたいのは、ゆるふわっとしたところは絶対にバレるというか、本当に一瞬でバレるので。
しかしながら、もうこのネット社会では「なにかありげ」な文章のよくわからない高評価というのは常に付きまくるのだと思います。
ただ、そこに初めから何もないということは承知のうえでいいねをしようという話です。存在、ひいては「今日もあなたは更新したね、よしよし」ということに対し、ランダムに雰囲気でゆるふわっといいねする、という行為について、自他ともに認め合わなければならない。
これは十分ディストピアのように思います。
操作的診断のようなどれかひとつでも当たれば御の字みたいな直喩表現が連続するくそみたいな日本の小説の甘ったれた状況、とか、もう暗闇で手探りで何かして何でもいいから掴むっていうのは端的に非効率なんですね。わかります、わたしもそうです。
ですけど姿勢というか、内面までそれに染まったらやばいけどポートフォリオ的にはもうちょっと少しは残しときましょうよ的な抗議は常にいだいてますよ。暴落してるかもしれないけど、売りに走っちゃダメですよ。あとで上がるかは知らんけど、今売ったらもう返ってこんですよ。

***

※かなり話がそれたところです。ここからは(K)からのつづきです。

鈴木志郎康さんの詩は、これらの詩と、本人が運営するサイト、また、ひきこもり生活の終わりにかけて、やっと図書館で借りた現代詩文庫の鈴木志郎康詩集ぐらいだった。ここまでで2005年。ここから10年空く。

2015年ぐらいから、また詩のところにきて、自分に詩集を買うことを解禁し始める。それが現在まで続き、今はただの蒐集癖のあるおっさんみたいな感じである。第一詩集に25万を支払った時は、さすがに一線をこえた気がした。

かといって、もうそんなに読まないのだ。わたしは人のキュレーションあってこそ、その良し悪しがわかるような人間だし、若い頃はまだ本当に没頭するように、それこそスゲーって思うぐらい、転送されるような感覚を憶えていたが、そんなことも(鍛錬しなかったからか、チューニングの仕方を忘れたからか)できなくなった。

小林レントさんのパゴダ印象という詩で、本当に周りの風景まで一瞬に転送された瞬間もあったのに、今ではもうそんなことは起こらない。

「よい詩というのは現代の人がどう読むか、ではなくて、その詩自体がよいのだ」と言う人が当然いると思います。
しかし、これは、一番危険な意見です。「詩自体」が「よい」、その「詩」の中に「評価されるべき当然の要素」が内包されている、というのは、一見正当に見えますが、よーく考えると、「詩」というのは「読まれないと存在しない」という事実を忘れ、一歩間違うと「詩」をあたかも絶対的な神のようにあがめる思想でしょう。だいたい「その詩自体がよいのだ」と言っているのは「あなた」じゃないですか。それを忘れ、あたかも「詩」に評価が内在化されているかのような信仰を表明することによって他の人の意見を全く聞かない、「詩自体がよいんだから、他の人がなんと言おうと関係ない」「詩自体を読んでください、そうすればわかります」、こういう事を言うのは、それはそう言う人自身が、自分も評価されている、ということを忘れている、あるいは隠している証拠です。

「よい詩人」とは何でしょう。/ななひと
https://po-m.com/forum/showdoc.php?did=110710

これの言い換えだが、読んだ時にしっくりくるというか、ズキューンでもドギャーンでもなんでもいいんだけれども、周期というものがある。
一番読んだ時に飛べる感覚になる時期があって、若い時のほうがけっこう飛べる気もするし、年を取ってからだとまた違う感じになったりする。
だから、絶対的にいい詩が存在しているということはない。
読めなくなるとか、あのときのあの感情よカモーンと思っても、つれない返事しかしない詩だってある。まあ、初めて読んだときの衝撃は帰ってこないけれども、二回、三回とで違う感じがするのは当然ちゃ当然である。
簡単にいえば、普遍的にみえる詩というのは、組み立てがそもそも全方位的にできてるというだけであって、なんかそういうものが普遍、不変的にあるという発想のことを戒めているのだと思う。
毎回読むたびに頭の中で再生されるもののうち、特に全方位的なものがアンソロジーに組み込まれる、ということになる。オムニバスベスト盤である。

ただ、これだとずっと島崎藤村がぁ〜…と言っている人とかをどう処遇するかという問題が残るような気もしていて、それはもう完全に記憶や思い出を美化して絶対視してるやつだからほっとけというのか、いや、昔の詩は韻律というか、音楽的な部分でそこを引っ張ってるからちょっと普遍的に長持ちするんだとかいう見方もできなくはないし、そのへんはどうなんでしょうね。その音楽的な部分を全部自分の身体の感覚でやってみた「なんでもあり」の詩は、たしかに賞味期限というか、同一人物のなかでも耐用年数が少し下がる部分はあるのかもしれない。

個人的には近代詩を含めていろんなものを楽しみたいけど、初期の味覚形成の時期におおあじなものしか食べてこなかったから、濃い味付けのやつしかわからないみたいな問題があって、20歳そこそこの頃はネットでみんながすごいすごい言ってる詩を読んで「うわぁ、ほんとだぁ〜」ってすごい暗示にかかりやすい性格と没入感だけで読んでたけど、今はそこまでならない。だからこそ謙虚さというか、愛が要るよな〜と思ってしまう。

その愛みたいなものに関しても、鈴木志郎康さんの詩への動向についていくような形で、今のわたしは頭の中にあるものが完全に紙の上に落とし込めなくても、書いているときその人の頭の中には詩があった、と思うこと、また、詩と共に作者がいて、読みながら作者に尋ねながら読み進めるような行為も詩をして含める、むしろ昔からそれも詩だったんじゃないか、というような方向に向いている。というか、もっと曖昧で自由なものだったと。
精神分析、詩、哲学、歴史、人間の関わるもののほとんどはぐるぐるしていて行き着くところまでいくと曖昧で自由になる。
一応ある種ポリシーを持ったものの小集団となることはありうるが、現代においてマネタイズできるほどかどうかというと、これは戦後の一時期が珍しかっただけで本来はそもそもそこまでの利益がでるような営為というか、ジャンルではなかったのではないか?とはなんとなく思う。

かといってひとりで繰り返し、偏愛し、消失するのが筋なのかといえば、そうでもないような気がしていて、さっき言った、昔読んだ詩と周期が合わなくなるということは、もっと昔の詩に周期が合う可能性が出来たと捉えてみたり、横っ飛びしてみたりする間隙や余暇がみずからに出来たものと捉え直し、動いてみる余地がでてくるような気もする。

だから人間がぐるぐるやってる営みのうち、ぱっと見島嶼的だけど、時代の端々や裾野まで見ればびっちり海の底まで書き記されているのだから、そのへんのどれかをその時々に周期に応じて援用し、なんとかこの生を生き切り、そのなかで自分も少し何か残せればな…いや、まあ残さなくてもいいのかな…っていう、そのへんのところ。
そのへんのところで嫉妬というか、いいね数とかのことが気になるのかな、とは思う。かといって、もう少し長期的にみたときに、いいね数より遠いところで援用されなくもない可能性は なくならない気がする。

話がもどります(たぶん、Aというところからのつづき)



ちょうどこの頃はG3とかG4とか言ってたころで、パソコン使うことも多かったので、詩の中に映像作品のことがそのまま入ってても違和感なかったのだが、今読むとこの真ん中に大きく構えている映像作品への批評と詩行の思考が絡みついてるところを人がどう読むかな、とは思う。これと曲腰徒歩新聞を併せ読んでいくとなんかわかるのかもしれない。
スカジーがどうのこうのとか、そのうちパソコンの原理と自分を重ね合わせていって、詩集「胡桃ポインタ」ができ、装丁は確か海老塚さんが一冊ずつ違う感じで作っていて、一冊も同じのがないとかそういうのだったと思うが、その流れそのものから、わたしの詩についてのもうかたっぽのほうは始まっていたのだな、と書きながら思い出している。

とにかくこの詩がアップされている鈴木志郎康さんのサイトはよく読んだ。詩のシラバス

(なんか文字化けしてるけど「詩の包括的シフト」というページです)
これも読むとざっくりとだが、ひきこもってるときには詩のことがなんとなくわかった気になったりした。

フリー的な思想に押されて、いろんなものをガンガンHTML化、あるいはエキスパンドブック化していく鈴木志郎康さんのサイトを見ながら、自分もひきこもっててなんか生きていくための糸口がぜんぜん見つからない(詰んでる)けど、いつかは自分でMac買ってなんかするぞー、とは思ってたのだった。

あとこれも。第二詩集の2/5ぐらいを占める長い覚書の一部が公開されている。書いている本人(当時の鈴木志郎康さん)は幻滅しながら詩集を出すとはひたすら言ってるのだが、わたしはそれを読みながら(どういう原理かわからないが)すごく励まされていた。

結局十数年後、さまざまな行為を自らに解禁し、この詩集を手に入れて読んでみると、わたしにはさまざまなことが意外だった。
わたしはなぜか、覚書の1と4の抄だから、冒頭と結部だけを持ってきたものだとばかり思い込んでいたのだが、これは実は1〜10あるうちの1と4だったのだ。
そう考えるともっと世の中にはこういうことがあるのかもと思えるようになった。というか、いつもすぐにそのことを忘れてしまう。
いのいちばんにそのことを忘れる癖がある。
広げる適用範囲を広げず、広げてはいけない適用範囲は広げようとする。それは手近な言語の関係念慮的な扱い方、現実関係の限局や常同に現れている気がしなくもないが、もう自分にとってはこれが一番「なんだかおちつくんだ(byとなりの山田くん)」であり、もうどうしようもないと思ってる。
また、広げ始めた場合、どこまでも広がっていって収拾がつかなくなる(いや、べつに収拾がつかなくてもいいんだけど)。収拾がつかなくなって疲れて死ぬのが一番やばいので、中途半端になるだろう。中途半端になったら悔しいだろう、けど、だいたい人間は中途半端かもしれない。
いききった人間というのはあんまり見たことがない。
人間がいききるというのは、なんか、願望的にはよだかの星とか、東京怪童の挿話にあったペンギンとか、天野茂典の詩「きんきんいかのターボ※」的なモチーフに対する憧れみたいなものにもなんか現れてて、ある種の自己犠牲的なものというか、自己完結的なものと、やっぱり光に向かってどーんといく感じ、それに伴い身体が崩れ、それと同時に解放されていくイメージ。
何か、こう、達成目標とかではなく、もう達成しながら瓦解していくぐらいの感じが一番いい感じがするけど、そういうふうになるのはやっぱ「厳しい」ので、日々を噛みしむしかないのだろうか。
まぁなんにせよ一瞬というか、光芒である。光芒を後逸し続ける。(そうなれる)チャンスを逃し続けること。お腹すいた


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