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あさ。「他者と生きる」(磯野真穂 集英社新書)をちびちび読んでる。記憶が最近すぐなくなるので第二部に入ったとき第一部のことをほとんど忘れてるとかふつうにあって、大掴みでしか憶えていられない。
他者からの情報(言葉、レトリック、比喩表現)が、自らのリスクの感覚(感触)を変えるということ。
例えば、心房細動により脳梗塞のリスクをもつ患者に対し、医師は「長嶋監督のように」といった直喩によって、患者と長嶋監督を結びつけ、リスクの感覚を引き寄せさせる。
逆に、血液の抗凝固薬による、血が止まらなくなるリスクについてはそのまま説明し、血がサラサラになる薬といったりすることによって、リスクの感触は遠のいていく。遠のかせていく。
拒食症の例もあったように思うが、そこはまた読み終えてから戻りたいとおもう。
ここに文化人類学の所見も入ってきて、でもそれはちょっと一部では短めというか、結ぶところがちょっと短いというか、そんな感じがした。
ちょっと遠いところにあって、ひとつずつ自分の頭の中で転がして結ぶようなところが少しずつある。時々凝集し、理解が進む。
節?というのか、「1.0」「2.0」といって単元ごとに数字が振られており、さらに分入るときに「4.1」「4.2」といって小数点を使う。
アウトライナー的な形?なのかはわからないが、そのような感触、印象を受ける。

第二部は狩猟採集という言葉について。脳は狩猟採集時代の頃のままだから現代に対応できておらず、それによりバグを起こすといった言説に対する疑義?
それがいいとかわるいではなく、そこから「だから」を引っ張ってくるしぐさや手つきについて、丁寧に紐解くように言及されているように思う。

情報源→体験→感触→主観→処理→判断→選択→行為の流れのどこに人が棹をさしたり、手を加えたりしているのか。また、それによって人はどのように判断し/判断させ、行為を選ぶ/選ばせるのか、

あと、個人的に遠のいたのは、コロナによって亡くなった著名人の死によって「痛ましい死」のイメージが作り出されるまでを詳細に紐解いた部分もあり、読んでいて非常に興味深かったが、自分自身が別れを惜しむ人を誰もイメージできないため、コロナ感染者の葬儀マニュアルにある「できる限り」最後の別れを実現させようとする意思などが理解できず、あまり入ってこなかった。
わたしは気づいたら誰が死んでも、自分が死んでも、悲しんだり、遺体を触れてまで別れを告げたい人がいない状況になっていたのだ。そして、それに対し、特に何も思わない。
当座の、節々の痛みが遠くのほうで何になるのか、その不安しかない。

副題は「リスク・病い・死をめぐる人類学」だが、わたしはなぜかここに毎回かってに「老い」を挟み込んでいた。

生老病死のような四字熟語が、副題に展開されていると思い込んでいるし、今もパッと見でそういうふうにみてしまう。

今は老いが自分のしたいことをできなくさせていく、おっつかなくなっていく、また自分のしたいことが拡散していくこと、それらに対する恐怖というか不安のようなものと諦めと当座の安心を噛み締めたいという気分しか残っていない。

じゃあなぜ「他者と生きる」を手にとったか、という話になる。しごと

なんか別の生き方、別に仕事をやめるとかではなく、わたしが暗渠だと思ってる方角にもちゃんとふつうに生活があることを知りたいというか、家族が「そういう家族」以外にあっても全然いいみたいな、コミュニティといってもいいのかもしれない、会社を辞めても会社の人と、ではなく会社と関係がつづくような、なにひとつ切らずに治せる社会のようなイメージ、それがしたい、そうじゃないとわたしはガチで死んでしまうのではないかと思っていて、たぶんそれで手にとった。
だからこの他者というのは、わたしの願望としては正順で進む場合の彼女とか嫁とかパートナー、子供、友人、親、とかではなく、かといってリベラルな解体された個人のコミューンでもなく、じゃあなんなのかといわれたら窮するから、自分で何かを興すパワーか、探すパワーかはわからないが、なんか貯めたり使ったりして、それでいて好きに生きてるような心地にもなりたいといった超ぜいたくな願望のこと。
しごと

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