ディオゲネティックアーカイブス

あさ、昨日は散歩して図書館まで行きました。文藝春秋をよみました。プロムナードはエコの催しでした。芝生にはおもいおもいに人がいました。
ビーチコーミングという言葉を知りました。漂着物を採取するようなことらしいです。
鳥の鳴き声を思い出してサントリーの愛鳥活動のサイトで聴き比べて特定しようと思いましたが、そんなに憶えてなくて、絞り込めませんでした。

最近現代詩フォーラムに隔週か毎週で詩を投稿しています。非公開で書いてきた日記を検索して、特定のワードが共通するものをできるだけそのまま投稿するというものです。となると散文じゃないか、と言われたら返す言葉もありませんが、基本的には詩として投稿してどんなふうにあの投稿画面で映るのかな?っていうのを自分自身で確認したいということと、また、言いたかった人はもういないということ、最後に、あきらかに周りの人も見れている場所に置く、という3点だけで「散文とは違う」と(個人的には)思ってます。

ぼんやりとディオゲネティックアーカイブス、という言葉を思いつきました。当事者研究、当事者批評、みたいな言葉はありますが、なんかそろそろ当事者、という言葉にも手垢や先行するイメージがついてきている気がして、じゃあ、クローズ就労の知恵でもなく、生きる知恵でもなく、もうそこそこの歳になって、恨む親も消え、働いているけれどもいつ堕ちるかわからない、そんな人の自堕落な言葉、ネグレクトなようすが言葉の中途半端さからそのまま漏れ出てるようなものを集めるサイト、なんかそういうのを考えていました。ディオゲネス症候群かセルフネグレクト予備軍のさえずり方というのか、静か〜に緩やかに自己を放棄する鳴禽類の地鳴きとさえずりと谷渡をすべて混ぜ込んだような、そんなサイトのイメージ。

鈴木志郎康さんの現代詩文庫の詩人論のとこに富岡多恵子さんが書いてましたが、キンキンの金切り声でうたっていたものが、散文で、より地声で語るようになって、これからが楽しみだーみたいなことを書いてた気がします。その裏表紙のところにも荒川洋治か誰かが、今本棚を探したけど見つからないので、なんか言ってました。なんかそのまま語りかけてくれてるっぽいようなことを。たしか、(青草の上にを)読み終わったあと、なんか知らんが「おわったんだなぁ」と思ったとかなんとか。

おわったんだなぁっていうか、おわっていくんだなぁって、思う時間はやたらと長い。

ずっと自分の弾道を見届けているような、そういう放物線の外挿ばかり気にして、かといってこれがまた角度が上がるとも思われない。叱の角度も𠮟になって、だんだん衰えていく。

そういう人たちの寄り合いのような場所。ときどき見かける互助会って言葉。今本棚をみたとき鰊パイ互助会って言葉をみかけました。あとTwitterでもメタセコイア互助会みたいなのを見た気がする。

もう少し、離れ離れで、個々のプライドが高く、つながれず、散漫であるイメージ。朽ちていくイメージ。よくあろうよく生きようとも思わないが無頼なものも忌避しながら、枯れ葉とか分解するやつみたいな、たまに晴れ、たまに曇る頭脳に焦りながらどうすることもできないみたいな。

なんかそんな場所をつくるイメージを最近はよくします。しごと

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