年々ひと怖く

昨日のつづきとしては、「判別器は回路を逆にすると生成器になる」というところで、「読めないやつは書けない」とどっかで一部流布してるキーワードみたいなやつと似てておもしろいなぁ、とおもった。以上

今日はふと昔のことをおもいかえしてて、昔は動ナビで2時間近くサムネを見まくってタブを開きまくって、全部ダウンロードして、全部見ていって「はい次ー!」みたいにして2時間ぐらいやって、果てて、あのころの6時間とか8時間とかの時間ってほんっっっっっとーにむだじゃなかったなーっておもえない

動ナビではだいたい76点ぐらいからが本番で、ひきこもり末期の頃はそのあたりの点数の動画をサッと見に行くようによく訓練されていた。

今の性欲は無発動で無手勝流で無分別で、自分でもなんか怖いというか、おじいさんの性欲というか、フロイトのいうリビドーとかの意味がわかりかけてきたっていうか、おばあさんに腕握られたら異様にチカラが強いとか、なんかできるだけ睥睨したり睨め付けたりしたくないけれども、急に勃発してしまう目線に怯えながらこの中年〜壮年期を過ごさねばならないのか。それで昨日は少し夕方仕事中じゃっかんおちこんでた気がする。

わたしは、この社会できのこる先生になれるのか。これからの議題である。

福満先生のたまにする想像で独身が進行してアパートのとれる範囲のパンティとって警察に連行されるやつがあるが、あれの目線版みたいなもの。

ミソジニーっぽく振る舞わないといけないのはそのせいもある。で、昔はこの出典が母子関係なんじゃないかと疑ったけれども、もうそういうフェーズも抜けた。毒親とかいうフェーズ。いや毒親だけどねでももういいよっていう。俺もひとりが好きだったし親が何いってっかわかんねかったっていう側面があったんだろうしみたいなところがあり、まあそれでも、人生潰えるまでは生きたいですね。

要求水準の高い社会でここまできたけどー 詰んだー ななななー

YUKIのプリズムを聞いている。この曲とか、あとCharaの夕暮れのうたとか好き。何が70パーなのかは知らないが。みつかるじょりーねー

やって、決めていけば、戻れなくなっていって、困らなくなっていって、でね、どうするかってえと、またちょっとたいらなところに出てくるからね、そんときはもうオメェ、あれだよ、どうしようもねえよ

シンプルにもうこうなってくると外部リソース(産業医→クリニック→薬や心理療法)に頼るか総務とか人事に掛け合って、まあちょっと「私、こういう癖があって衝立がないと厳しいです」とか「おっぱいがこわいんです」とか言って、合理的配慮をしてもらって、「ねまるさんはおっぱいが怖いけど見てしまうそうなので、みなさんそれは無として取り扱ってあげてください」みたいな感じでプレスリリースしてもらって生きていくみたいな、まあ理想ですけど、苦しみを公開したり相談したりの前段階みたいなのが詩になってるってときもありますよね。

斉藤和義もいいましたね? だれにもいえないことはどうすりゃいいの〜?と。詩はまあ俺はこのHTMLタグはディブって呼んでるよとか、ブルって呼んでるよみたいな擦り合わせに終始しててつまんない時もありますけど、たまにはさっき書いたような本当なら会社にかけあったり彼氏や家族にかけあうべき問題のなかから生まれたような、あなたはこの苦しみをなんと呼んでますか、わたしはこう呼んでますっていうわりかし切実なものもあって、そういうほうの詩のほうが昔はわたしもちゃんと沁ゅんだ。

でももうしゅまなくなってきて、かといって誰にかけあうでもなく、このままくんずほぐれつしながら人生やってかなきゃいけないなあ…、まいったなぁ…、っていうのが現時点での自分自身への理解です。

年々人が怖くなっていきますね、軽くもなるけど。ときどき殺す膂力があるから向き合っていられるのか?などと思いますけど、なんかもっと朗らかな希望も同じぐらい、むしろそっちのちっちゃい希望とか人なつっこさのほうが、天秤にかけてみた時、膂力より遥かに少量で重いような気もしていて、それはつまりひとりかふたりかそれ以上かっていう、なんか結局膂力のないものからも引き出せるものが一番パワーがあるっていうことになるのかな、というかまず膂力は個人の衰えで潰えるのだし、そこでクソ親父みたいなやつは息子にボコボコにやり返されたり、みんなどっか行ってひとりで死ぬみたいになるのであって、やっぱり漂流教室じゃないですけど、朗らかになったやつがキノコ食ってるじゃないですけど、あれは人材を未来に企投する人類っていう構図ですけど、あれも偶然性が絡んでいて、いやそれにしても洪水を人間の鎖で堰き止めようとしてブッチーン、ギャー!ってどういうことなんですかね? でも思えば、わずか5年ぐらい前まではまだもっと朗らかだったんですよ。なんか急に笑わなくなってきて…

ボケてきてるのかな?とも思いますけど、ボケてるというか、もう尺がないから慌ててるって言ったほうが正確なのかもしれないですね。というかその尺で為すべきこともぼんやりとしてきていて、したいけどしなくてもいい、したかったけど、ああ期間を過ぎちゃったか、でもまあいいかみたいなところもあって、生きているあいだにする証みたいなこととか、反応したものには全部参加しておきたいとか、ほしいと思ったものは即ポチるとか、そういう枝葉の剪定をする時間すらとれず、関心の輪か興味の輪かの判別すら行わず、ほんと何やってんですかねって感じですが、明らかに昔より一日のタスクに色々詰め込みすぎてはいて、なんかもっとのんびりシンプルに自分を見失わないようにやりたいですね。これは常套句ですけど、別に自分があると思って言ってるわけでもなく、なんかアンカーをおろしてるイメージで、ひといき落ち着けるために書いた、そんな気がします。

今朝は日記を売ってる店っていうのをnoteで見かけて絶対行く!って思ったんですけど、東京って行きたいところを何箇所かまとめておいて、数年おきにお伊勢さん的イメージで行くとこなので、もうちょっと東京で行くところがたまって連休とれたら行ってみよう。あとは机は埋もれやすいので書見台みたいなクリップボードスタンドみたいなやつを買って、タスクを消しこめるような感じにはしておきたいですね。(っていうか覚えておいてね、自分)

しごと

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