わいの平成詩史(だだ書き) 6

わたしはほとんど何かと関わったことがない気がする。ほとんどすべてのこととはニアミスするしかなかった。縁みたいなものに体力がもたないというか、才能がないというか。
コフート的に言えば双子自己対象、才能と技倆の領域がからきし駄目で、だから詩というのも自分にはなんか無理な気がする。

とはいえ、若い頃はバフがかかっているというか、チートなところがあって、そういうパワーがない人でもちょっとは(それへの興味だけで)やれるみたいな時期がある。
わたしにとってはそれが偶々ネット上の詩だったということなのかもしれない。
わたしにとってはそれがちょうどネット上の詩だったということなのかもしれない。

なんかどっちでも同じ意味な気がする。たまたまもちょうども同じ意味。

最近この投稿を毎日ガーっと書いているが、仕事中にも時折おもいかえすエピソードがあって、今日は一応それをしたためておく。

エピソードといっても、基本的には初期のインターネットの話だから「なんかこういうふうに書いてあったのを読んだ」という話に過ぎないのだけど。

わたしはプロジェクト(前回参照)以降、ぽえ会以外のところも見にいくようになった。そして、徐々にpoeniqueというサイトを主に見にいくようになった。

そこの管理人さんはいけすくかいけすかないか結構微妙なラインの人だった(なんか俺は仕事できるアピールっぽい雰囲気が漂ってたから、ひきこもってる自分はなんか若干いけすかない寄りだった。それに、この人もプロジェクトに絡んでいた)

今書いて思い出したけど、この管理人さんがプロジェクトの詩を代理投稿をしていて、ぽえ会に投稿(爆撃)された詩が問題(内容ではなく投稿ルール無視の件)になった時、この人が出てきて、この人が事後的且つ事務的に、ぽえ会の作品5つほどに感想を書いて、手打ちとなったのだ。
そんな記憶がある。わたしはとにかく記憶で書く。

今、じょじょにpoeniqueに行くようになったと書いたけど、たぶんそれは間違いで、代理投稿にやってきた人(あるいはプロジェクトの企画者のひとり)がpoeniqueの人だったから、そこに「偵察」として見にいったのだった。

見にいったpoeniqueも、やっぱり詩のサイトで、投稿するところがあった。それとは別に、管理人室的な個人のサイトもくっついていて、管理人はエンピツ(日記サービス)でなんか書いていた。
日記の最後に、面白かったら押す投票ボタンがあって、それを押すとその日記の順位がなんか上がるっぽいやつがあった。
基本そういうのは「押すもんか」派に所属してるので押さないんだけど、このボタンの仕様が鬼畜で(すぐ鬼畜とかいう)、ボタンの文字を自由に変更できるうえに、押すとボタンの文字が変わるという仕組みがあった。
これのどこが鬼畜なのかと思われた方
もし目の前に「俺が好きな魚は…」と書かれたボタンがあったらどうします?
気になって押したくなるでしょ。
で、押すと「秘密(爆)」みたいになるのである。
こんなの押すに決まってるでしょ。
そういう仕様だったので、わたしはときどきツンデレみたいにその爆撃に関わった人の日記の文字が変わるボタンを押したりするようになった。

ときどき日記ではインターネットでの詩についての意識みたいなことが書かれてたり、あとインターネットで詩集を出版するみたいな流れをつくる的なことが書かれていた気がする。

今にして思えば、結構先取り感があって、今でいうところのBOOTHとかBASEとか、BCCKS、ラクスル、製本直送…(今ブックマークに入れてるサイトを読み上げているだけだが…)なんかそういうのに近いのかな、イメージ的には。ちょっと違う気もするけど。

当時だとわたしの視界に入ってきていたのはポエトリージャパンがあった。そして一〇〇〇番出版というのもあったのかもしれないが、わたしはよく知らない。

ちょっと考えてみてほしい。

ちょっと頭ひとつ抜けてる人を叢書的にまとめていく感じと、何かを表現したものを著したい人が自費出版で持ち込むのと、賞レース的なものをこさえて、そこで優勝した人の詩集を作る、勝手に自分で冊子などを作る、などといったパターン(表現を詩集にする経路)があるとする。
そして、ガチで書店で売る、自分で配り倒す、即売会でがんばって売る、売るサイトで売る、などのチャネルがあるとする。

あなただったらどのパターンで詩集を作って、どういう流れで売りたいだろうか。

現代詩手帖とかだと一年間いい感じの作品を投稿してきた人の中から選者がえらんで新人としてデビューさせる感じの雰囲気である。

あとはなんか詩人の名前が冠された賞が結構ある。これは詩集がないとエントリーが無理な気がする。

あとは作品単位で募集しているところもあるが、これは時代(小学生の部とかいう分け方)とテーマ(お題は、春です)といった感じになってて「俺の今」みたいな作品は「お引き取り願います」「こっちから願い下げだぜ」といった気分です。

まあこういうふうに考えたわけじゃないし、考えるまでもなく、ジオシティーズ等の無料WEBスペースで詩をアップして、フレームでインデックスを作ればあら不思議、俺の詩集のできあがりである。

誰からも「う〜む、これはすぐれているねェ〜」とか言われて無理やり本にされたわけでもなく、自分が自分の審美とか汚物観(造語、特に意味はない)によって選んだ詩の束である。これはこれでいい感じである。
ただ、なにぶん勝手にやってることなので、他人が読んでおもしれーってなる可能性や、他人が読みにくる可能性はグッと低い。他の人もやってるから、自分だけがやってるわけじゃない。その中でなんとかして自分の詩を読んでもらおうとすると営業をかけるか内容を抜きん出たものにして「おっ、あいつの詩ならちょっと読んでみようか」と思わせる流れを構築していかなければならない。

じゃあなんでそんなに読まれなきゃいけないのか? というと、せっかく書いたんだから読んでよ、というになる。
ただ、インターネットの広さよ。
いや、今思えば昔は狭かったというか、ある意味ネットのダンバー数(人間が安定的な社会関係を維持できるとされる人数の認知的な上限 by Wikipedia)の範囲内でわかっていたあの頃の感じと、今のTwitter的なものでフォローとタイムラインで変に密接に認知してる人の生活の動きの断片のようなものとは、かなり違いがあるように思える。
当時の、時間が経った置き手紙の痕跡が蓄積していくものを読んで、他者を把握していく行為と、現在のタイムラインでクリンチ状態になっていて、外にはSEO対策が施されたなんか愛の感じられないブカブカした、確かに検索結果に応じた情報に特化しているサイトなのに、みていて生活がかかってるんだろうなぁみたいなサイト、つまり小銭稼ぎの一環として誰かがやっている何かを見ているという感覚が拭えない。

話が違う方向にいっている。

昔、「今、詩と検索したら4万ぐらいあるヤバい」みたいなコラムを、どこかで読んだような記憶がある。じゃあ4万としよう。
4万の中で読まれようとすると、草の根運動で相互リンクを張ってこの人は更新情報(あるいはWhat's new)のところで新作って書いたら読んでくれるし、わたしも読むお(打ち間違えたけど、このままでいいか)っていう信頼感で確実な読者を得るか、作品だけで「お願いします! 相互リンクお願いします!」って言われる立場になって雪だるま式(いうてもMAXでオラフぐらい)に読者を得るか。

今ならフォローで結びついて、SS名刺メーカー的なもので画像として詩を乗っけたりすれば、個別にいいねが気まぐれでつく世界だけど、相互リンク的な人以外からもふといいねが膨らむ瞬間(これが数千単位になると「バズる」になるわけ)がある。
ふだん0とか1とかの人のところにときどき3とかがつくと、それはそれだけで有意に「あれ、こういう感じのが受けるのかな」みたいになるけれども、かといってそれで書き方を変えようとまでは思わない程度の磁場である。
好きにするか、寄せていくか。
他の分野が最低限、他者に阿ることを必要している(というか単純に技術がいる)のに対し、詩は、そういうのがまったくなくてもオッケーなところがある。
よく漫画家が紙とペンだけで始めれると言ってるが、詩人も基本装備はそれだけでいけるけれども、漫画家みたいにいっぱい書いて練習する必要もない。いきなり書いて詩が書けたといえばそれで詩である。
この参入障壁の低さは異常なので、これを良くないものと捉える向きもある。「ああいうのと一緒にしてほしくないね」といったガチ勢もいるし、…いや、いるのかは知らない。いるのかもしれない。
いや、そういうのも含めて、そもそも詩人という存在自体が恥ずかしいものだという考えの人もいる。
ポエムというのが揶揄として使われがちな現状(どこで? どこででも)もある。

「なんでこんななっちゃったんだろうね」というと、やっぱり「これがいいものです!って感じで打ち出さなかったからだ」つまり、詩の中で、詩界隈で、良いものを選出して、詳しくない人が読んでも「ほぉ…これはなかなか」「これならば、まだ「詩」も生かしておいてやってもよいかな」と世間様に認識されるための活動をしてこなかったか、あるいは活動はしてるけど認識されてこなかったからである。

じゃあ、みんなから「詩、生きてていいよ!」と言われるために、いちいち頑張らなきゃいけないのか?というと、答えはNO(そして静かに親指を下に向ける)である。別にしなくていい。別にしてもいいけど。

要は現状に問題意識をもつかどうかである。自分ごとにするか、あるいは「まあそういう人もいるね」ぐらいで済ませて別の世界でやってます、あるいは世界の片隅で迷惑かけずにやってます、というスタンスでやるのもいいし、ずぶずぶ(何がずぶずぶなのかは知らない)でやるのもいい。

なんとなく、詩というのは暖簾に腕押しの究極系なところがある。意味とかコスパとかの逆張りみたいなところがある。だからこそ根源的っぽいところもあるし、そこに、なんか、何もできなかった人があやかろうとする雰囲気もあるし、そもそも、あやかるも何も、あやかれるほどのパワーやプレゼンスがあるものでもないのに、みんなその言葉や概念だけは知っていて、イメージもそれぞれに抱いているけれども、あらためてよくよく考えてみると、「あれ? なんか、なにもなくね?」みたいになるのが「詩」という言葉のような気がする。

だから、ある種、詩のことでなんかまとまろうとすると基本うまくいかない。
詩をインターネットで発表するというのは、すごく刹那的なところがある。日常で言うことができない物事だからこそ書ける。あふれるけどどこにも言えないし、自分と結びつけられるとそこに居られなくなるようなことを、インターネットであれば書きつけることができる。

「インターネットには玄関に貼れることしか書いちゃいけない」みたいなことを言ってる(ツイートしてる)のを見たりすると、直感的に「ああ、いやだなぁ」と思う。
玄関に貼れないようなことがあふれてしまった人に対する想像力がまったく欠けていて、そういった言葉を吐いた帰着として人を傷つけたり、自身の身動きが取れなくなったり、往生したりすることがあるにしても、それらの結果を先取りして、ありもしないルールをでっちあげることにはあんまり与したくないなぁと思う。
最初からある程度、自分の中にレギュレーターを持っておくことも大事だが、逆に、それが緩んでいるのを見た時、ちょっとだけ無視するようなことも、出来ないわけじゃない。許す、というほどでもない。

気がつけば全然違う方向に話がいっていた。

紙媒体とネットの関係。今ではもう印刷してどこで買えるかSNSで発信して、という形でできることだが、昔はもう少し権威主義VS民主主義みたいなところがあった。
簡単に言えば、「ふつうにネットにこれだけいい詩があるのに、なんだ」ということである。
紙という、それこそ紙幅の限られた場所に掲載されている特権的立場の人たちと、インターネットに自由に書かれた優れた作品とで、そこまで内容的に差があるわけじゃないし、むしろインターネットにあるもののほうが優れている場合すらあるのではないか?
いや、こういう話じゃないのかもしれない。
紙媒体側で「インターネットにある詩をちょっと読んだんだけどね…ちょっとひどすぎる」みたいな記事が出たりして、インターネット側からは「お前はどこを読んでいるんだ」「とにかくお前はインターネットがわかっていない」という疑義が呈されたりしていたということかもしれない。

さっきいったように、インターネットは広い。まあ世の中どこでも広いんだけど、インターネットは無駄に広い。たまたま最初に「詩」で検索して出てきたサイトを読んで「うげげー(by富井副部長かキン肉マンの解説者)」ってなって「これはインターネットの詩の未来はアカンね…」みたいな感じで書かれると、若者はくっそーってなるわけである。
筑紫哲也がインターネットは便所の落書きだと言ったりしていたのと構造的には似ている。
昔2ちゃんねらー(2ちゃんねるを見てて帰属意識を持ってる人?)が大規模なオフ会というか、フラッシュモブ的なものをやって、要はネット上で情報を示し合わせて、まったくの他人同士で連帯して世間をちょっと驚かせておもしろがる、みたいなノリがあったりした。また、2ちゃんねる発の事件とか、スラングがテレビで取り上げられると、それだけで祭りが発生してサーバーが落ちたり落ちかけたりしていた。

これは2ちゃんねるとメディアや世間との対立構造ではあるが、なんかこの感覚と、紙媒体とネットにおける詩(に関わる人)の構造はちょっと似ている気がする。

当時は、他のメディアにネットのことが書かれてるとなんか嬉しい、みたいな感情があった。
隠れキリシタンじゃないけど、自分の表の生活と、ネットに接続してからの生活を切り分けて、後者を隠すというか、あまり話さないようにしていた。
といっても、わたしはひきこもりだったので、元から話す人はいなかった。だから、私は、主に「ネットのことがメディアに出たらしい」と読んでちょっと嬉しくなるとか、「メディアでネットのことが悪様に言われているらしい」と読んだりして、義憤に駆られたりするといった揺れ動きかたをしていた。

インターネットの詩に対する思いや感情も、その一環、その一部のような気がする。

まあ当時ネットに接続するためある程度の技術が必要で、そのときにある程度思想も入るみたいなところもあったので、ネットにいる人が共通して内面化してるイデオロギーというのか、読者共同体的なものがあったように思う。ただ、これのせいで、黙っていることを余儀なくされた人もいたのだとは思う。それは半年ROMってろとは別の意味で、男性的で自虐的なイデオロギーによって、それ以外の人もその空気に馴染まなきゃならなかったりした、という意味において。
もう好き勝手に書いてしまっているから、ついでに書いてしまうと、西海岸的な思想にオタク的なものがくっついて、新興の草の根メディアとしてのインターネットが、旧弊なテレビや紙媒体を討つような機運が高まっていたような気がする。討たなくてもいいけど、茶化すというか。

これは、このメディア(ネット)に、自分と同世代の人間がどっと流れ込んでいる、という実感を背景にしている。それによってそれ以外を一旦捨象して、単純化した上で「俺たち」といった言い方をする。
単に「ネット詩」という時でも、このようなニュアンスが、素早く含まれるのではないかと思う。
そして、この言葉には、おそらく多分に時間が含まれている。少なくともプロジェクトのあった頃から、20年分。時間と人と共に、さまざまなニュアンスを含んで使われてきたのだと思う。

今、パッと思いつくのは年単位。1年おきに年次が上がっていくように、自分がもつ「ネット詩」「俺たち」概念は上がっていく。言葉としては同じだが、次年度のそれは指す場所が、少しずつ変化している。

そうやって、今(便宜的に)20年目のネット詩、昔とは随分見え方が違うのだろうし、昔と同じように見える人もいる。この言葉を見たときに出てくる記憶もそれぞれだろう。

最も、ネット詩という言葉を背景とする共同体を実感する単位は、年次ではなく、投稿サイトの盛衰によるものだろう。

つまり、投稿サイトの盛衰単位での「俺たち」「ネット詩」概念があり、裏では、それぞれの人間の年次単位での概念が流れている。
わたしを例にとれば、わたしは2000年前後に大学生だった人間の年次の概念をもって、それとネット詩概念が結びついて、これが20年間スライドしているということになる。
なので、わたしはひきこもりだったけど、二十歳そこそこの大学生の人たちや、もう就職している若い人たちと、同時に揃い踏みしてネットに現れたように感じながら生きていた気がする。

そして、このタイミングを揃わせるのが技術的な進歩であったり、それらの技術やサービスの低価格化であったりする。

この場合は、Windows95の時点でインターネットに接続し、サーバーと契約してWEBスペースを確保した中年〜壮年(なんか表現間違ってる気がするけど、まあいいか)によって作成された「場(投稿サイト等)」に、Windows95〜98(やiMac)のあたりで入ってきた、15歳〜30歳あたりの人たちの集団、みたいなイメージ。
このような読者共同体の書き残していく痕跡によって、自分自身の実感やイメージ、また所属とか帰属意識が形づくられ、その上にネット詩といった概念が成り立っている。

ただし、ここで、インターネットというメディアと、現実の自分がまたがって存在しているだけであって、(可能性として)紙媒体に書くこともあれば、インターネットに書くこともある存在であることは、あえて忘れ去られていた。
それは、まだ何ものでもない若者であるか、既に職を得て働いている者が、インターネット、当時はテレホーダイによって夜に偏っていた存在が、紙媒体に書く機会を得ることが難しかったし、また、その方策というか、筋道が見えない(わからない)時期でもあったから、とにかくすぐに自分の思いを書き綴れ(書き殴れ)、またそのような他者と素早く、距離的な制約なく交流することに依るのは必然的な流れだったと思う。なんせお金もないし、実家暮らしか、一人暮らしを始めたばかりの金のない学生とかもいたのではないか。
まあ、そのぶん、そこ(インターネット上で)詩を選ぶからには、それなりに何かがある人も多かったのかもしれない。たまたまの人もいるだろうけど(わたしもたまたまの人だけど。そういう意味で、ネットは、元からの人と、たまたまの人を混ぜる作用もあった気がする。つまり、ネットがなければ、まったくスルーしていたかもしれない人も引き寄せることがあった)。

結局、読者共同体やそれらが標榜する概念のようなものも、投稿サイトの帰属意識や、裏で通底する彼らの緩やかな年代意識の中で揺れ動いているのが実情であって、少し詰めていくと、彼らも結局紙で書くこともできればネットで書くこともできる存在であった。

だから、敢えてネットが紙媒体と対立したのは、紙媒体側の「インターネット上の詩は玉石混交である。対して紙媒体では、編集や校閲や制限があるぶん、厳選された優れたものが載っている」といった「幻想」を、なんとしてでも打破したい、すくなくとも、ネット上にも紙媒体よりも優れたもの(があること)を認めさせたかったのだと思う。

そのためには、ネット上の詩のサイトとして、優れたものが置いてあることを標榜する必要が出てくるし、その仕組みも必要となる。そしてさらにその先に、ネット発の優れた詩集、という形も見えてくることになる。

このような形で、紙媒体よりも距離や時間的な、また、精神的・社会的・経済的制約から解放された形で書かれたものを募り、掬い上げていくことによって差別化をはかり、新しいものを生み出そうというムーブメントがあったのだと思うし、そういった出来事が、2000年前後には、さまざまに繰り返されたのだと思う。

ただ、当時のネットは今ほどお金に対する意識や、もし寄付をするにしても、投げ銭的な手段がなかった。今はなんかもうクレジットカードバンバン登録してサブスク課金スパチャとやりたい放題ですけど、昔はなんかPaypalとか書いてあっても寄付なんか一切しなかった。とにかく単純になんかめんどくさいし、怪しいし、めんどくさかった(2回書いた)。
あと、わたしはひきこもっていてお金を使えなかった。わたしにお金は使われていたはずだが、わたしはお金を使えなかった(2回書いた)。

他の同世代の人も、ふつうに金なかったと思う。みんなはたちそこそこの若者で、家賃とケータイとプロバイダーとテレホーダイで死にかけてたと思う。

まあ初期のネットは金払いが悪かった。なんでもタダでやろうとするのが基本だったし、やる側もお金をもらうのは悪い系の雰囲気があった。
マネタイズに関心がなかったし、あってもなかなかにハードルが高かった(であろう)。
だから、だいたいの投稿サイトは手弁当でボランティアで無償労働みたいなところがあった。というか、今もそうかもしれない。

なので、基本的には衰退するのは明白というか、必然だったのかもしれない。

飽きるというと意地悪な言い方だが、飽きなくても、現実時間の経過によって、生活に変化が訪れる。大学生だった人は就職し、高校生だった人はニートになり、専門学校の人は留年する。すごくてきとうに書いたけど、要は、ガラッと生活が変わるわけである。それに、その手前には試験勉強とか、友人とか、恋人とか、親とか、メンタルとか、なんか色々ある。
更新とか投稿とかばっかり、ずっとできるわけではない。
何かのきっかけでやらなくなると、ずっとやらなくなる。なんとなく、投稿もしなくなるし、ログインしなくなる。

実家に帰って暇になったとき、ふと思い出して覗いてみるだけ、みたいなポジションになる。

詩に対する熱意みたいなものと、現実の周期というのは、結構ぶつかる。逆に、ぶつからなかったらちゃんと生きてないといっても過言である。

そういうときに詩のほうを優先しちゃったらビンタだからね?と思う。

というか、そっちにいくとき、大抵は逃げているのだと思う。ただし、逃げることは大事だと思う。

かといって、周期が離れていくのに任せて、書かなくなってしまえば、もうそれでおしまいである。書く理由も書く習慣も手放してしまえば、自分はもう一生書くことと巡り合わないぐらいの気持ちで書き続けてみることも大事だけど、そのときに自分の弱いところを見ないために書いているようだったらちょっと筆をおいて戦ってきてもいいかもしれない。でも危なくなったらすぐに逃げるんだよ、とは思う。

なんかそんな気持ちなのに、わたしはいつも弱いところを見ようとしない。

これはなんの話なんだっけ。

たぶん、ネット詩という概念について書いた気がする。今日はもう疲れたから、このへんで。


(つづく)



補足:今回は、玉石混淆という言葉を使ったけれども、そのへんのことは、このあたりを読むと視覚的になんかよくわかるのかもしれない。

引用すると、特にこのへんですね

No.0317 2000年05月28日 午前09時43分

◇詩サイト考(5)
たとえば、Web群のpoemをみて、
(日記形式で)つぶやいているような、詩だといえるかどうか
poeticalな匂いはあるが、文章の断片にすぎないのではないか
という「作品」(a)から、いかにも「詩(現代詩)」だというみかけの
バリバリの「作品」(z)までを一線において──、

 ・a ・b ・c ・d ・e .... ・u ・v ・w ・x ・y ・z

と、仮に並べますと、
この、a と z に着目して、Web上の「詩またはpoem」を
論評したり、考察したりする際に、

 ・abcdefg ・hijklmn ... |     | ... ・x ・y ・z

のように、a の側、z の側に本来は中間に位置すべき作品を寄せて
その間に、断絶的な仕切りを付けていないか(意識操作→情報操作)、
という疑念があるわけです。

(Clubの) Bookmarks(1)にリストされている約4,000近い Webサイトに
ある多数の「詩/poem」を見てくると、a に近い作品だけでなく、
言語意識・言語表現・詩法等も、もっと多彩多様であり、
いわゆる「ネット詩」という視点ではとても括りきれない。
ひいては「ネット詩」対「(詩壇的)現代詩」などという二極に分けて
考えることがなにほどの有効性をもっているかはなはだ疑わしい。
疑わしいどころか、誤謬といってよいのではないかと考えています。

文集〔詩サイト考〕2000年版(2)  ◇詩サイト考(5)

これに加えて、書き手もネットに書いたり、紙に書いたり、紙に書いたのをネットに、またその逆も然りなわけで。
単に、さまざまな媒体に個人が参加している、というだけの話で、詩の形式(というか、見た目の雰囲気といってもいいかもしれない)の多様さとともに、さまざまな媒体に参加する個人のアイデンティティの置き所や濃淡のようなものも加味すると、さらに複雑さを増していくし、分けて考えることの無意味さも浮き彫りになっていく気がする。









【例によって書いたけど使わなかった箇所】

人間はしんどいので(他の生き物も基本しんどいが)、作品がいいと思うかで毎回いいね押してるのはしんどいのである。


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