0618

あさ。昨日の記事はさすがに1いいねぐらいはつくと思ったら一個もつかなかったので憤っている。
冗談はさておき。
散歩してきた。最近スマホを持ち歩かず、Apple watchで最小限の音楽を聴いてあるいてるので(今はかまってちゃんのコンクリートの向こう側へ)メモがとれないため、記憶を最小限の携えワードにして、帰宅後展開する。
これは会社や信号待ちでも同じ。
ただ、展開した時にまったく同じ流れになるかといえば、そうはならない。順序も違えば、変な方向に行ったりして戻ってこれないのでもうええわ!となってきて「*」をつけてもうガンガンぶった斬るようにする。
そうすると、いずれ壊れたラジオみたいに何回も言ってることが出てくるので、それを何回もなぞり、ブラッシュアップし、最後のやつを使う、みたいな感じにする、そういう淘汰の仕方で書いていく感じ。

3歩進んで死の影踏まず
まずいゼリーのグランドクロス
詰んでるシムシティ

今朝の散歩の携えワードはこの3つだが、ひとつめは、
歩いていると、カラスが真上の電線に止まったっぽかった。
真上を見上げると、ぎり真上ではなく、ぎり右だったので
「ああ、縁起がよかった…」(損なわれなかった)
カラスが頭上をゆきすぎたり、真上にとまったりすると(そもそも真上に止まるという概念じたい、電線がないと起こり得ない、いや、木の枝とかがあるのか…。いや、でも、やっぱり電線はおおきいでしょう)縁起が悪いというのを昔聞いて、それからずっと気にしていて、カラスが頭上にこないようにしている。まあバイクの時とかだと、どうしようもないので、「あ、今のはちょっとずれとった」と否認するようにしているので、基本的には絶対に縁起が悪くなることはない。でも、やっぱり内心ではどう考えても今頭の上だったよな…と思うことはあるので、そうなってくると「今日もしかしたら追突されるのかも、轢かれるのかも」とはちょっとは思う。でも目的地についてみると、まあそうでもなかったので、迷信やなと思う。
「3歩進んで死の影踏まず」は確かゲームボーイという古の携帯型ゲームハードウェアの最初期のソフトであるスーパーマリオ「ランド」という、いつでもどこでもマリオを白黒で遊べるという、電池がなくなってだんだん画面が掠れてマリオが飛んでる最中に真っ白になるまで遊べるというすごいゲーム機があって、そのゲームの攻略法の漫画みたいなやつに書かれていた、ラスボスの攻撃をかわせる安全地帯(安地)の標語だった、はずである。
これは実践しなかったが、このキーワードだけはずっと覚えていて、先のカラス避けの時にふと「…3歩すすんで死の影ふまず。」と思ったりするのだが、実際はむしろ「3歩進まず」のほうが実態を踏まえているのだが、実態とは関係なく、カラスが頭上にくるとどうしても3歩進んで…と考えてしまう。もはや、このワード自体、わたしのなかで形骸化していて、何か縁起のわるいものを避けるときのしぐさの実状とはまったく関係なく反射的に出てくる真言というか、コーピングマントラみたいなものになってしまっていて、しかもこれ自体はまったく役にたつわけでもなく、ただ思い出すと芋づる式にスーパーマリオランドの攻略本の漫画が思い起こされる、というだけのしろものである。

2、まずいゼリーのグランドクロスとは

これはさっきの芋づるをたどっていくと、最近あついのでそろそろお中元である。お中元というのはくそインフォーマル贈与のことである。
ハムの人とかいって投資してた丸大とかが今どうなってるのか知らないが、あのよくわからないシステムというのか、贈与の習慣慣習はいったいなんだったのか。
さておき、お中元。タオルかゼリーかハムかみたいなところはあって、たぶんうちの親戚のおっちゃんは「巻いてあるタオルより食べれるゼリーやろ」みたいな感じでデパートの上のほうでこれとこれとこれをこことこことここに、と書いていて思ったのだが、今思えば、あれはめちゃくちゃ手間がかかってるな…住所書いたり選んだり、くそゼリーとか書いてすまんかった、とは思うが、子供の当時はやはりくそゼリーだった。

たぶん巻いてるタオルと同じ箱でゼリーをどうするかみたいな感じでゼリーの寸法が決まってるのでゼリーがうっすうすいのである。
それをさらに薄いプラッチックのスプーンで食べるのだから食べた気がしない。すぐなんかアルミっぽい質感の底に行き当たる。
しかも、アソートで4種類か5種類味があるのだが、一種類だけどうしてもまずいのが毎年まじってくるし、家族の味覚もグランドクロスというか、シンクロ率が非常に高いし同調圧力もあるので、まあ一種類だけ全然食べられず、ゼリーの箱の中にまったく手をつけられないグランドクロスができるのである。
これも結局食べなきゃいけないので、最後のほうはほとんど食べるものがないのでしかたがないから食べるぐらいの勢いで苦虫を食べるように食べて消去するのだった。

思えば、あれだけデパートの上のほうで伝票書いて安くない金を払って薄いゼリーを送って毎年一種類誰も食べたくないゼリーが残り、年に2回その送り主のおっちゃんが来るときには完全に存在忘却していて、おっちゃ、おっちゃん、おっちゃんのポマードのにおいには耐えれるねんけど、あのゼリーのあの味にだけは耐えられない、勘弁してください、みたいなことは言わなかった。

まぁお中元だし、何年も送ってもらっておいて、あのゼリー実はまずかったっすよ、とはさすがに誰も言えないし、まずいのもあの中の一種類だけであって、うちの家族のシンクロニシティに叶わなかっただけであって、どこか別の家庭ではあれがバカウケしていて、うちで真っ先に消えるゼリーがくそゼリーの可能性もある。
ふと今思い出しだが、個包装じゃない、丸くて薄い容器に入ってるコンドームを見るとあのゼリーを思い出す。冗談ではなく、あれぐらいほんとに薄かったのだ。あれにゼリーが入っているのを思い浮かべればいい。ということは、逆に考えれば、お中元にコンドームのセットを贈れるということなのかもしれない。

そもそもがあんなに薄いゼリーをお中元の流通網に乗せるために作って利益を得ようという発想がそもそもどうなのか、というのは今にして思えることであって、昔はもうとにかく「タオルの箱に合わせてゼリーつくる!」と壁に貼ってがんばって一丸となってタオルの箱のゼリーをがんばってみんなでつくってたのだろうな…と思う。
逆にお中元というのは消えてしまえばなんとも思わないが、続いているときもなぜ続いているのかよくわからない。なんか流れでやってるところがある。祖母はそういう流れにのっていた。そろそろ鮎(菓子)たべなあかんなとかそろそろ水無月やなとか、護摩木たかなあかんなとか、その一環でお中元やお歳暮があり、まあそのノリでウェーイとやっていたわけだが、わたしはノリがよくなくて、そういうのがあまりわからなかった。
母も祖母のことが嫌いで常時塩対応だったので、そういうものかと思ってわたしも祖母に塩対応気味だったかもしれない。白飛びするまでゲームボーイやってる子だったのだ。

いや、しかし、一番目を悪くしたのは、とどめになったのは、ゲームギアのカラーだろう。あれが一番目に悪かった気がする。あれで女神転生やってた時期が、我が生涯で最も目に悪かった気がする。

3、詰んでるシムシティ

つまり、たぶん、お中元のレスポンシビリティ、責任や応答性のなさみたいなものがまだ連綿と、おおかたの日本を覆ってるような気がしなくはないってことである。
つまりもらってるから応える立場にないといったような遠慮の態度をかさにきて、相互の信頼性を育むような踏み込みが足りないとでもいうのか。
対話もなくモノを贈りあってありがとう、居るね、みたいな感じ
長田弘の詩「賀状」とかが近年すごく嫌いというか
あまりいいもんじゃないなぁと思うようになってきたのも
このへんと関係がある気がする。
要は、なんかちょっとダンディズムというのか、無言の関係みたいなものの美徳のようなもののうち、あんまりよくないものが駆動してるというのか。これが時代によってそうなったものか、もともとあんまよくなかったのかは知らないが、わたしは生きているうちにこういった関係性がしんどくなってしまったし、もともと相当に息が詰まるものだった。バイタリティがあるというのか、耐性があったりいなしながら面従腹背できるようなしたたかな人間なら突き進める世界なのかもしれないが、わたしみたいな人間には無理だった。
相互の思い込みの関係性のうち、お互いにぼんやりと、自立した関係として、それでいて、ねっとりと、続いてるというのか、ねっとりした感じ。いざとなればそれによって弱い順から絡めとって食べていくような、待機させられているような硬直性。
もう会うことも同窓会か、お盆か正月ぐらい。そういう人、社会制度。
それが当たり前、っていえるほど強かない。
というのがわたし。
小林明子のフォーリンラブかなんかの歌詞に「わたしを届けたくて」みたいなのがあった気がするが、これはある意味、自立してない人間の態度だろう。確かそのつづきは「ダイヤル回して手をとめた(ファルセット?)」ここがとても好きなのだが、そのあとは英語で私はただの恋に落ちた女です、みたいなことを言うのだが、まあ、自立はしてないが、迷惑はかけまいとする健気な女性の心情であり、かつ、日本人の一類型のようにも感じられる。
大人のこの距離をとって年賀状を送り合うとか、お中元を送り合う距離感みたいなのだと助からない人間というのが昭和にも相当数いて、昭和はそういうわけのわからない人も一応血族というか眷属だということで、たまにふらっと家にやってきて「○○(地名)のおっちゃんきてるえ」と言われて、そのおっちゃんは朴訥すぎて全然喋らないので、ほんとに見るだけで、「地名のおっちゃん、居るなぁ〜」と思って見たりしていた。特に何も思わなかったが、今思えばわたしはあのおっちゃんである。おっちゃんめっちゃしゃべる(書く)やん、なにいうてるかはぜんっぜんわからへんけど

あのおっちゃんはお中元とかの概念からは抜けていたが、家庭もなかった。ただ絵を描いてるらしいことは知っていた。
あの地名のおっちゃんみたいな人が現在の社会だとどのへんに位置づけられるのだろうか。あのおっちゃんの居場所は現代日本にあるのだろうか、てなことは思う。わたしは会社の従業員として働いているが、心性はどう考えてもあのおっちゃんであり、お中元とか、家庭といったシステムからは抜けている人間なので、そういうハイブリッドはありやなしや?と悩みつつ生きているというのが実際のところであるし、それを語る場所ももっていない。まあ、この世界ではそれこそそういう人をがんばって見つけろ、という話で、たしかにそうだと思ってしまう。か、こういうもんだと思うか。
江戸時代の行き倒れ、現代の行旅死亡人、職業を持ち収入を得ながらにして、行き倒れのような不安を抱いてしまっているのは、いかがなものだろうか、もう少し素朴に生きて素朴に死ねないもんだろうか。
あの地名のおっちゃんは一体どうだったのだろうか。
といって、わたしにはもう訊く家族すらいない。

なんか

そういうことを考えていると、頭の中が詰んでるシムシティみたいな、人は減ってビルがなんかどんどん文明退化して掘建小屋になったりしていったり、なんか燃えたり、道路が欠けたりして人口もガンガン減ったりしてるけど、手のつけようのない、もうやる気をなくす詰んでるシムシティの画面みたいなものが今の、わたしからみた日本像だなぁ…ということを帰り道で考えていた。

連綿と続いているものと途絶したものがあり、連綿と続いているものも少しずつ当たり前だが(当たり前だが?)変容していってる。
変容していくことに対し都度課金し、また都度応答できるものに関しては応答する。だが応答がなくても、変わっていったり、静かに途絶する方向に舵を切るものもある。
わたしはたぶん途絶するもののほうであるという、なんとなくの自覚がある。
ただ、途絶するまでのあいだの、応答性を確保したい。
健康寿命を延ばしたり、活動や居場所、仕事を増やすことである。
散歩は健康寿命を延ばす一環。
左股関節の痛み。
最近は原因不明というか、唐突に股関節や膝やくるぶしが痛むことが増えてきた。やばい。
Googleで股関節の骨とかみてると、ウーマナイザーなのでは?と思うことがある。
神は股関節の骨でウーマナイザーをお造りになられた。
おいといて。

まあ活動、居場所、仕事である。
数年前、紫門ふみの読み切り「ハッピーリタイア」を読んだとき、老後大事なものは「健康と話し相手/それと仕事」と書かれていた。
たぶんゴトウユキコの犬、走るを読もうと思って買ったらハッピーリタイアも載ってて、偶然だけどおもしろかった。

「健康と話し相手/それと仕事」

まあ、そうだろうなと思う。というか、最近ほんとそうだなと思うようになってきた。数年前はそうでもなかったけど、なんかやっぱり意味もなく、前触れもなく、朝起きたらなぜかくるぶしがぐねったようになってたりすると「はぁ?」ってなるし、怖いのもある。

で、話し相手は超いない。皆無である。一日無言なんてことはしょっちゅうである。時々台所で「はいどうも平岡です」とiPadのYoutubeをやってる人の名前をなぜかひとりでつぶやいたりしていて「やば」と思ったりする。

だから話し相手を探そう。パートナーを見つけて迷惑かけずによろしくやってろ、という圧が日本では妙に強い気がする。再生産圧とでもいうのか、このプレッシャーが余計にやる気をなくす人のやる気をなくすのである。リラックスするには距離と間隔が必要である。だからもう少し減ったほうがいいというのは妥当かもしれない。自然減で途絶するものはして、圧のない日本になって、まあ支配されるところはして、今おもってるような日本はなくなるだろうけど、それはそれで長いスパンで見ればそんなおかしなことでもないので、たかだか数十年〜百数十年しか人生がない誰もが、日本そのものをあるべき形のまま護持するしんがりか何かになれるわけでもないので、やれる範囲でやるわけだが、まあ、まずは話し相手である。
特にパートナーという二者に限定せず、さみしいけど、なんか開かれた、誰でも入れるところでふわっとまずは話して、この妙なプライドを砕きたい。

最後に仕事であるが、これは今やってるこの仕事(会社員)ではないことは明白であろう。
仕事の定義を広くとらないと、これも先の「話し相手」と同じように、楽しめない自分に幻滅し、それをプライドが許さず、閉じこもる方向へと向かっていってしまうだろう。

まあ、自分の人生における仕事である。賃労働に限定されるはずがない。一冊の本でもいいし、山をいくつ登るかでも、庭仕事でも、編み物でも、ブログでも投資でも、人と会う、話す、たくさんセックスする(これも途中から定義を広げなければできないだろう。射精やオーガズムを目的からはずし、愛撫やスキンシップも含め、なだらかに定義を溶かし、それを自分にゆるしていく)、本を集める、押し花、漬物、石拾い、カメラ、旅行、写真、空、犬、うさぎ、なんでもいいのだが、自分の空虚さをうめれるというか、やっているあいだは忘れていられるようなものがいいし、その波があまり極端にならないもののほうが老いてからはいいのかなぁ、とはなんとなく思う。次のものに飛び移れる、移行できるように常に、考えがどんつきにいかないように、まあ死なないように、お互い



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