川縁の植物の名前の人

仕事しながら考えてたが薄田とか蒲原とか苗字がよくなかったのではないかみたいなことからすると、リコリコの敵側の苗字というか、入ってる植物名もそういやヨシさん(吉松だけど、たぶん葦=ヨシ・アシ 個人的にはここにふたつの電波塔とか真島のいう"バランス"とか、あと連想で近藤東の「ナニワのヨシは エドのアシ」なども思い浮かぶ)も姫蒲も、やっぱりなんか川縁の植物だからなんかよくなかったのではないかと思いはじめてしまっていた。

じゃあなんで川縁の植物がよくないのかっていうとそこはなんでだろーの世界である。

お風呂でちょっと考えてると「原風景は負け確か?」という論点が浮かんできた。もし名前が榎田重金属だったら勝ててたんじゃないか?とか。

キラキラネームも景色が失われたら残されたネームはどうするかという話になる。名前が国賊ということにもなりかねん。
けどこの場合の景色というのはすでに非常に抽象化されてる。ホストとか架空の人物名に近い。親の託す夢をどっさり盛って言語化するとそうなるのだからそれは仕方がないのかもしれない。そこに語感や解釈も自由に乗っける読みをつける。
もうこの中に蒲とか葦とか入る余地はまるでない。まあそもそも苗字と名前は違うのだが。どっちにしろ初期状態では自分で決めれない(そもそも字を知らない)けれども、途中からペンネーム作ったりできるし、あんまりなら役所で変えることもできる。ただ苗字は一族で連なり途絶え、名前は親などがつけるから、射程距離が若干違う気がする。名前のほうが自由度というか時代のトレンドを吸収しやすいというのか。

そのへんにあるということと、日本が重工業化を押し進めていったということの両側面から川縁の植物というのはなんか薄いし失われるしの勢いで、まあ結局いまもあるにはあるけどじゃあそれを名前にするかというとどっしよっかなーみたいなところはある。どっちにしろ、名づけのノリ的に、失われる宿命を抱えてたのかもしれない。

2/10あさ

「蕩児の家系」と並行して読んでる「人口減少時代のデザイン」という本に「稲作の遺伝子(p87)」という言葉が出てきて、昨日からつづいてる川縁の植物系の名前をつけると負けるんじゃないか説みたいな妄想とつながりそうになった。
稲もそういえばどっちかといえばそっち系である。
でも稲は米であり、前の記事でも書いたように、字としても、四角が少なくて払いが多い字である。だから蒲とか薄よりいい感じなのかもしれない。
ちょっと洒落てるというか。
そこから台所で洗い物とかしてたら飛んで、最終的に日本には元々稲みたいな合理的というのか、効率性というのか、収量のある実のあるものはなくって、なんか子供が振り回して遊ぶおもちゃみたいな草しかなかったみたいな説を頭の中で勝手に妄想していた。それは言い過ぎで、もっと葦簀とかなんか、そういう生活利用もガッツリあったのだろうとは思うけれども、なんか基本おもちゃみたいな草しか生えてなかったんじゃないかと思っていた。

葦簀麻雀とか骨牌とか

2/13あさ
なんか気づけばリコリコ新作制作決定というタイムリーな話題が。

彼岸花というのもまあ畦に咲き乱れるイメージが、わたし的にはある。植物というのは植生で、原風景で名づけのもとにもなり、それが時代を感じたりする。
じゃあ東京のホストの看板とかも植物なのではないか、ということにもなるかもしれない。逆に、田畑の畔に生えたり、川縁や水辺に生えてる植物もホストかもしれない。クレソンとかチドメグサとかはなんかちょっと違う気がする。シュッとしてるやつとわさーっとしてるやつとの違いである。護岸が小豆色というか、梅肉みたいな色になってて、なんか草なのだが、冬の並木道や、ちょっと遠くの山の輪郭を作ってる木々の細い枝たちも小豆色に見えるのだが、ああいう小豆色に見える枝たちのことのこと、夜川面に等間隔で落ちてる街頭の白い光の、ほとんど静止したかすかなゆらめきのこと、堰堤でアールを描く水が光を反射して絶えずエヴァのアイキャッチみたいに煌めいてること、葉桜に覆われた球体状の柵を持った街灯の灯りのこと、要はひとりでみている景色のうち、なんていおうかなと思ってるままに過ごしてる、過ごすに任せてる景色たちのこと。これらはHTMLでBRを心の中でなんて呼んでる?って訊くことに近いような気がしてる。

(2/9〜2/13)

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