近況とメモ

自分の中のサーガ
今朝は仕事までに最近の総浚い

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ナンセンス詩人の肖像
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グーテンベルクの銀河系

なぜこれらを読んでるのかといえば、自分のなかでの「インターネット」や「ネット詩」に対する総括というか、「あれはなんだったんだろう」という気持ちから、あれこれ追いかけてるうちに、ここまで行き着いたー、みたいな。

『勤労青年の教養文化史』『サークル詩の歴史』(?)などの方面から読んでいくこともできるようにも思える。
また私が好きな鈴木志郎康さんが所属していた「凶区」といった同人誌の盛衰からも考えることができると思う。
(盛衰じゃないな、足並みが揃わなくなってきたというか。よくわからない。渡辺武信『凶区 移動祝祭日』(フルタイトルは割愛させていただきます)でも、ざっくり読んだ限りでは決定打はないように思える。ただ、凶区をパラパラめくりながら読んでる感じだと、25号か26号あたりで鈴木志郎康が凶区をやめるという話になり、それもなんかある人に悪いという気持ちが生じてそれも誤解だとわかったけどじゃあやめないってなるかといえばそうはならないみたいな非常にもやんとした話であったり、その少し前かな、菅谷さんも書くことに対する懐疑のようなものにより書くこと(書いて発表すること?)を止めたりしてて、少しギクシャクしたものを感じる。そしてそこから2〜3号で廃刊。27号までは凶区同人によるものだが、廃刊宣言号(28号)は、同人のうち3名の手によるもので、凶区同人の総意であるというわけではなさそう。ただ、変遷を見ていくと、映画の話多すぎだったり、鈴木や菅谷以外にも、皆それぞれ同人内でのスタンスが変わってきて維持ができなくなってきたような感じはみてとれる、っていうか私が勝手にそう見てるってだけなんだけど。そして、そういう見え方自体は、インターネット上の詩の同人とか、投稿サイトのなかにも見出せるのではないかと思う。ただ、投稿サイトは「盛衰」のほうが、しっくりくるかも ()内は7/4追記。記憶と感覚だけで書いてるため正確性ないので留意)

ただ、詩という括りを外しても、このあたりの事情、ひとつの集団がどうしようもない力学でほぐれていってしまうのは当たり前な気もしていて、じゃあインターネットは何が違うのかといえば最初から集団じゃないといえば集団じゃなかったことであって、なんでこんなややこしい言い方するかといえば、集団として形成されたうえでインターネット上で情報交換する人たちもいれば、インターネット上でたまたま利害や趣向が一致して現実に個人や集団として出会う人たちもいるからで、先の著書の概念から借用すると「想像の読者共同体」から一歩踏み込んでオフ会などで意気投合するか、ふつうにずっとネットで活動するかみたいなトーンやスタンス、距離感は人それぞれだから、あまり十把一絡げに言いたくないというのが一点。もう一点は、それでもインターネットへの謎の帰属意識というものは確かに存在していて、それこそネットミームやネットスラング、インターネット老人会等の概念はそれなしでは成立しえないように思う。
これらはある種の暗号であって、それは基本的には「世代」の暗号であり、世代の中で、どれだけPCのウインドウを見ながら過ごしたかを共通了解とした、非常にぼんやりとした共同体意識である。
そして、その「ぼんやり」が、年次や歳月のズレ、あるいは重なりを緩衝し、馴染ませる(輪郭を指で擦るように)。勘違いさせる、といってもいい。ただ、年次に拡がりが出るにつれ、細部は見えなくなり、淘汰された景色を見ることになる。ただ、補助器具によって、過去の細部の記録が保管され、それらと現代の技術の掛け合わせによって生まれる表現により、正当な進歩観は掻き消えて時間感覚は澱んだり泥んだりする(かのようにみえる)。スケールの目盛りが細分化され続ける。その意味で、詩のクラスタは昔からのかなり大味なスケールをずっと維持しているからこその貧しさを湛えてるように思える。
年次と歳月について。歳月は繰り返すもので、年次は繰り返さないものだと思う。歳月は、たとえば毎年春になると新生活応援セールが始まり、SNSでは新生活を始める人に向けたTipsや悲喜交々で溢れかえる感じがある、そして年次は、そういったその年ごとを生きる人たちの世代の感覚、みたいな意味合いで使ってる。
さらにここに興味や地縁による人間の動きが加わって、所属する集団やクラスタでの狭い知識と、年次としての広い知識をミスクチュアした個人として生きることになる。
インターネット老人会という漠然としたクラスタは取り立てて役に立たない(いや、時々は微妙に役に立ってる?)隠し持った属性情報のひとつで、人に言う理由も必要もないし、語っても仕方がないものではあるが、ぼそっと呟くと「あったわーw」ってなる感じの共同体?意識。
で、
でですよ。
これの詩に特化したものが(私の中での)「ネット詩」という感じがする。
つまり私は「ネット詩」という言葉を、インターネット上に投稿された作品群のことじゃなくて、「界隈」を指している言葉だと認識している、ということになる。私がネット詩と聞いて思い浮かべるのは「ネット詩(界隈)」なのだ。(この話はここで一旦おわり)

あぽぉびじょんぷろ
Apple Vision Proを買ってしまった。65万ぐらいした気がする。怖くてまだちゃんと明細を見れてない。買うときクレジットカードの会社から「お前大丈夫か?」みたいなメッセージが届いたりした。
大丈夫です、ちゃんとします
先週の金曜(6/28 日本発売)だから、まだ一週間経っていないのか。

使ってみての感想。Vision Pro単体だと、なんか意外とやることがない。
見機(みき、造語。見る機械の略)と化している。
Youtube見機、Twitter(現X)見機、ネット見機…
たまにApple TV+の動画コンテンツを見る。なんか音楽の有名な人がスタジオでピアノに肘をついて歌ってるやつとか、パルクールで多分パリを飛び跳ねてるやつを見たりした。
パルクールのやつは、ロケ地が変わるとき急に空撮映像になるのだが、それが結構怖い。急に空の上にいるような感じになる。あと立体映像だとカットというか、モンタージュ?の違和感がすごい。顔のアップとかくると「えっ」てなる。

そういえば、初日にデバイスを被ってマインドフルネスを開始して、途中で飽きてトイレに行ったら急にトイレが真っ暗になって無量空処くらったのはいい思い出である。あの時はどうやって切り抜けたらいいかわからなかったから、数分ほど直立不動で耐えた。

そういえば、領域展開ってこういう感じなのかなって思う。
漏瑚の領域をApple Vision Proの「環境」で追加してほしい。あと真人も。陀艮は普通にアリ。魚さえ飛んでこなければ。呪術廻戦でそういうコンテンツ作ってくれないかな。
秤の領域も見たい気がする。あとは本編では登場しなかった烏鷺と石流の領域もどんなんだったか見てみたい。

あとはMacの画面を抜いて空中で表示するやつである。
これはこっちの部屋のレイアウトが追いついてないのでまだ本領発揮とはいかない。
なんかね、部屋の真ん中あたりにかなり奥行きのあるデスクを置くのが良さそう。壁に向かって奥行き浅いデスクにiMacを置いている状態で画面を抜いて浮かべると、圧倒的に深度(奥行き)が足りない。画面の端が視界から見切れてしまう。かといって、距離をとって画面を見ようとすると、入力デバイスに手が届かなくなっちゃうので、このへんは休みの日に本腰入れて、やりよい環境を作らねばならぬ。操作自体は問題ない。文字打つのはやっぱキーボードが楽よね。

あーとはー、写真アプリか。これはなかなかインパクトがあった。何気なく撮ってきたパノラマ写真が活きる。過去に住んでいた自分の部屋とかをパノラマで撮ってたんだけど、それが追体験できる。あとは現Xで見かけたTipsの画像とか、保存してもほとんど読んでなかったけど、それをじっくり読んでは捨てる断捨離の作業に没頭したりもした。
あとは本や雑誌の表紙をスキャンしたものが壁画サイズで見れるのはとても良い。これはちょっと見惚れる。立体写真、立体動画はちょっとレンチキュラーっぽさがあるけど、それよりはリアルに感じられる。

しごと

7/4あさの追記
昨日の文章にもかなり追記してしまったが、この流れ(どの流れ?)でもう少し書いていこうと思う。

いや、なんか疲れてるので終わろう。

しゅーりょー









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