わいの平成詩史20

teacup. byGMOのサービス終了のお知らせ

teacup.サービスをご利用のみなさまへ。
長年にわたりご愛顧いただきましたteacup.ですが、2022年8月1日(月)13:00をもちまして、サービスを終了させていただきました。
これまでteacup.をご利用いただいた皆様には、心より感謝申し上げます。
今後とも、GMOメディア株式会社のサービスをよろしくお願いいたします。

teacupもサ終してしまった。
悲しい。いや、悲しいわけではない。
ちょっとさびしいというか、栄枯盛衰というか、盛者必衰というか、諸行無常というか、あれである。

とはいえ、teacupが栄えたり盛ってたりしてた記憶もなく、地味に人を支え続けてきた裏インフラストラクチャーというか文化功労者というか、なんかである。
teacupがメジャーを張ってた頃がいつで、いつから裏インフラストラクチャーになったかはわかんない(そんな時期はなかったのかもしれない)が、わたしの場合、teacupは、ここ最近、半年に一回、思い出したときに、ちょっとのぞきに行くだけのような場所になっていた。
誰も書かないし、こっちも書かない。
最後のカキコは確か2016年で止まってた。もう誰もみてないんだろうなーと思いながら見てた。

たぶんだけど、現代詩フォーラムのログイン頻度とかも、それぐらいになってる人が多いんじゃないかと思う。現代詩フォーラムは「全ユーザー名」という、登録した人の名前がログイン順にずらーっと出るページがあり、そこの一番下にいる人がもっとも長くログインしてない人である。
これを見るかぎり、二番目にもっとも長くログインしてない人は清水哲男さんである。ただこの清水哲男さんがガチ哲男さんかはわからずじまいだが、なんとなく信ぴょう性は高そうである。清水哲男さんはたぶん1996年の2月とかぐらいに自身のホムペを開設しておられるはずなので、現フォの登録もガチで早かったんじゃなかろうかと推測する。
あとどうでもいい話だが文学極道に入ってる板尾創路が本人なのかどうかとか、なんかそういうのも気になる。ふと思い出した。

これを見てると、なんか「地層だなー」とか「堆積…」とか思う。

なかには死んだ人、生きてるけどログインしてない人、パスワード忘れて「2」とかになってる人、名前を変えて心機一転を図ったけどはるか昔にそれも途絶している人…などなど、さまざまな状況におかれた人の名前がずらっと並んでいる。
(追記;もちろんやめた人はここに載らない。現フォではやめた人の書き込みはすべて削除される)

これが全員人で、ログイン手段があれば、そしてログインすれば、また上に上がる仕組みである。
当然だが、わたしが死んだと判断できる人はほとんどいない。
死んだと判断してもそのアカウントが本人のものかどうか信じるかどうかは慎重を期するものであり、というか、どっちにしたって、原理的に知る由もないというところに押し込まれるのであるから、考えるだけ無駄、というたぐいのものでもある。最初からわかってたことといえばわかっていたことではある。かといって、たどり着くことが目的なわけでもなかった。漂流することが目的でもなかったし、漂着することが目的なわけでもなかった。
でも漂着すると、なんか「ああ、このために」とか思っちゃうかもしれない。わたしは弱い。

死んでもわかんない問題は、ネットやり始めたときから、ずっとうっすらかすめつづけていた。ひきこもってるときはまだ親がいて体が家にあったから、そっちで見つけてもらうことも可能だったが、今となっては、わたしの体はどこの誰も見つけることができない。お隣さんとか、会社がやっとこさ見つけて、特殊清掃の人とかが頑張る感じにならざるを得ない。

基本死んでもわからないし、更新がなくなっても死んだかどうかわからないというのは根本にあった。逆に「漂着」して幸せになったかもしれないし。
無用な詮索とか妄想はしないようにしたかった。
ただ、書かれていないという事実だけが継続しているあいだの時間、時期については、お互いのそれを受け止めるしかなかった。
そこにいいわるい、幸不幸の判断、死んだとか生きてるとかの予断もまったく含めずに、フラットに「書いてない」「書かなくてよくなった」状況についてぼんやりと思うスタンスを維持し続けている人は、おもってるよりたくさんいるのだろうと思う。

若かった頃からずっと10〜20代の死因の一位は自殺みたいな話はどっかでいつも読んでる気がするが、まあ基本死なないけど時々死ぬ人もいた。今、年齢が粛々と上がっていくにつれ、当時40だった人は60とかになってて、20だった人も40とかになってて、俄然死ぬ雰囲気がしてくるけど、かれらやわたしたちが実際に何歳かは結局のところわからない。どっかで生きてるかもしれないし、どっかで死んでるかもしらん。

思い出したとき、ふとログインする。
気づくともうなくなってる。
なんかふだん通る道にある建物みたいである。

コロナの終わりがけぐらいから、バタバタッと建物にシートがかかって、中で「取り壊されるなー」みたいになって、最近はちょっと空き地とか工事とかが増えた気がする。
そういうのを見ると、お金の流れとか、ものごとの時機とかになんとなく思いを馳せる。

物理的な位置とか場所は「前、そこに何があったかな」という話になるけれども、teacupとかは前に何があったとかはない。リニューアルすれば、「前は○○だった」と言えるかもしれないけれども、ふつうにどっかのサーバーがそのデータを削除してサービスをやめるだけであれば、その領域が今何に使われてるかなんて知る由もない。

ネットは住所が再利用されないと「前」にならない。いや、新しいアドレスでも、そこで「前○○です」と謳えば、いちおう「前」があることには、なるっちゃなる(アカウントで「元○○です」っていう人みたいになる)けど、人ならまだしも、サービスがそれをやる意義があまりないし、実際そういうのはあんまり見たことがない気がする。

そういうのも含み置いて生きてるわけだし、いちいち気になるわけでもないけど、なんかサ終ごとに「あー、そうかー」「…(てんてんてん)」みたいになることが増えてきた。
あ、やっぱり、永遠じゃなかったんですね、そうですよねあははー、みたいな。昔はもっと一意の場所にカチッと収まり続けるデーターベース、みたいなイメージでネットを捉えてたけど、案外流浪の民っぽいことに昔から気づいてたけど今はもっと気づいてるけど、だからなんだって話で。

なくなるものである。いろんなものが終わってなくなっていく。

かといって、「じゃあ、○○しておけばよかった」ていうわけでもないんだよな。何かをして補えるものでもないし、しなかったから後悔するっていうんでもない。線香をあげるわけでもなければ、チカチカしてるサーバーを見に行って「ここがteacupだったんすね…」としみじみするわけでもない。

掲示板的なものの役目が、今日では、もうすでに終わっているのかも。
掲示板然としたものはもうある種のレトロ感を帯びてるようにも思う。
借りた人が主催になって目的を設定したりしなかったりしながら、とりあえずおいておく場所みたいな場所。

今は動画とかが場所のような機能を果たして、そこを軸に話している。
いや俺がYoutube見すぎなだけかもしれないが。
ただ、そこには厳然とテーマというか対象がある。
ツリーのように書き連ねてく場所があるのはいいことだけど、動画のもとに集っていて、それについてからしか「わたしの話」をさせてもらえないことについては、んー、ってなる。
好きではない。
今の世の中、なんか、自己言及することがなかなかできない。
長いいっぱいいいねもらえるまとまった自己言及みたいなやつのまとまりすぎ感みたいなものを見ると、なんか「パッケージ」を感じる。誠実でも不実でも、どっちにしろ誠実というか、清潔なパッケージングの手つきを感じる。自己言及へのハビトゥスが身についている人の身なり。



もっとわるい自己言及が見たい。くずれてくさってて、よれてて、本人も部屋干し臭がずっとしてるような人の自己言及。



対象がない掲示板。わたしの「とりあえず作ってみました」で、現実の知り合いがちょっと来て、ネットの人もちょっといりまじるぐらいの、過疎ってるところ。
昔の掲示板的な機能はSNSに移ってるけど、過疎になるのは難しい。距離的になんか遠いなーと感じる開放感がない。
運と内容次第では即刻バレてめちゃくちゃたくさんの人に怒られまくったりするので所作に気を使わなければならない。
知り合いと喋ってるつもりでやるとネットの人になんか言われるし、なんか「家の玄関に貼れることしか書いてはいけない」とかキリッとして言う人もいるし、たしかにそれは自分を守るための規律としては持っとくべきだけど、斉藤和義も言ってたように「誰にも言えないことはどうすりゃいいの? 教えて」である。
世間との距離を感じるけど開放性がある場所。
同質性の担保された過疎ってる場所。
多少の新規流入はある場所。
なんかそういうところで「誰にも言えないこと」を言う。で、それを誰もぶちぶち言わない。なんかそういうところ。
なんかそういうところで詩とか書いてた
というか「なってた」「なっていった」っていう人も多かったんじゃないかな。
最初は切実だったり、なんでもなかったりしたんだけど、いつかそれは主語(というか話者)に自分を紛れ込ませた鬱憤ばらしにもなったかもしれない。
書いていくことによって、そういった個人的な事情からは少しずつ引き剥がされて(書き続けるためには必然的そうなってくるか、ずっと何かが起こり続けていなくてはならない)作品っていう発想に近づいていく。
そういう道筋は今思えば幻想だったかもしれない。
ほとんどの人は結局なんだかんだ素養があったり環境やサラブレッドだったりしたかも。
でもなんかそういうの関係なくうまくやれてる人っていうのもいて、そういう人はネットと現実もうまく(うまくないのかもしれないけど)やってるように思う。そして何より長続きしている。
勢いとか期待みたいなもののもっと先、あるいはもっと前にあるもの。
今てきとうに書いた。
習慣かもしれない。
いかに生活に組み込まれるか。そして、生活に組み込んだときのプリセットとして、書くことに深刻さや苦しみを求めるか、楽しみとかつながりを求めるかみたいな差が生まれてくるのだと思う。

(つづく)

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