0713

あさ。エレン(仮)の食事風景をみてたらごはんが冷めてしまった。
体重は185→183g。
やはりペレットは9g〜10gでいいのかもしれない。
おやつの豆腐と麦はローゼからケージに戻ってくれたときにあげたりしてるが、基本2個まで。6時起床の22時消灯。
食べてるとこ見てると、やっぱりバミューダのほうが食いつきがいいので、バミューダ少なめチモシー多めであげてこうかなと思う。
まずバミューダ地帯を貪り、それからチモシーを食べてる。
あと、食べてる間は無の時間なので構わないほうがいいのかと思ってたけど、こころなしか、食べてるところを見ててあげるほうがよくたべるし、食べたあとのテンションもちょっと違う気がする。昨日よりは回し車のテンションが高い。昨日はハンモックから首だけ出してまどろんでることが多く、夕方からガンガン回す感じだった。
水飲み器に歯が当たってないかも観察していたが、うまく舌でボールを転がして歯を当てずに飲んでる感じだったので、不正咬合は大丈夫かなと思いつつ、位置が少し高いか、もうちょっとがぶ飲みできるほうがいいのかなとも思う。こんなチロチロ飲みだとストレスな気もする。
そろそろシーナが届くので、シーナ届いたらもう少し距離が近くなるかもしれない。とにかく外に出たがってると思ってたけど、外に出ようとするとき毎回現れるこの顔や手について、なにをおもってるのだろうと思う。
ケージは毎日拭き掃除。底は2日に1回シート取り替え。
最近というかここ1日〜2日でハンモックに糞をしなくなった。
あとはかじり木の設置ポイントがいまいちわからない。めちゃくちゃかじられてるにんじん型のやつもあれば、ほとんど無傷のもあり。井桁のかじり木まっさらなのが悲しい。
あと、意味のない報酬をあげるとつれなくなるなぁ、というのはなんとなく感じる。そこで「ひょっとして、日本のサラリーマンも…?」とか一瞬おもったけど、ヤメ。ドクターストップがかかった。しごと

「他者と生きる」は統計学的人間観、個人主義的人間観のあたりまで読んだ。人生会議という、死に際のオープンダイアローグみたいなものがあるらしい。また、天文学で使われてた統計学が人間にも使われ、平均人というどこにもいない存在ができ、さらに予防的、機先を制するような医学が発展していった。
「自分らしさ」を語る前にそれぞれが持っている人間観を詳らかにすることで話がスムーズにいくのではないかというような話だったかと思う。
人の死はひとりのものではない、というときそれぞれがどのような人間観をもつかによって、つまり人生会議における、当事者、医師、親族や隣人といった人たちがそれぞれの人間観で対峙しているということ。その相克というかよりあげによって自分らしい死がかたちづくられていくということ。

詩の話者はどのような人間観なのだろう?とふとおもった。
詩の話者は平均人であるべきだろうか?

個人主義的人間観と関係論的人間観を行き来しつつ、平均人を装うかのような動きをしているように思う。
平均人を装う動きというのは、ディティールを普遍的にするための、保存を効かせるための言葉を漂白する操作であり、これにより、取り込む(共感する?しみる?)範囲を広げる。そして、個人主義的人間観によって、ひとりの人間としての通り道で対峙するものを先んじて的確な言葉であらわすことによっても同様の範囲拡大は貪欲に行われる。
ときに関係論的な人間観を入れるとき、話者と作者は混濁し、そこに書き続けるという行為と人生における他者との関わりや別れといったものも、遠景や後景に影響をもたらすようになる。ここで詩人というのは歴史化し、作品化から解き放たれていくかのように思う。
書いててもよくわからないな。
しごと

メモ:
統計学的人間観≒自分の中に他者を見つけ出すこと? 神秘化しているだけで、じっさい極めて統計学的な処理や判断が行われているのでは? あるいは出力方向が意味をうみださない方向だから「違う」のか?
工業とのつながり。IEや時間的管理法、またバスタブ曲線や予防保全、事後保全の考え方を人間と医療や人生に当てはめるとどうなるか? 統計学的人間観や、個人主義的人間観でみた場合のバスタブ曲線はかなり「賞味期限」が短くなる。フラカンの「深夜高速」で走ってる側と、オレンジ灯の目線になりかわるまでの時間、といいかえて考えてもいいかもしれない。それは極めて短い(と思う、いつのまにかそうなってる)。人間の時間軸でもっともバスタブ曲線の底が長く続くのは関係論的人間観であると思われる。長さでいえば、個人主義的人間観<統計学的人間観<関係論的人間観、となる。
たとえば、仕事や健康といったものだけで、つまり人生におけるステレオタイプだと思っている生き方?において、自分の故障期間がもっとも少ないオートパイロットな時間というものは極めて少ない。
そもそも、そのような、機械故障率のようなバスタブは人間にはないとも言える。
ただ人間の人生に予防保全的に関わるか事後保全的に関わるかは常にバランスが求められる。現代は(大きい主語)、予防保全を周りで蠢いているものに任せて、事後保全的なものも周りで蠢いているものに任せるといった、どちらに対しても冷淡な関わり方(両側から、声だけは聞こえる)で、これ(このサランラップの芯のようなそこの抜け方をした世の中)をどちらから塞ぐべきなのか、どうすればこの芯アナの中にいる「動物」を逃がさずに(関わらせるように)両の手のひらで塞ぐことができるのか。

パチンコは、個人主義的人間観で統計学的人間観を常時眺め続けるようなものである。そして、そのあいだにある釘というものの無情な関係論的人間観は無意識に追いやられている。隣のおじいさんやおばあさんと同じ握力で、若者が確率の中で生きていて、すぐ当たったとかなかなか当たらないとかでストレスを感じているというのが健全かどうかは措くとして、それはそれで人間観というか、ある種の人生観を育むには悪い時間じゃないとは思う。ただそういうのは個人主義的に生きられるあいだだけにしておいたほうがいいような気はする。それは、車内放置のようなことを起こさないため。
自分の報酬系を眺めたり、この玉が人生で、とか、隣のおじいさんと同じ握力で打ってるけど俺の握力はもっと違うことに使えないか(うわ、赤保留きた)とか、なんかいろいろ考える時間にはなると思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?