0702

あさ。190ページぐらい(訂正:180ページぐらい)。目的と手段が倒錯してる精神分析使いたがりな人のことを「独り善がり」と、ひたすら戒めてる章である。
独り善がりも詩のおはこというか、醍醐味である。
詩のクライエントは読者だが、詩にクライエントはいない。



谷川俊太郎さんが田原さんのインタビューかなんかで答えてたのが「自分の中の他者をみつけること」で、これは確か、詩の見つけ方か、あるいは書き方についての質問だったと記憶している。

これを自分なりの表現にすると、手を前に出すと、目の前の空間が水紋みたいになって手がそこに飲み込まれて消えていって、自分の背中にちょん、と手の先があたる感覚がするというような感じとか、自分の中の井戸のどこまで深いところの水を掬ったか(でもこれはなんかどこかの詩、海外、韓国?で最近似たようなことを言われてた気がするからもう使わない)

浅いところのやつを掬ってきたふりをして出しても、一応それは詩として認めてはもらえる。ほぼすべての自動書記的、フリーライティング、インプロビゼーションはこういったものだろう。刺さるところが少ないし、死角からくるようなものもなく、ただなまくらに独り善がりな表現(言葉)がえんえんと続くことになる。
それでも一応詩として出されてるものだから、みんな「こ、これが詩なんだよね」と読まなきゃならなくなる。
まあ人生の浪費であるし、苦痛である。社交の一種。

で、それを一般書籍や雑誌のていでやるか?という話である。逆にステイトメントを出して、もうあけっぴろげに詩になれなかったものを入れると収益が上がるので、ガンガン入れていきます!あと仲間大事!傷間(きずま、今タイプミスで出来上がった造語。傷で繋がる仲間のこと?知らん)大事!ぐらいになってほしい気もする。というか、ある意味、人生雑誌ってまさしくこういうもののことだったのではないか?
今世の中に足りないのは詩で看板だすより、人生雑誌の中に詩のコーナーがあるほうが自然じゃないかとも思う。ネットで文通コーナー、みたいなこと? 知らん

話がそれた
でもこれは谷川的な「詩」がやるはず(やるべき?)手筈を人間が一手、一手間意味を多く取りに行く、あるいは作者の属性や姿を知ろうとすることで成立する、あるいはその比重を増やすような詩を意味する。
簡単にいえば、自立性や普遍性(真理)に乏しい詩、つまり独り善がりの詩、ということになるだろうか。

じゃあそれが一概にわるいのかって話である。
これだけ言葉が溢れかえっている状況で、言葉を楽しむ位相がどれだけ細分化しようが、それに苛々する道理も、ないっちゃないのである。
どの水準で人が留まったり、さらに突き詰めるかも、個々人のそれ(詩)に充てられる時間や、詩というもののイメージや定義、周囲の関係に左右される。

簡単にいうと、ここ十数年で、人文系、エッセンシャルで相対的な学問の専門性はかなり溶かされた。
わたしの加齢もあるのだと思うが、まあわたしみたいなライン工として働いてネットしか見てないうっすい人間から見ても溶けてるっていうんだから、かなり溶けてるのだろう。

これは人文系学者?による、加齢によるなぞり直しと勤労青年が勤労中年になるタイミングでの学び直しや再確認、就職氷河期とかも無関係じゃない気がしてる。
色々とラフになったし、そのラフを認め合う空気が醸成された。とりあえず完璧目指さず7割で上司に見せろ的なものとも無縁じゃない気もするが、まあ「水飲んではいけない」的縛りを(なんの意味があるの?)と思いながら過ごした世代がボリュームになってきて、もう水も飲めるし、今だったらエアコンもそうだし、やりたいなら好きにやればいいんじゃない?っていう空気もそうだし、権威性みたいなものに対する空気も、かなり相対化された。てめー編集も校閲もされてねーくせに生意気だぞ?みたいなことを言いたい人は小さくクラスターに固まっといてくださいね、と言える世の中になったし、同時に、なんか世間って狭いんだなーとTwitterを見た時に俯瞰的に考えると、ああ、報道も、出版も、なんか、ああ、勝手にやってるだけだったんだ…っていう気づきがあった。
偏向報道的なものでいえば、報道のほうが先に瓦解し始めたが、まだ報道は基本的に視聴者ありきで動いているので、構造体として潰れにくい姿勢をもっている。俗である。
裸眼よりメガネのほうが老眼になりにくい的な?
それに比べるとアカデミックなほうで、象牙の塔でふんぞりかえっていた出版は、まあ、こんなにこじんまりしていたのね…という感じ。
東京、出版社、
つまり○○(地名)詩人会の東京支部みたいなものがやたら「正史」や「中央」を作りたがっていたが、それ自体幻想で編纂されたものでしかないのであれば、別に地方にもネットにもいい詩があるし、そのアンソロジー、勅撰はわれわれ(あるいはそれぞれ)がやるのだ、という感覚となって、相対的に東京的なものは失墜し、マネタイズが厳しくなっていった。
そこにある「目利き」というか「いいもの」を見る技術じたいは失われると困るが、そこに過度にお金が集まってくるかといえば、もうそんなことはない。そこはもう「役に立たないと」もらえない。
極端な言い方をすれば、文学者がコンビニレジをして、コンビニ店員(別に作家志望でもなんでもない)に本を書かせてあげるようなぐらいの意気込みで仕事をしてもらわないかぎり、もうこちらも財布の紐を緩めたりするようなことは金輪際ない、という対立関係がある。
この対立関係で一番強いのがまったく興味がない人たちであるし、朗読聞いてさぶいぼが出て二度と聞かなくなった人たちである。
耐性のついた仲間たちとの群像劇のまま昇天していくのも一興だが、まあそれはそれである。

朗読の専門性、いやむしろ他ジャンルで専門性の極を勝ち取れなかった人たちが極をとれるかもしれない場所、あるいは「そのまま」が朗読であったりスラムであったりする気がする。
独り善がりの末路で見つける仲間たち。そしてそこにまた疎外が生まれる。

なんか話がそれそれな気がする。
言葉は深いところから掬ってみても、浅いところから掬っても、まあぱっと見ばれないという利点がある。
米津玄師のアイネクライネの「言えない秘密」のところに、てんでしょうもない秘密を格納して、甘やかに自分を憐れんだりすることも可能であるし「ああ、だからわたしは嘘ついちゃうんだ…」とか言いつつ、秘密というのはなんか特に、理由もないけどめんどくさいからゲームばっかりしてお菓子ばっかり食べて仕事全然しないとかなんとか、またなんか知らないけど部屋がめっちゃ汚いとかどうでもいいような秘密が詰め込まれているに違いないのだろう。

できれば、深いところ、自分でも気づかなかった角度からきて、言われてみればそうだと思わせてくれるような言葉がちょっとあると嬉しい気はする。なんか誰かをむやみやたらに吸引する無責任な言葉はどうかと思う。まあわたしの書いている文章も無責任だが、これは誠実さが欠けているということなのだと思うし、これもさっき書いた「溶ける」こととも無関係ではない。

その罰で好きに書き散らかしているという言い方もできるし、あとは単純に40過ぎたらどれだけ無知だとかこんなに浅はかだったのかと思われようが、もうどうでもいいので好き書こう書こうと思っていて、それでも数年ためらってのこれなので、あとはもう好きにやろうって感じなのである。

全然違うところに着地しているが、0期という概念がおもしろかった。

治療を始めるまでの下地、下ごしらえのことで、病院内での関係性の構築や立場の確保といったことを治療そのもの(1期)を始める前に行う工程を0期と表現しているわけだが、これはわたしの会社だとどうなるかな…。と想像してみた。

わたしの会社には商材、商品があり、基本的に焦点はそちらに向いている。クライエントはその商材、商品を手にするお客様、またお客様の体験、ということになる。
わたしはここでお客様のことまで考えなくていいのではないか、お客様、という意識をさせることじたいが、わたしたちの脳内の自由を奪っているのであって、社員であるわたしならいいが、パートさんにまでお客様への「意識」をもたせるのはおかしい、と考えているものである。
パートさんは手先までは作業に囚われていても、脳内は自由であってほしい。
好きなアイドルのこと考えたり美味しいお店のこととか、彼氏彼女、旦那嫁、ペット、哲学、本のこと、そろそろ髪切りにいこかな、その他諸々、なんでもいいから、仕事のことなんか考えずに手を動かして欲しい、そうおもっている。
というか、会社を人体だとすれば、腸内フローラがいちいち人体の移動や、食べるもの、出会う人物との関係まで考慮するだろうか?
まあ、出会った人物がストレスを加えてくる場合はダメージを受けるだろうが、だからといって、ダメージを受けた個人が腸内細菌にそれぞれ意識をもてと言うだろうか。そんなことやってるから給料上がらんねん、とは思う。
それぞれがお客様への意識をもつ、みたいな発想は本当に大っ嫌いで、お客様、ではなく、目の前にいる人、ちょっと遠くの人、という発想のほうが、よっぽど健全なように思える。というか、単純に、お客様という存在は、思える人の範囲を超えている。

なんか話がずれてきてる気がする。
0期は、自分の会社だとどうなるか。
上司やパートさんたちとの関係性の構築。
成果、実績の積み上げと信頼の確保。
これに、立場や役割・昇進がついてくる。
立場が伴ってくると、大鉈が振るえる。レバレッジが効く。
ここでいう大鉈とは、作業環境や方法、レイアウトの変更など。
あるいは設備の導入など。
予算とれる。人を動かせる。
やりたいことができる。
わーい

精神分析は対人なので、ここでいう「大鉈」が精神分析になるのかな、といった印象。
で、大鉈を振るう頃には分別もついている
(精神分析が適していないクライエントを峻別できる技能)を身につけているし、それなりの失敗も重ねている、ということ。

立場がない状態での大鉈振るいは単純に不況を買うし信頼も損なう。

意気込みや熱意と、大鉈を持つタイミング、あるいはそのエネルギーの変換やベクトルの転換をなだらかに、時に衝突しながら、いかにその場にその時まで残り続けられるか。
大鉈をふるえるときにはすでに熱意をなくし、安穏とすること、過ごすこと、職業生活を逃げ切るだけに費やすというのは一番勿体無い。
しかし、これが日本で多いような気がする。自分も身に染みてわかるが、とにかくエンゲージメントだだ下がりで、かといって外に出られるか(転職できるか)といえば、自身も会社も共犯的に自己をスポイルしまくってしまっていて、にっちもさっちもいかない状態になる。
その逆。
熱意だけで突っ走って信頼を損なって対立し、ここではないどこかへ出奔する、出奔し続ける。こうなった人の、その後の動向がわからないけれども、こうなった人が行ってしまった「暗渠」についても、わたしたちは考える必要がある。
そこに、スポイルされた自分が涵養するべき(取り返すべき)ものがある気がしている。
つまり、日本では(でかい主語きた)、エンゲージメントだだ下がりでスポイルされまくり(まあこれも相関してるのかもしれないが)である。
そして大鉈がふるえるタイミングでもう生き残ることしか考えなくなっているのでチャレンジする意欲もない、ないです! ハイッ!
つまり、現代日本は、熱意はまずぶっこわーすして、熱意がちゃんと大鉈の時期まで温存できた人だけが頑張る、という非常に歩留まりの悪い社会である。
わたしみたいにバイタリティのない人間、熱意の温存がへたくそな人間は早々にやさぐれるわけですね。
そして、温存できなかった人を食わせるために、その人生への慰謝料として会社はお給金を支払っているということである。
ただし、これもグラデーションで、現在はお給金の慰謝料と成果のハイブリッド過渡期であり、これからさらに時間をかけて徐々に成果や仕事としてのお給金に移り変わってくでしょう。
ドラスティック、またラジカルにはいかないでしょう。それが熱意ですが、熱意は変換(具現化)しないと電力にもお金にもならないからです。
ですので、熱意の振り向け方、念の攻防力移動のときにビスケに教わったように、0期に20%、1期に80%ぐらい振り向ける、とかしましょう。

とにかく精神分析がやりたいっていうのは、美味しんぼでいえば、山岡みたいになりたいと思って新聞記者になるかって話に近い。
あの昼間はずっと競馬か寝るかしている山岡が、食のことになるとめちゃくちゃ段取りよく谷村部長や社主や局長を説き伏せたり指示したりしてチャキチャキするのを見ていると「うわー俺もあんな感じになりてえ」と思ってしまうのも無理からぬこと。
やっぱり1巻でアンキモで美食家を凹ますような感じで自分の職業人生をスタートさせたいというのは若い人は誰しもが思うところでしょう。

山岡の0期はとにかくめちゃくちゃです。関係構築は全部食べ物です。そのうちみんなと一緒に行動し始めて、丸くなっていき、いじられキャラ、アニメでいうととにかく最後に山岡の椅子が唐突に転んで色鉛筆風の静止画になるという一途を辿るのですが、あれはたまたま才能とコネが異様だった人間が東西新聞の記念事業とマッチングしていきなり大鉈(というか自分の才能を)を如何なくふるえるタイミングがきたというだけであって、KTDF(雁屋哲ディストーション空間)だからこそ成立しているフィクション、俺の知り合いの劇画原作者、フィ、フィクション、フィクションですね、フィクションです。はい。
まあそんな感じです。

まあロールモデルとして0期を学ぶ場所がないというのも日本の問題かもしれませんね。で、それをうまくやる人間はスクールカースト上位の運動部のバイタリティの高い人間が熱意を保つ、あるいは転換が容易(軍隊的に、従軍的に)であり、まあ簡単にいえば自己洗脳的に、面従腹背とかではなく、ふつうに営業モードとプライベートを切り分ける能力に長けてて人好きもするわけです。
それに比べて精神分析、卓球、詩、どれも厳しい。卓球は急に出てきましたけど、なんか、中学校の卓球だとおもってください。基本みんな折れ折れの人たちでもっている分野です。たまに「王」になるために変なバイタリティがある人が台風のようにやってきますが、そういうときは面従腹背です。
とにかく面従腹背なんだと。
嫌なやつとは付き合わないんだと。
よく知らないけどあいつは嫌なやつなんだと。
俺はバイタリティがないからそこまで膝をつきあわせてお互いを知る余力もないし、めんどくさいんだと。
苦手である、と。
そんなこんなでもう(スクールカースト上位者で日本は)好きにしてくださいみたいなモードに突入していてエンゲージメントが低いのである。
個人的な見取り図としては、こんなふうに感じてる次第。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?