コンテンツメモ(わいの令和詩史7か8、4や!)

あさ。昨日か一昨日ぐらいからNewsPicksのダイジェストで落合陽一さんと東浩紀さんの対談が(Youtubeに)あって、タイパ(タイムパフォーマンス)とかコンテンツの話をしていて、フル尺の動画を見るために課金するかどうか悩んでいるところですが(最初の無料10日間は以前何かの動画の折に使ってしまった…それももしかしたらホリエモンさんと東浩紀さんのトーク番組だったかもしれない)

それとはまったく別に、ミキさんという人の詩を思い出していた。たしか「コンテンツ っていうんだ。」という一節のある詩。現代詩フォーラムという詩を投稿できるサイトにあったはず…と思い、探してみた。タイトルは忘れていたが、それっぽいのを片っ端から見ていくとあった。
「落雷のイニング」。

あと、探す過程で見つけた「印旛沼サイレンス」。

「いんばぬま」と読むらしい。アジカンでありそう。ないわ

これはわたしが「たみ」さんが書いたものだと思い違いしていた詩だった。なぜ思い違いしたのかは思い出せない。

あと、質量への憧憬?みたいなことを言ってて、落合さんが、で、それで鈴木志郎康さんの「窓辺の構造体」を思い出していた。

「重さを持たない言葉を新たに習い始めた」のところで思い出したのだと思う。
あとはアランケイの話とかもしてて(1/22朝 ついにフル尺課金しました。月額1,700円 たけぇ〜…  一ヶ月間、見倒していきたいです。ホリエワンとかみまくりたいです!)、なんか、それもあって。
鈴木志郎康さんは、詩集「胡桃ポインタ」のあたりでネットとばちかぶりしてる(2001年刊だが、集中の詩が書かれたのはもう少し前のことになるから)。

で、思い出してきたけど胡桃ポインタは表紙がいっこいっこ全部違うのである。たしか海老塚耕一さん(映像作品『極私的にEBIZUKA』の海老塚さんですね)に一冊一冊表紙を描いてもらっているのである。
だから同じ表紙のやつが一冊もないんである。そして、これは透明のカバーがついているである。

『胡桃ポインタ』あとがきを読んでみると、「一冊一冊手を入れるという力の込めようには、驚き喜び感謝のしようもありません」とある。

あとがきの前半部も興味深いので引用してみたい。

この詩集に収録した詩は一九九六年の秋から二〇〇一年五月までに書き発表したもので、中には大幅に改稿したものもある。読み返してみて、詩を書く気分と意識が微妙に変わって来ているのを感じる。外では表現を目指す若い人たちに接し、家ではコンピュータに熱中している作者の生活が詩に反映している。詩を書くのなら、自分が生きているところが丸ごと出ればいいなあと思う気持ちが一方にあり、自分のことばかり書いているのは嫌みだなあと思う気持ちもある。(中略)思考の綾みたいなものを一人でおもしろがっているようなところがあり、読みやすい詩ではないことは確かだ。読者が得られれば見つけもの、読者になってくれた人には感謝しなければならない。

鈴木志郎康『胡桃ポインタ』あとがき

太字で強調した箇所の客観的かつ率直な物言いに私は好感を持ってしまうというか、戒めとして、常に心に懐いておきたいような言葉だなあと思う。

あと、「大幅に改稿したものもある」ということで、『窓辺の構造体』の詩集版の最終連(の一部)を読み較べてみると…

他人の身体の存在に疲れてしまい、
地下の仕事場に電磁の窓を灯して、
コンピュータに話しかけ、
そこに開かれたディスプレイの窓に、
重さを持たない言葉を綴る。
(『窓辺の構造体』最終連 部分 詩集版

(『窓辺の構造体』最終連 部分 詩集版)『胡桃ポインタ』より

他人の身体の存在に疲れてしまい
仕事場に電灯を灯して
コンピュータに話しかけるために
重さを持たない言語を新たに習い始めた
(『窓辺の構造体』最終連 部分 ネット版

(『窓辺の構造体』最終連 部分 ネット版)
http://www.catnet.ne.jp/srys/e-poem-lib/siroyasu/new1poem.html より

流れはほぼ一緒のようにみえるが、表現(や時制?)はかなり変わっているようにみえる。

ただし、どちらのバージョンも「他人の身体の存在に疲れてしまい」は、共通している。
 鈴木志郎康さんの詩には、よく「他人の身体」とか「存在」というものが出てくるように思う。というか、もっとストレートに言えば、先の詩句を読んでまず思い出されるのは、詩人が一九七四年に発表した『やわらかい闇の夢』に収録されたタイトルもそのものずばり『疲れてしまう』であろう。

男と女の二人連れを見ていると
疲れてしまう
彼らは言葉を交わしている、尚も言葉を交わし続けるだろうと思う
彼らが抱き合っているところを思う
疲れてしまう
あの人たちが歩いて行ったり喋ったりするのを思う
疲れてしまう
あの人たちが気持を表わしたり理解したりするのを思う
疲れてしまう

鈴木志郎康『疲れてしまう』部分 送り仮名は原文ママ

なんかこの詩はおもしろくて好きだ。
今風に言えばリア充云々かんぬんということなのかもしれないが、それよりも、詩において、あんまり書かれてこなかった自分の頭の中の循環のようなものをかなり綺麗に取り出して詩にしたようなところがあって、そこに鈴木志郎康さん特有のリフレインがマッチしてなんともいえない味わいとおもしろみを生み出している作品といえよう(いえようって言ってみたかった。)

まあ、男女の会話やまぐわいを想像して疲れてしまった。続いての二連。

一人で歩いている男を見ていると
疲れてしまう

同 部分 二連目冒頭

おーい! 一人でも疲れるんかーい! まあここから先は詩集を買って楽しんでほしい。
『やわらかい闇の夢』は富岡多恵子さんも言ってたが、すごい読みやすいけどなんかちょっと屈折っていうか、鈴木志郎康さん特有の語彙の使い方(『パチンコ屋行き』『汚れ新聞紙』的な、単語単語くっつけ表現とか)やリフレインで連を跨がずにガンガンいく感じとかが出てるのに、結構ぱっと見は「詩ぃやん」みたいな感じの見た目をしているので、すごい甘い「お酒じゃないみたい」とか言ってるお酒みたいなところがある。

読後も詩っぽいけど、その読後感はどっちかというと現代(といってもどのへんだろうね)都市生活者に寄り添った、相応に屈折したものとなっているように思える。屈折してはいるが、実感を伴うもの、とでもいおうか。

この詩集の帯のキャッチコピーは「観念からもっと遠くへ」であるが、先に挙げた富岡さんの詩人論では、この詩集について「生活の微に入り細に入り込む」といったような表現がされていたはずだ。
個人的には、この「遠くへ」と「微に入り細に入り」が、まるで真逆のベクトルのように感じられて、非常に違和感を感じてしまうのだが、これについて考えるうち、なんとかこの「遠く」と「微細」を整合させるため、もう少し、頭の中で乱暴に単純化するようになった。
それはこうである。
「観念」というものがそもそも人間の遠くにあって、そこから「遠く」ということは、つまり「近く」である。「近く」=「われわれの生活内部」=「微に入り細に入り」と、解釈することにした。
つまり観念の遠くというのは生活の近く(むしろ内側、生活する自分自身の内側)ということである。
ここで私の理解を阻害した要因のひとつとして考えられるのは、私の先入見として、詩を書く人間の進みというものは一般的に「われわれの生活内部あるいは生活実感」から始まり、ネタ切れするにしたがって、無駄に観念に行ったり言葉で遊んだり旅に出たりするものだという理解があったからだと思う。まあ別にこれらを否定するわけでもないが、ネタ切れだよね、と軽くいじるぐらいはしてもいいような気はする。詩人にはなんかそういうのが足りてない気がする。
惹句が毎回「死ぬんか?」みたいな、精魂注ぎ込んだかのような、毎回「詩人渾身のなんたら」とか、そうなんかもしれんけどもや、もっとふつうに毎日渾身の人おるやろ…と思ってしまう。詩人以外全員毎日渾身だし迫真だし真実だと思う。そういうことに対し、率直な物言いのできる詩を書く人がいたら、わたしはそういう人のことを好きだなあと思うと思う。
あとついでに言っておくと「そんなわけないやろ」とか「嘘つけ」というつもりはなくて、単にふつうに「そこまでか?」と考えて、で、そこまでだと思えば「渾身」と書けばいいし、そうでもなければそうでもないと書いて欲しい、実感として素直に書いてほしいし、なんならふざけてほしい、というだけの話である。なんか余計なこと書いてる気がしてきた

まあ話を戻すと、鈴木志郎康さんはこんな感じで、「他人の身体に疲れる」ことに関してプロであった。「他人の身体に疲れる」ような、ある種の易疲労性は、生活という規範の中で過ごし、また、周囲もそのようなモデル(型)のなかで過ごしているのを見て、なんか倦じてしまうそのさまが頭の中でも勝手に続行してしまうことに対する疲れがある。
簡単にいえば、気疲れとか、妄想といってもよいかもしれない。
共感とか感情移入とは少し違うような気がする。
シンパシーかエンパシーかと言われると、どっちともいえない。
鈴木志郎康さんの書いているものから考えると、社会というものに押し付けられている匿名性とか規範の中でのストレスのようなものが基底にあって、それが頭の中でさえも解消されない、つまり道ゆく楽しそうなカップルの生活や交合さえも覆い尽くしているイメージから、
あれ、なんか違うな。

鈴木志郎康さんの、「やわらかい闇の夢」以前の、過激な言葉を用いていた頃(1960年代)の詩も、また、「窓辺の構造体」のような2000年ごろの詩も、もし共通点があるとすれば、社会(他者の身体への疲労)からの解放があるように思える。
ひとりの時間を使ってこっそり社会から抜け出し、それらを別の角度から照らし返してみるというようなことを、姿勢の変遷こそあるが、ずっと続けていたように思う。
それが、過激な言葉であるか、疲れる言葉であるか、重さを持たない言葉であるかによって、抜け出す社会というものの「抵抗(負荷)」が変わる。
実際鈴木志郎康さんの1960年代は30代であり、NHKに勤めながら過激な言葉で詩を書き続けていたときは、社会に対する姿勢と本人の姿勢はバッチバチだった気がする。
芸人で言うところの"一番尖ってた時期"である。
そこから1970年代になり、社会と本人は「疲れてしまう」自分(他者)を自覚して、合気道みたいな方向性になったといえる。
そこからなんのかんのあって
2000年代、60代にさしかかり、鈴木志郎康さんはC言語とかHTMLとかネットといった、そのあたりの重さを持たない発光する画面の言葉(言語)を覚え始めた。ネットという新たな辺境に自分自身を流し込むことができたのだ。
…というふうに雑にまとめてしまった。個人的にはもっと本格的に文章が書ける人にこういうことをまとめてほしいのだが誰もしなそうなので自分が読みたいものを書いているという部分もある。俺のが書けるぜって人がいたらぜひ書いて欲しい。話がそれた。

言いたいこととしては、鈴木志郎康さんは、ずっと社会と関わりながら、時々社会から抜けたような姿勢で書ける(書き続けられる)生き方をされたということだ。
(うーん、なーんかもぞもぞするけど、またたぶん書くだろうと思うので、一旦これで)



 今一度『窓辺の構造体』のネット版と詩集版の違いをみてみると、最終行の時制が詩集版では現在形(あってる?)、ネット版では過去形(あってますか?)になっている。

ネット版には句読点がないので、なんか終わってない感がちょっとある気がする。南勝久の漫画『ファブル』の伸ばし棒(大丈夫だ――)みたいなものがついているような、いや違うか、なんか開放弦で鳴らす感じ? でもないか、なんかこう、そのまま周りの空間に沁みて、終わらないような、つづくような、過去形?のスタイルに思える。好き放題って意味の放言じゃなくて、放言感というのか、ちょっと何の気なしにあるような感じ?がする。

それに比べると、詩集版は幾らかきっぱりした印象を受ける。また、若干の、表現のくどさを感じなくもない。念を入れているとでもいおうか。
既にコンピュータに毎日向かう「習慣」を、幾日も送っている、といった感じがする。

つまり、詩の書かれた1996年から詩集刊行までの2001年の「時間」を、改稿時にそのまま反映させた、もっとシンプルにいえば「習い始めた」から「綴る」になるまでの時間が反映されているといえる。
ただ、好みで言えば、1996年版(ネット版、さらにいえばユリイカ版だが)のほうが、なんかちょっとかっこいい気もする。
ただしこれは、わたしがネット側(そんなの今はもうないかもしれないけどさ…)の表現、ぼさっと置かれたような、ぞんざいさのほうにときめきをおぼえてしまう人間だからなのかもしれない。

もうひとつ話を戻すと、、、どこに戻るのだろうか。NewsPicksの話だろうか。

ああ、思い出した。

新詩集「胡桃ポインタ」全冊の表紙と挿画は一枚一枚描かれる。

曲腰徒歩新聞 2001年8月16日
http://www.catnet.ne.jp/srys/magekosi/001/aug/aug.html#aug16

『胡桃ポインタ』は表紙と挿し絵がすべて手描きですべて違うというのが本当だったか自分の記憶があやしかったので、鈴木志郎康さんの「曲腰徒歩新聞」にあたってみると、やはりそうだった。わーい

で、さらに話を戻すと、やっとNewsPicksである。

と思ったけど、もうだいたい書きたいことは書いたからいいか。
要は、NewsPicksを聞いていたら、なんかこういうのを思い出したよ、って話でした。以上

(1/19〜1/22)

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