メモ 5/31+10/28

あさ
北朝鮮が「今日〜6月のどっからへんでミサイルを撃つからな!」と予告してたのがもうさっき来て、TwitterでJアラートとか空に流れる空襲警報とか避難のスマホスクショのツイートとか見てもう7時すぎには解除されてトレンドは「人騒がせ」とかに切り変わっていた。今日は午前半休取ったから遅く出れるのでのんびりしてる。サラダをもりもり食べた。
オリラジ中田が松本に噛み付いて霜降りせいやが…みたいなやつをちょいちょい見たりした。
スキップとローファー9話。里帰りと夏休み明けの回。
田舎に思い入れがなく、みんなの会話が早く見たいと思ってしまった。ファン失格である。なんとなく、アラが目立つように感じてしまった。
いつも、ここは作画でもたせる、ここは背景でもたせる、音楽でもたせるといった分担がはっきりしてる気がするのに、今回はそのへんがちょっとギクシャクしてるように感じた。この話はここまで引っ張るぞ、という枠ありきで作られてる気がして、間延び感があった。漫画だと台詞なしの最後の1コマで次の話に引っ張ることもできるけれども、アニメでそれをやると違和感が残ったりする。8話とか11話はそんなところがあった気がする。
夏休み、である。昔は私もこういう時間を過ごしていたはずなのに、なんか見るとカリカリしてしまう。いい時間を見せられて「いいねぇ…」ってなるのも難しいもんだなと思った。ふんぞりかえって「楽しませてみせよ」ってなってるのかもしれない。

漫画の尺とアニメの尺というか、漫画で言えば目線の移動であるが、めっちゃ描き込まれてるページでも、見開きでセリフが特になかったら、パッとめくってしまうときもあるから、アニメみたいな流れていくメディアで、そのへんのじっくり見せるところと手際よく済ませるところの判断ってすごい難しいだろうな。アニメは流れてしまうけど、漫画は流すように読む人もいれば、流すように読んでしまう日もある。

ハンターハンターとかだと、暗黒大陸の見開きとかもすごいんだけど、それよりグリードアイランドクリア後のドゥーン?デューン?がすごい雑なのに普通に読めたりするのが不思議だったりして、そういうのをまじまじと二度見してしまう。指とかむちゃくちゃになってる。

童夢とかのドサッみたいなシーンも、見入るというよりはサッといかせようとしつつ、細かさに目を見張ってしまうような、情報量といえば情報量、物量といえば物量だけど、そこにドサッしかないこととのせめぎ合いみたいなものを見せられている気がする。
漫画の原稿の展示会とかだとほんと食い入るように見てしまうのに、本誌だとちゃっちゃとなってしまう。戸愚呂の「おまえまだ自分が」みたいなページ、子供の頃はふつうにめくってた気がする。

5/31

なんか朝日が100円で読めるキャンペーン打ってて、日記についての記事が読みたくて入会して色々読んでるわけだが、VRがうつ病とか認知行動療法とか広場恐怖的なものにも使えるっぽいみたいな記事を読んで、Apple Vision Proのイントロダクション映像を見返したり、Questのやつと見比べたりしてた。

Apple Vision Proはなんか暗めの部屋で静かに使ってるシーンが多い。そして、何に使ってるという感じでもない。Macの画面を抜いて空間に浮かべる研究所?ラボ?っぽいシーンと、部屋で仕事の打ち合わせっぽいのをするシーンは仕事で、あとスポーツ観戦するシーンとか飛行機で赤ちゃんの鳴き声をシャットダウンして映画見るシーンとかが消費に近い。あとコントローラー持ってゲームもしてたかな。

でも、中心にあるのはなんというか、作るわけでもなく、消費するでもないシーンに使うものであることを推してるような気がした。

例えば自分で撮った立体動画とか立体写真を懐かしむシーンとか、マインドフルネスであったりがそれである。なんか自分自身を再構成するような使い道、あるいは今まで撮ってきたパーソナルな資産の利活用。
あとはひたすらでっかい画面で映像が見れたり空間コンピューティングができるぜ!って感じだった。

Questのほうはなんか踊ったり机の上にARでシムシティみたいなやつというか、なんか箱庭の世界をいじるんだみたいなノリだったりでなんか活発だった。

今年中に出るはずだが、iPhone用にジャーナルというアプリが搭載される。これは日記の作成支援のアプリである。
今日あなたは地図上をどう移動し、どこでどういう写真を撮り、どういう音楽を聞いたか、みたいなやつを提供してくれるっぽい。

これはある意味、脈拍とか血中酸素濃度みたいな情報に近い。身の回りの、自分自身の「身体」が行ったパーソナルな結果の記録である。

自分自身のネット閲覧履歴からデータを取得し、追跡し、興味関心などを加工し、検索結果やサジェストやリコメンドに反映させ、広告によって欲望をたきつけるサービスのたぐいではなく、あくまで自分自身の身体が移動し、その結果変化した脈拍や歩行スピード、撮った写真、聞いた音楽、歩いたルートなど、それらの行動を取りまとめてレポートを作ったり勧告してくれるのが最近のApple機器のエコシステムな気がする。

なんか昔、iLifeとか言って、なんかiMovieとかまとめて5本ぐらいのソフトを1万しないぐらいで売ってた時期があった。
ああいう、自分自身の撮ったものとか、インスピレーションを何かに昇華させるための手段としてのソフトをデスクトップ型のMacでしか編集できなかった時代は過ぎ去り、Ken Burns effectで写真のスライドショーを流して音楽を鳴らすと感動するみたいなことをジョブズが言ってた時代も過ぎ去り、なんかもうYoutubeとかでショート動画とかの上に文字がどっさり載ってるわけわからん写真なのか動画なのかテキストなのかもわからんもんを日がな見せられている(見ている)こっちの身にもなってみろってんだ。
そう考えると、Vision Proの写真の楽しみ方は、写真のスライドショーの楽しみ方の進化系みたいなもんかもしれない。
Ken Burns effectというのはなんか日本だと明治生命みたいな、小田和正みたいな感じを思い浮かべてほしい。明治生命かは知らん。でもどっかの生保が小田和正で静止画だけのCMをうってるはずである。それ。

だいぶ話がそれたが、iPhoneとかだと入力装置と出力装置が一緒くたになってるので、そこで自分が作ったものを加工編集して出力結果を確認して世界に公開する、あるいは最初から生配信する事ができたりする。

Apple Watchは、音がうるさいから耳が悪くなるとかお前は1kmを14分で歩いているとかごちゃごちゃ言ってくるやつはヘルスケアアプリで見れる。あと寝る前とかにマインドフルネスで1日を深呼吸で振り返らないかと提案してくる。寝てるあいだに心拍が少なすぎるとじゃっかん死んでましたよ的な通知がきたりもする。
こういうある意味どうでもいい情報というか、ずっと生きてるあいだ垂れ流しになってて増える一方の情報と、めちゃくちゃ撮りまくってるカメラロールの枚数とかって、もうほとんど同じようなジャンルになってきてるのではと思った。自分で画角を決めてシャッターを切ってはいるものの、こう毎日何かしら撮ってると、見返すことも活用することもない。
時々写真アプリ側から「あの頃の俺たち…」みたいに20年前の写真が急に提案されたりして、今の俺はなんて孤独なんだ…と思わずにいられない。

写真アプリの写真の多さと活用されなさと、健康で何もないときのApple Watchが測定してる状態みたいなものってなんとなく似てるし、だとしたら、写真アプリの写真の活用法の、極めてパーソナルな側面は思い出させることにあるわけで、もう見せる人もいないし、自分が行った場所とか撮った人とか、自分じゃないとまったく意味がない情報の楽しみ方、もう楽しみというか内省といったほうがいいのかもしれない(だからVision Proのイントロダクションは暗めの部屋だったのかもしれない。いや、明るいとアラが出るのかもしれない。わからない)

個人的にはジャーナルアプリもそういう系譜というか布石の一環なのかなーと思ったりもする。「内省需要」?みたいなものへの布石である。
要は人のためでもなければ自分のためでもない。
ちょっと違うな。
自分のために「消費財」を与えるためでもない、みたいな。自分に映画を見せてやったり、ゲームをさせてやるとか。コンテンツの消費。
そういうわけではない。
自分の写真はいくら見ても減らないし、いつ見ても違うニュアンスが含まれる。さっき見るのと、10年後に見るのとでは、まるで違う。死んだ人とか別れた人とか、なくなった場所とか、なぜ俺は今こうなのか…
それ以上はいけない

もうThink different(綴りに自信ない)キャンペーンの頃の感じとはだいぶ違うニュアンスである。隔世の感というか。
表現に素人も玄人もないというより、別にもうヒョウにゲンする必要もないじゃないか、と言わんばかりの布石を打ってきている。
それはある意味ではApple Watchの健康状態の監視とも繋がっている。パーソナルな情報の膨大なログを、広告に売り払うために加工するビジネスモデルじゃないからこそ、使い道を個人に還元する思想にいきついたようにも思える。あんましらんがウェルビーイングみたいなやつかもしれない。

Appleは、個人の興味関心には興味がなく、個人が残した結果を個人にフィードバッグして、もう一度個人が内部に閉じた「結果」を生成することを望んでいるような感じはする。それは意味とか生産とは違う。誰にも見せないものである。

*ここから重複?

健康状態とか写真とかGPSの位置情報などの加工によって出てくるのは自分の行動や身体などの、あまり他人が顧みない(顧みてもしかたがない)材料であり、製作物である。
まあヤバいと表示され、医者に持ってけば医者もヤバいと言って治してくれるから、そういう時は役に立つが、そうじゃない時は、そこまで役に立たない。そこに残るのは基本的に漸進的な衰弱の記録でしかない。
「この漸進的な衰弱の記録」という言い方を、あえて、自分自身の書く日記とか写真とか聞いている音楽にも当てはめてみて、考えてみると少し面白いかもしれない。というか、そこを起点にして、「衰弱」という一方的で単純すぎる言葉を跳ね返すこともできる気がする。
日記は気が向かなくなったり、なんかもう無理ってなったら書かれなくなるが、Apple Watchはずっと健気になんか心拍数をつけているし、自分の体もずっと脈を打ってるっぽい。
写真とか日記は脈拍みたいにずっと打ってないとやばいというわけではない。むしろ、無理して写真を撮ると、落ちるし、轢かれるし、飛んでいってしまったりする。日記も無理に書こうとすると、余計に嫌な気分になって敬遠するようになったり、やっぱりこれも轢かれたりするかもしれない。
とにかくスマホでなんでもかでも出来る時代はとにかく轢かれるリスクが常にある。スマホで日記をつけていたら轢かれるかもしれない。
なので、日記は家でつけるのがオススメである。
しかし、家路につき、帰宅し、家事を済ませて、ふぅ…と腰を据えてデスクトップなり、タブレットやスマホなり、日記帳なりを開いたとき、そこで頭に浮かぶ今日1日の流れとか、一番先にきている言葉(≒思い)が、必ずしも正確ではないし、抜け漏れがあるような気もしなくはないだろうか。
なんといっても疲れているし、いろんな負の感情がまっさきにきているけれども、今日はそもそもそんなわるい日だったか?みたいな、そんなことである。
といって、今書く直前まできている自分自身が、今思ってることを書かないでどうするんだ、とも思う。さっき上司に嫌なことを言われてずっと引っかかってもやもやしてたことから書くべきであって、朝はめっちゃいい感じだった、みたいな話はもう書かなくていいかもしれない。
朝はめっちゃいい感じだったんだけど、上司にごちゃごちゃ言われて最後にめっちゃテンション下がって最悪、みたいなふうに書くと、次は帰りにフレスコで買い物したとか、ガソリン給油したとか、何を読んだとか、アルバイトのなんとかさんが「紫」という理由だけでエヴァの巾着袋を買ってて面白かったとか、なんかそういうことを忘れてる。
こういう情報はAppleも捕捉しきれない。もちろんGoogleも。
ブラウザで検索したりYoutubeでなんか閲覧したとかだったら捕捉するかもしれないが、AppleやGoogleにフレスコと言っても「ああ、Adobeのあれよね」としか答えてくれないであろう。
だからこまめにスマホでひらがな打ちでもいいので、記憶のアンカーみたいなやつをぱぱっと打つ。
バイクに乗る前の一瞬、赤信号の時はApple Watchに話しかけてリマインダーに登録、会社に入るまで、あとはお昼、帰り、家、翌日の朝。
なんか隙を見つけては日記を書く、メモを繋げて日記にするチャンスを伺っている。
とはいえ、別にもう日記は出来上がってるのである。
最悪、そのスマホの新規作成しまくったメモの羅列を繋げればそれが日記や。
そして、それで物足りないのであれば、メモの羅列の下に、文章として日記を添えれば良い。そうするとかなり膨らむ。そして一週間に一回ぐらいは、「最近は…」で文章を始めてみると、ここ最近の自分を少し俯瞰した状態で、ふだんとりこぼしている変化をキャッチアップできる感じがするのでオススメである。これで拾いやすいのはペットとかとの関係の微妙な変化とか、体の漠然と慢性化している痛みとか変化とか鼻詰まりとかのたぐいである。「そういえば最近ずっと左親指の第二関節がふとしたときにズキッとする」とか。そして、こういうメモを、コピペしてリマインダーか、ピン留めしたメモに追記しておくと、ふとした時に「整形外科的なところに行ってみようか?」と思ったりできるから便利である。

このように書いていくと、自分自身について、Apple Watchと日記の二段構えで関心を持つような、セーフティネット的な内省について、考えを深めてみようという気にもなる。

じゃあ写真はどうか。写真は、一体なんのバロメーターなんだろうか。
今パッと思いつくのはウシジマくんで医療機器メーカーの営業の男性が元写真サークルで、携帯で空の写真を時々撮ってるシーンである。
あれはバロメーターで言えばもうだいぶいききっていて、デッドラインをだいぶ割っている。死である。でも空の写真だけを見ても、虚ろさの発露であるとはなかなか思えない。綺麗ですね!いいね!3いいね!ぐらいなもんである。
写真は健康のバロメーターではない。自分自身の関心や状態とも直接関係がない可能性もある。

*ここも重複?

立体動画を撮りそれをApple Vision Proで懐かしんだり、iPhoneのジャーナルアプリで1日を振り返り、日記を書く。
なんとなく、Appleは、やけに内省的な方向に舵を切っているようには思う。
ある意味マインドフルネスも自分自身の振り返りや、精神的緊張から心身を解放したり、リフレッシュするため、つまり自分自身の意識の固着、凝りに目を向け、そこから抜け出す視点を持ち合わせるためのもののような気がする。そう考えると、日記や写真も、自分自身を再構成するための手がかりになるのかもしれない。そして、いつか、それを見返し、自身を再構成する日もくるのかもしれない。再構成にあたって、プロのような技術やマネタイズの必要はない。自分自身を生かすためだけに必要なものなのだ。その過程がもし人様の役に立てば…といったところで、文学作品や詩があるときもある。

*?

身体のデータと行為のデータは取るが、興味関心を材料にして周りにちらつかせて金を儲けようということは、ハードを作ってる会社だからしなくていいのかもしれないし、美学として、思想として違うと思うことには踏み込まないのかもしれない。
別にAppleもAIとか機械学習が皆無なわけじゃなくてむしろむちゃくちゃ使ってると思うのだが、別に広告を打たなくていいぶん、表にそのAIっぽさを出す必要性がない。提出された材料を、極力ユーザーに還元するようにしているようにみえる。どこかの会社に加工してマーケティングに使わせて広告費で儲けてる感はない。なんかそういうのはもっぱらGoogle、という感じ。偏見なのかもだが。

特に結論はない。最近思ってることをだだーっと書き出しただけ
10/28あさ




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