メモ(日記、フロアをわかす鈴木志郎康さん)

世の中GWらしく、すごい人は12連休とかなるらしいが、私は今日も仕事、小雨降ってて憂鬱である。

なんか最近SNSで「フロアをわかす◯◯」が流行ってる。

ふと「現代詩文庫の裏表紙の鈴木志郎康さんでフロアわかせないか?」と、やってみた。

うーむ。若干エンペラーな趣きが。なんで上半身裸なのかはさておき、顔と画質にエンペラー要素が詰まってる気がする。あとは海水浴に来た書生にもみえる。


昨日は現代詩手帖のバックナンバー(詩的60年代をなんちゃらかんちゃら、10年ぐらい前の)を読んでて鈴木志郎康さんのとこが2ページしかなくて読んでたのだが、NHKのフィルムカメラマンとして働いてた当時、シコルスキー型のヘリから身を乗り出して撮影したときのことが忘れられないと書いてあった。近況としては75歳ぐらいになって人工股関節の右と左を入れて1年近くをベッドの上で暮らしたと書かれていた。『ラモーの甥』という本について卒論的なのを書いたともあり、ラモーの甥を即ポチった。なんか既に気になる本のリストには入ってた。
鈴木志郎康さんが読んだとか見たと書いてるものは優先順位が爆上がりする。まあ爆上がりしても読まないものは読まないのだが。
増村保造の映画とか庄野潤三の小説は読まなければならない気がしているが、結局増村保造はちょっとしか見てないし、庄野潤三は積読というか、もうどっかいった。
今の私のメディア視聴の限界は、せいぜいが春アニメです。今期アニオリ多めなので、それらを中心に。


今期のアニオリ作品に『ガールズバンドクライ』というのがある。これは全編3DCGアニメ(OPの一部、写真などは2D表現もある)で、タイトル通りバンドものである。
詳しくは知らないが、企画自体はアニメ放映前から始まってて、トゲナシトゲアリというバンドのYoutubeチャンネルが先に走っている(そして、このバンドのメンバーが、楽器の担当とキャラを合わせて声優している)。

このトゲナシトゲアリの楽曲に『極私的極彩色アンサー』という曲があり、極私的という文字を見た瞬間、これはもうファンになるしかないと思った。
てかアニメ自体おもしろいしね。最初ちょっとだけCGの違和感あったが、慣れると平気。むしろ細かい表情の変化が中毒になる。また、主人公の情緒不安定なところや、急に火の粉みたいなオーラを纏うところが面白い。
主人公、見た目かわいらしいのだが、言動はロックというか不安定で、「こいつ何言ってるの?」みたいなことがしょっちゅうである。
ここまでくると、主人公の認知が歪んでる説もじゅうぶん射程に入ってきて、家族も学校も実はそんなに悪くなかったのではないか?という考えも出てきてしまう。ロック超えて叙述トリックの域に達してるのでは。でも人間そうやって思い込みで飛び出して『正しい街』だった…と実感したりもするわけで。
そういや毎話タイトルが邦楽の楽曲名から取られてて、次回は確かサンボマスターだけど、もとを辿れば戦後すぐぐらいの文学運動というのか、提唱?呼びかけ?に拠る。そして、その10年前ぐらいに鈴木志郎康さんは生まれた。

鈴木志郎康さんのプアプア詩のなかに、「飲んでくれ飲んでくれ」みたいな終わり方をする詩があった気がする。あれをシンプルに、系譜か語彙かアティテュードの一部を受け継ぐという意味だと捉えると、『極私的極彩色アンサー』は、ちゃんと飲んでるような気もする。関係ねーよと言われればそれまでだが、いややっぱ響きがいいですよね、極を使う言葉は。京極とか極秘とか。字の形もなんかかっこいいし、意味もなんかかっこいいし、のぎへんかと思ったら木へんなんですね!みたいなところもまたいい。そんな極に、私的を繋げる。
「ごくごく私的に」ではなく「極私的」にすることで、なんか引き締まるというか、おどろおどろしさが増す。
雰囲気的には「畢竟」とかと同じレベルに達してる気がする。鈴木志郎康さん自身も、本名じゃなくてペンネーム(だけど、もうこれはもうひとりの自分だーぐらいの勢いでやってたと思う)だが、やはり天沢退二郎とか吉増剛造とか素で名前に凶キャラ感のある人が多いなか、康之でいけるのかおいみたいな部分もあって、やはり名前は最低でも三文字でいかなければみたいな側面もあったのだろうか。いや、でも青鰐のときから鈴木志郎康だったので、ある意味慧眼というか、先見の明があるともいえる。だから名前のいかつさで張り合ったとかいう話ではないと思うのだが、私は、ちゃんとその字面のおどろおどろしさというか、意味不明さに惹かれた。

極私的も、私的では足りないからつけたわけで、鈴木志郎康さんがよく使う「純粋」とかも哲学とかからもってきてるのだとは思うけれども、なんか、インパクトが足りない…!と思った時に、自分や語彙を変えていける範囲で変えていって勝算を上げていく姿勢みたいなものは見習わなきゃいかんのではないか?みたいなことは時々考える。
(なんかこういう極とか純粋とかいう言葉の使い方は、ある種のサブカルチャーがもつおどろどおどろしさとかアングラ感に通じていく気もする)
だから私も"nemaru"じゃなくて「三陰交ねまる」とかにしないと負けるんじゃないかとか、何に負けるのかは知らんが、なんかそんなことはときどき思いますね。
なんかネットでは最低限苗字ある人のほうが強い気がしますし、それは当人の覚悟とか移入度合いと作品の質、あるいは他者からの認識のされ具合とかの相互作用で決まるのでおいそれとは言えないけれども。

しごと
(4/30あさ ばーっと)

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