メモ(特に宛てなし)

一番いい詩というか、出会い頭でガツーンとくるようなやつ。理想なのは習慣的に見にいく場所で、しかも初めて見る作者名で、読んだ瞬間「あれ、俺の日記の切り取り…? ひょっとして俺、寝ぼけてやらかしてもうた?」と焦るぐらいのやつがいい。
頭の後ろが冷たくなって「やっばー…」と思ってたら、だんだん落ち着いてきて、いやちがう、俺はこんな文章書いてない、ほぼ俺と同じ感性の人間がそれをそのまま書いて載せてるだけだ…と気づく。
そうなってくるともう輝きは失せていて、それは結局俺と同じ感性とレベルの人間がもうひとりこの世にいる、というだけの話になって、一番いい詩は消えてなくなってしまうのだ。
そういう詩は何回も読まない。一回読んで、ほんと俺みたいだなーと思って、いいねもせず通り過ぎる。

「作品」という方向と「おまおれ」という分裂した理想を探し求める。探し求められるほど勉強もしていないから大それたことは言えないが。だからこそ「作品」よりかは「おまおれ」のほうに寄っていき、最終的には「おまおれの奇跡」を探し求め、独りよがりな詩?を書くようになっていく。これは目的地のない宇宙探査機のようなもので、飛べるものならいくらでも飛んでいってくださいって感じである。つまり今生きている世の中の全員に対しての探査と、時代、これから先の時間に対する探査、両方に対して闇雲に言葉を投げ掛けてみる。探査というとちょっと変かもしれない。
もう言葉として切り離されたあとのことはわたしはコントロールできないし、感知しようもない。ただし、今生きている世の中の全員のうちのちょっとだけの範囲に関してだけ、わたしはたぶん探査することができる。
探査というのはレスポンスというか、反応ができるということで、書いたことについて、なんか言われたら、返すことができる。
みんなそれぞれの人生をカスタマイズしているからバラバラなのは当然だが、世代というのもあって、同時代性をしょったまま一緒に昇天していく仲の見ず知らずの人間というのもいっぱいいる。
そういう人への探査と、死んだあとの探査はなんかちょっと違う気がする。
まあ、死んだあとは探査じゃない。地球が爆発したあとの宇宙探査機みたいなものである。「えー、なくなってますやーん」みたいな感じである。
最初、宇宙に行くとき、なんか「人間でーす」みたいな名刺みたいなやつをロケットに積んでいたと聞くが、詩って、そういうところがある気がする。
ただし、宇宙人側が人間に興味を持った場合は、その背景を知ることでもっと楽しめるという詩もある。そういうのが知識とか造詣とかいうやつなのかもしれない。
宇宙に持っていくために水分を飛ばしまくって普遍性を得た(かっちかちの)言葉か、今という水分を含みまくったぶよぶよの(みずみずしい)詩か。どっちがいいという話でもないし、はなから言葉は宇宙行きたいとか言ってないからどっちでもいいのである。腐ろうが残ろうが、それは書いた人の気持ちの問題であり、死んでからはもうわかるわけないから、知らんがな、もうどうでもええわ、の世界である。



なんか、詩というのはそういうののバランスの上に成り立ってる気がする。同時代性を超える詩、時間軸、仲間、探査、権力とかもあるのかもしれない。どれだけアンソロジーに引き継いでいったり、すごいと言い続けたりする誰かの程度によって、その言葉の残り具合は変わってくる。言葉がいい場合もあるし、その人の顔が広い場合もある。でもまあほとんどの場合、その時代、というかもうその瞬間、すでにほぼ詰んでる状態にある。
ただし、そこもバランスで、自分が言葉というものにどれだけ期待をかけたり、周りの人にどれだけ興味をもつかによってまた言葉を扱う自分自身の幸福度とか無頼度とか孤立度などにも変化が起こってくる。
そうやって言葉を扱う自身のそこそこの幸福を願うのかガチで時間軸の中で引き継がれるものになりたいけど詰んでるから不幸だと思い続けるのかみたいなところもある。というか、わたしの中にある、なんかややこしい部分の根っこがそのへんにありそうなのである。簡単にいえばコンプレックスだし、その裏返しが言葉になってるのである。だからそれらが解消されると、100万回生きた猫みたいにわたしのこうやってダラダラ書く行為もちゃんと死ねるのかもしれない。でも今のわたしはそういうのを裏切りみたいに捉える心持ちになっている。

最近仕事中ふと思ったのが「何もしないややこしい人をどうするか」。
自分のことなのだが、何もしないややこしい人をこれからどうしていくのか。
中途半端に教養を身につけたけどハマる場所がない人、詩というのも結局そういう問題の一端を受け持ってるのかもな、ということをおもった。
こういうのは、詩だけではなく哲学、思想、ニュースコメント、あらゆる分野に溢れていて、もしかしたらインターネットというよりかは、椅子とかキーボードというのがよくなかったのかもしれないともテキトーに考えてみる。
ハマる場所がない、というのは結局社会適応のレベルの問題で、福祉の問題にもなってくるのだが、「ややこしい人」はなんとか生きていけるけど「ややこしい」。手は振りほどくけど助けてほしいみたいなややこしさである。
たとえどこか福祉施設に入っても反発心とか自己言及性によってボロカスいって追い出されてしまうとか、正直になるタイミングを間違えて言っちゃいけないことばかり言って毎回そこに居られなくなる人とか。
助けを受け入れつつ、ややこしくも生きるタイプの人もいるけれども、そういう人が生み出すものやアートは解釈や自己言及がないので、介助者側が仲介して外に向けて交渉して売り出すことができるような気がする。

なんかそのあたりって、どうなってるんだろうな(漠然としすぎた文章だが)、ということはよく思う。

これを逆方向から言うと「あきらめろ」という話になる。粛々と働いて生きろ、質素に分相応に自分を知って、身近な他者との関係に満足しながらもっと密かに望むものを望めという感じか。つまり自我が肥大しているのだと。「ややこしさ」とは肥大した自我が生み出す諸々なのかもしれない。じゃあそれを集めたりほぐしたりしていくにはどういう場所があったらいいだろう。それはまたそれぞれのジャンルを作り、非常に低い敷居をつくり、その高いプライドをゆっくりと溶かしていくほんのりしたあたたかさと中毒性をあわせもつ何か、をその当事者らのごく近所につくらなければなるまい。となるとそれはもう家庭が一番それっぽい気がしなくもない。

書き続ける問題。
冒頭の「俺が寝ぼけて夢遊病で書いた詩(にしか見えない詩)」は書き続けれない臭がすごい。
たぶんその「瞬間」だからこそいい感じな気がする。瞬間というのは書いて目を通さず投げたって感じではなくて、ボタンを押した「瞬間」、言葉が外界に出た瞬間の話であって、それまで推敲や逡巡をいくらしてようが、それはみえない。「そういうふうにみえる」だけで実際にはためらいがたくさんあるんだけど、最終的には俺が寝ぼけて書いたようにみえる、という感じなのかもしれないし、それはわからん。
ただ、そういう詩をきっかけとして、ずっと書き続けていこうとすると、ネタが尽きてきて、生活の、身の回りの切実さから、少しずつ言葉そのものから発想してきたような雰囲気に変わっていって、それも尽きてくると、だんだん投稿頻度が減っていき、そのまま死蔵されたアカウントへと移行していく。その人は詩の周期、書く周期から遠のいていく。

個人的には最初から本読みの人がある程度弁えつつスタンスと間隔をとって一定の水準のものを投稿していくよりかは、ふつうに生きてる人がもう無理ってなってガーッと書いたところから徐々に書くことが目的化していって徐々にやめていくさまのほうがなんかいい、いやどっちもいいんだけど、個人的にはそっち(生活)のほうに近いからそっちを応援したいみたいな、もしなんかの決勝に生活VS文学みたいなのが勝ち上がってきたら生活のほうに一票入れたい派なのでなんかそういうほうを応援したい気持ちがどこかにある。ようは、なんか落ち着いている感じとか、定まっているような感じとかはあんまり好まないというか、やっかみで敬遠してしまうところがある。
ただし、例外として、インターネット老人会っぽいような人はのぞく。
なんか昔からやってそうな人の場合はなんかいいなーと思う。
やっかみよりも、羨ましさとか好ましさが勝つ。

これをひどい言い方にすると、おいお前、書くことが目的になってきてるから、ちょっと生活してトラブル補充してこい、みたいな言い方になる。
あいつらの語彙力や機知や知性に勝てるのは生活トラブル、生活笑百科しかないという、勝ち負けの発想である。スポ根の世界である。
そういうのはよくない…。ほんとよくない…。
あってるとかまちがってるとか ま じ で どうでもいい。生きてるだけですばらしい。いるだけでいい。

「まあでも、書くのもいいけどさ、もうちょっと生きてみてからにしない?」って言ってみたくなる気持ちもわからんでもない。自分でもこうやって書いていておいお前散歩でもしてこいやってやっぱり思う。
座ってるとガンが90%になるみたいな記事もどっかで読んだ気がするし、体に良くないらしい。電動昇降デスク買おうかなと思う。
単純に「外でろや」って問題もそうだし、「書くより、まずお前が今抱え込んでる問題と直面してこいやそいやー」みたいな気持ちもなんかあったりする。
さっき自我の肥大と書いた気がするけど、やはり何かを回避するために書いてるんだったら、それにぶつかって当たって砕けてからでもいいのでは、ということもあるし、いやもう僕けっこういい歳なんでもう骨格も定まってるし確定してるんでもうほっといてくださいっていう人もいるからそういう人はもう別にいいんですけど、そうじゃない人も中にはいる気がするけどネットから介入しようがないからまあみてるだけなんですけど、みたいなこともある。

いろいろ書いたけどその人が一番なんかいていい感じのスタンスのところに落ち着けばそれでいいのである。自分にも他人にも、それしか願うことはない。
詩なんかもそういうことの二の次で全然いいし、逆に、いの一番でも全然問題ない。結局人間その人の周期に合わせて書けたり書けなかったりするだけなので、そしてそれが残るか残らないかみたいなのは運とか距離とか権力の絡んでくる話なので、それらの周縁でそれなりに楽しく人生を過ごせれば、まあつらくてもまあ、まあ、あれです、ね、なんか、ね、あれじゃないですか、まあがんばらんでもええけど、自堕落でもぜんぜんええし、死んだらあかんともおもわんけど、まあ、こっちとしてはネットからやしこうやって言葉で書く以外なんもできんし、なんもできひんけど、ネットて入金とかはできるし、変なもんやねー、言葉か金か、みたいな。ワードorダイみたいな。ワードorマニ。ださいね。
ではでは
できることならお元気で。

無理ならそこそこで。

やばかったらしかるべき場所へ。では。 (特に宛てなし)

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