わいの平成詩史10

朝思いついたことをババっと。
(こう書いたものの、10月24日の朝〜10月26日の朝まで書き継ぐことになりました)

わたしがネットで詩を読んでたとき、大抵「とある人の詩がおもしろい」→「日記がおもしろい」→「周りがおもしろい」の流れが多かった。
類友というか、サジェストというか。



(今でもやろうと思えばできるんだろうけど)できないと思うのは、静的なサイトを、こっそりと読みに行っていることを、互いに密かに知っているかたちの読者共同体をつくる(想像する)ことだろう。
今はDiscord的な、半閉鎖的なコミュニティ、つまりHTML的な、インフラと化したネットとは別の形態のネットが求められてはいるが、結局そこでは密かな動きは観測され得ない気がする。
お互いがある程度の同質性(リアルな地縁とは比べるもなく小さな)をもった状況下で、ある一定範囲内(クラスタ内)で少しずつ違うものを選択し続けていると想像できること。
余計な人物の事前排除・選別と、半閉鎖コミュニティ内での規律や意識の引き締まり、あるいは緩み。



半閉鎖コミュニティを、あくまで最後まで、仮想的に使い潰そうという意識。これはマンションの大規模修繕と、それに対する高齢者の意識にも少し繋がるようにも思う。

半公共的ではあるが、ある種の契約関係を結んでおり、自治は行われているが、その躯体の永続を願うわけではないし、そのための(これから住む人のため、住んでいる人たちの暮らしや資産価値向上や維持のため)これから死ぬ人間が出費を重ねる意義は、公共性に身をおかないと発生し得ない気がするのだが、ただマンションの公共性というものは、半公共であって、自分自身の死と、マンションの維持管理の関係をどう捉えるかによって、いやどう捉えても自由なはずなのに、放棄するような身振りをゆるそうとしない。「それはとても貧しい姿勢だ」とでも言ってしまいたくなってしまう。自分が存在する期間だけ保てばいい、という発想。



SNSでは、当然のように相手が見ている画面が違う(カスタマイズされてる)ことを知っている。それを前提にものごとを考える。

「こういう人をフォローしてるってことは…」「こういうのに"いいね"するってことは…」といった、属性の想像が促進される。

身を突き合わせると、そういった属性の想像は一旦保留される。それから、会話や仕草などによって、別の情報の筋から再開、補完される。

読者共同体ではなく、個人としてのイデオロギーやフェチの推測だけが捗る。

マスクに隠れている顔の部分みたいなものかもしれない。何を信じているかではなく、何を見ているかだけ。どちらがマスクされているか?による違い。そのマスクしている方面によって、わかることもある。

リアルほど矢継ぎ早ではないから、一旦留保したうえで自身の情報の取捨選択を行い、自己ブランディングができる。まあどこまでいっても自己ブランディングでしかない



静的なサイトの読者共同体には「答え合わせ」がない。アカウントがないから。アカウントがないと存在できないということがない。身体とサイトだけがある(あいだにはプロバイダとの契約があり、IPアドレスがあるが)。



答え合わせがあることが例外という考え方。本来であれば会わないし、それで当たり前という考え方を前提に生きている人。

例外だけに嬉しい。
マスクされた部分を見にいくこと。
けど、ほとんどが期待はずれに終わる。そのあとまだ越えられそうなほど思いが残っていて、お互いを受け入れられそうでなのあれば、その先に進む。



また、そういう時間がすべて終わったあとでも、また会うこともできる。

たぶん、そっちのほうが大事。性欲が終わったあと。

希死念慮が終わったあと。



読者共同体は、もっともっと後にも会うこともできるし、会わないまま終わることもできる。

会うことによって、同じものを見るようにするか、すでに会っている範囲で満足するか、同じものを見ている人がいる想像で過ごすか。



同じものを見ているというのは幻想なんだけど。

インターネットで静的なサイトを読んできた人と会って話した感触だと、会うと、読者共同体だと思ってたものは完全にズレてたことがわかる。

そこは読んでるのにそこは見てなかったのか、みたいな。
名前は「そうそう!」するけど、その人のその詩は知らないとか。
そして、そういうわたしは知ってるけどあなたは知らない詩が心を打ってることが多いし、ひとつの詩で打たれてる人もいれば、もう少したくさんの詩(詩人)で打たれてる人もいる。
なんか話せば話すほど話が合わなくなってくる。
自分とぴったり同じ経験なんかしてる人なんかいるわけないんけど、静的なサイトを見ているうえでは、なぜか同じようなものを読んできたのだから、もうちょっと話が合うかのように錯覚(していないつもりだったけど)してしまっていた。

会って同じものを見るより、ひとりひとりが別々の場所で同じはずのものを見ているときのほうが、誤解が大きい気がする。

表示(ディスプレイ)は同じ(とされる)ものを出力しているのだろうけれども、それのどこに着目したのかとか、こまごました細部がまったく違う。
行き着いたURLだけが同じだけであって、
たどりつきかたや、たどりつく経緯はまったく違う。この誤差が膨大で収拾がつかない。
同じ場所で同じものを見る場合、いや同じ場所で違うものを見ていたときでもなんとなく諒解できることが、できない。

そもそもが表示時間、つまり興味をもったページに留まった時間が違うし、そこで読み込み具合もそれぞれで、詩になればどう読まれたかも全然違ってくるわけで、まあ話があうほうが奇跡みたいなところもある。
むしろ同じところで同じことをやっていると思ったほうが、意識のズレが少ない気がする。

というか、そもそも会う必然性がない。

細部がどうでもいい人は強い気がする。でも本人は弱いと思ってる気がする。

読者共同体には答え合わせがの機会がない(というか必須条件ではない)ことと、インターネットのように、表示の切り替えやハイパーリンクによって飛び移りの容易なメディア(組み合わせの複数性や、オーサーの複数性や更新や削除による刹那性)によって育まれた記憶に対する、潔さや諦観を持ってる。
簡単にいえば、どうやったって収拾がつかないことをずっと前から理解しているし、それを前提に生きてきた。そこに拘泥するってことは、その生きてきた前提にちゃんと帰属できてないという意識があるのではないか。

これは「ネットなんかやってないでちゃんと人生やれ、外にでろ」みたいな発想とそんなに違くない。

ミサトさんも言ってたが「あんたまだ生きてるんでしょ? だったらしっかり生きて、それから死になさい!(うろ覚え)」みたいな発想である。

もっと言えば、今の自分に・暮らしに・人生に満足してない。あるいは暇。

か、研究とか追究みたいなことをする素養、能力を持ち合わせていない。

なので、「みんなどこに行ってしまったのか」という感覚が拭えない。

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